映画/演劇/音楽批評03(〜2011年11月4日更新) トップページへ戻る


映画/演劇批評01(〜2004年12月17日)

映画/演劇批評02(〜2006年12月28日)

イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』(ポーランド 2010年)
 ヴェニス審査員賞というだけでこの映画をみたのですが、ヴェニスの頽廃を実感させられました。アフガンで米軍に追われるタリバン・ゲリラのひたすらなる逃亡に焦点をあててえがきます。圧倒的な物量を誇る米軍の拷問を批判しているのか、イスラム原理主義批判なのか、それとも追いつめられた者の家族への愛情を根拠にしたあくなき生命力を描いたのかなのか、よく分かりません。逃亡の過程そのものがすさまじい生存への意欲をあらわしていますが、そうなると遭難ものの極限状況を描いた薄っぺらな生命力讃歌です。ようするにこの監督は、現代ポーランドの社会主義離脱後の混迷を主観主義的に耽溺しているようにみえます。あるいはポスト・モダンの逃走論なのでしょうか。逃亡の果てになにがあるのかも一切問わず、途中で切ってしまい、観客は置いてきぼりです。ポーランド映画はたしかに今までも、不可解な迷宮のような作品があるのですが、アンジェイ・ワイダ後のポーランド映画のニヒリズムの反映であるのでしょうか。エッセンシャル・キリングとは不可避の殺人という意味なのでしょうが、監督の思想的視野が狭すぎて、自閉的な自己満足に終わっています。あれこれとストリーや描写の技術を云々する前に、監督の思想的なゆきづまりが露呈されています。こうした作品に審査員賞をあたえるヴェニスもなんとしたことでしょう。なにか深い哲学でもあるとみなしたのでしょうか。お笑い千万です。世界をもっと本質的に鋭く見つめる視点が求められます。意外と若い人に人気があるのでしょうか、映画館は若者が多い。シネマテークにて。(2011/11/4)

ミシェル・オゼ、ピーター・レイモンド『グレン・グールド』
 20世紀の著名なピアニストであるグレン・グールドの本人と周辺人物を主体とするドキュメンタリーです。編集が素晴らしく白黒とカラーを織りまぜながら、グールドの本質を浮き彫りにしようとします。私もグールドのCDは3枚ほど持っているのですが、斬新な奏法の天才製は理解は出来るのですが、やはり感性的に共感ができませんでした。この映画でその理由が分かったような気がします。それは、クラシックを北米的なモダンなジャズ感覚で再編成したのがグールドであり、それはリズム主体に他ならなかったのです。グールドは自分の哲学を表現したといっていますが、それはあまりか的な感覚に他ならず、欧米的なヒューマンな深みがありません。なるほど天才ではあるでしょうが、それはあくまでもアメリカ的感覚に他ならなかったのです。映画館はピアノ・フアンの中年女性でウイークデイにもかかわらず、かなり混んでいました。シネマテークにて。(2011/11/2)

エミリオ・アラゴン『ペーパーバード 幸せは翼に乗って』(スペイン 2010年)
 いやいや、またも反ファッショを描いた映画ですが、はるかにユーモアとペーソスあふれるヒューマン・タッチの映画でした。スペイン内戦からフランコ独裁に到るスペイン民衆の心性が旅芸人に仮託されて、みごとに展開されています。一部に演出上のくずれがありますが、そうしたものをうわまわる人間讃歌です。欧米ではパントマイムや手品などの芸人が一定のステイタスを確立し、みずからの職業に対する強いプライドをもっていることが分かりますが、そうしたプライドが反独裁とむすびついて、人民戦線運動の基盤をなしているように思います。それぞれの人物がステロ・タイプではなく、重層的な深みを持って描かれているのでよりドラマを盛り上げています。それにしても最近の欧米映画は、ナチスや独裁をふり返るテーマのものが多いのはなぜなのでしょうか。おそらく新自由主義で傷みきった人間の連帯のようなものが、豊かに残っていた時代へのオマージュを通して、現代の乾いた時代を批判しているのでないでしょうか。名演小劇場にて。観客10数名。(2011/10/3)

ジョルジョ・デイリッテイ『やがて来たる者へ』(イタリア 2010年)
 ウーン、久しぶりに映画らしい映画をみたような気がします。ナチス占領下のイタリア・レジスタンスの虐殺を描いていますが、けっしてメッセージ映画ではなく、静謐で抑えたセピア色の画面が素晴らしく、また演出を感じさせない徹底したリアリズムの手法の表現が素晴らしい。現代日本では、シュールな映像や情感に耽溺する映画がもて囃されて、リアリズムは見る影もないですが、イタリア映画はやっぱり戦後のネオ・リアリズムが現代においても脈々と受けつがれているのです。ハリウッドとアメリカン美学を軽蔑する欧州文化の底の深さを思い知らされました。リアリズムの表現力に改めて自信を回復させられた気がし、また歴史の記憶と罪責がきちんと定着している欧州に敬意を表します。しずかにこころの底から観客に事実を淡々と見せて、なによりも戦争への否定の心性を定着させる表現のちからに、福島後を生きる日本は秘めたる決意のようなプレゼントをもらったように思います。しかし監督は、戦争の傷みが継承されていくことにけっして楽天的ではありません。広島を経験した戦後日本はいったい何をしてきたのかと問いかけています。ここらがまた凄いのです。名古屋・東宝試写室。(2011/9/28)

ロマン・ポランスキー『ゴーストライター』(英・仏・独 2010年)
 これがポランスキーなんだろうか? 英国政府の主要閣僚がCIAのエージェントでとなっているサスペンス映画ですが、描写はいかにも通俗的でサスペンスにもなっていません。英国政府の頽廃を鋭く暴く政治映画にした方がヴィスコンテイ『地獄に堕ちた勇者ども』にもなりえたのではないでしょうか? いずれにしても二流映画にすぎませんが、なぜベルリンは最優秀監督賞を贈ったのでしょう。単に英国の頽廃を描いたのであれば、ベルリンの水準も問題です。観客20数名。パルコ劇場にて。(2011/9/27)

ウオルフブング・ムルンベルガー『ミケランジェロの暗号』(オウストリア 2010年)
 『ヒトラーの贋札』の監督が、ふたたびミケランジェロの失われた名画をめぐって、ナチスとユダヤ人の相剋を描く通俗的なエンタテイメント映画です。ドイツ系が多くドイツ語が日常言語としてあるオウストリア・ウイーンを舞台にくりひろがられる活劇と言っていいでしょうが、背景がナチス支配のウイーンですので、それなりにナチス派がオウストリア下層階級のルサンチマンを基礎に勢力を拡げたことが分かります。ナチスによる占領地での美術品掠奪はよく知られていますが、平時におけるユダヤ人の上流階級生活とそれに沈積するオウストリア人の友情と敵対が描かれますが、脚本に人間の深層に迫ろうとする深みがありませんので活劇に終わりました。ミケランジェロに象徴される芸術の本当の守護者は誰であったか、を突っ込んで描けばかなり面白いものになったと思うのですが、やはり脚本と監督の思想性の限界でしょうか。いつまでもナチスを利用して映画をつくれば一定の観客動員が可能である欧州の文化水準が映し出されています。ミリオン座。会場がほぼ満席なのは驚きました。(2011/9/17)

スサンネ・ビア『未来を生きる君たちへ』(デンマーク 2010年)
 ウーン、、デンマーク映画とは何年ぶりでしょう、思い出せません。ひょっとしたら初めてでしょうか。なにか哲学的な解明を迫られるようなシリアスな映画です。暴力とは何か?いわれ無き暴力を受けたもののとるべき態度は何か? 屈辱の癒しはあるか? アフリカ大陸の原始的な剥きだしの暴力と、デンマークのイジメの暴力を対比的に描きながら、暴力の連鎖から抜け出す方途を探ろうとします。妊婦の胎児の男女の性をめぐって賭けをおこない、実際に妊婦の腹を割いて勝ちを決め、少女の死体を強姦するおぞましいアフリカの暴力にたいし、心理的に追いつめていく先進国の暴力の野蛮に本質的な差異はないというように思えます。あなたは自分が理由なく暴力をふるわれたときに、屈辱に打ちひしがれながら、ほんとうに仕返しをする気持は生じませんか? 人間の尊厳が侵されたときに、どう行動すべきですか? 高度福祉社会を構築しているはずのデンマークでイジメが蔓延し、見て見ぬふりをする構造は市場原理の横行する日本とほとんど変わりません。なぜ高度福祉社会の自殺が多いのかの理由も浮かびあがってくるようです。ナチズムの暴力もまた同じなのです。この映画は重い哲学的な問を残す本格的なリアリズム映画です。日本的な情緒主義と無縁な乾いた描写も、文化の違いを感じます。原理主義批判のメッセージも込めているようです。パルコ劇場。(2011/9/10)

イッツ・フォーリーズ『ミュージカル 天切り松〜人情闇物語』(名演9月例会)
 江戸末期から明治・大正にかけての掏摸の世界を生き抜いた仕立屋銀次、目安の安吉など任侠の世界を描いた異色のヒューマンドラマですが、こういうアウトサーダーの世界を弱者に味方する義賊的にるというのは大間違いで、彼らは権力の補完者として権力秩序を裏から支えた集団であったのですが、ピュアーさをもちあわせる独特の裏秩序で、民衆のルサンチマンの共感を得たのです。こうした裏街道の本質に迫り得たらより深い描写になったでしょう。こうした演劇をとりあげる勤労者演劇運動って一体なんでしょう。シナリオと演技はさすがプロという完成品です。名古屋市民会館にて。(2011/9/9)

ローズ・ボッシュ『黄色い星のこどもたち』(2010年 フランス・ドイツ・ハンガリー)
ナチス占領下のフランスで、ペタンのヴィシー政権がおこなったユダヤ人の逮捕と収容所への移送は、現代フランスの恥部であり、フランス映画にはあまり描かれなかったように思う。これは、フランスの過去の罪責に正面から挑んだ作品であるといえよう。ナチ最高指導部やペタン、フランス警察のユダヤ人迫害のシーンを織りまぜながら、市民の日常でなにが起こったかを緊迫した映像で描いています。ユダヤ人への偏見を持つフランス人や、逆に支援するフランス人や、内省する軍人などフランスの多様な側面が描かれています。こうしたみずからの過去の罪責をきちんと描こうとするフランスの社会的な知性の水準がうかがわれます。日本に置き換えれば、日本人の在日朝鮮人に対する差別を、日本人が正直に描くと言うことですから、現代日本ではほとんど期待できない映画でしょう(『パッチギ!』ぐらいか)。しかしフランスにも排外的な国民戦線などという勢力が一定伸びているのですから、事態は複雑です。名演小劇場にて。(2011/9/6)

燐光群『だるまさんがころんだ』(名演例会)
 開幕の地雷の大音響に肝を潰すような驚愕を味わって、地雷と戦争をテーマとする多様なシーンが繰りひろげられます。少しアヴァンガルド的な演出はさすが坂手洋二っていう感じで、鋭い感性に久しぶりの昂奮を覚えました。2時間を超える1幕物というのも疲れを通り越して、俳優陣の素直な演技に引き込まれます。こうした演劇が日本で一定のメジャー的な存在となっている点に、日本の演劇はまだまだ捨てたものではないという異時間の経験となりました。天皇の戦争責任をテーマとする演劇が公共空間で成立するなど、坂手氏の世界に大いに興味をそそられるものです。名古屋青少年劇場にて。会場は中高年で満席ですが、おそらく若者にもかなりフィットする演劇です。(2011/8/30)

新藤兼人『1枚のハガキ』(近代映画協会 2011年)
 近代映画協会という独立プロダクションがいまだ存在していることが驚きであり、また昨日の13日のNHK・BSで新藤監督の1時間インタビューで、100歳になんなんとする監督が発する言葉の重さに打ちひしがれるような崇高さを感じて、今日14日の鑑賞とはなったしだいです。映画館は中高年で満席でした、というか足元の覚束ないお年寄りもいて、少々粛然たる思いでした。海軍に召集された部隊が、上官のくじ引きによって生死の運命が分かれ、100名のうち数名が生き残るという新藤監督自身の原体験をドラマとしてふくらませたものでした。”今日は村の祭りですが、あなたのいない祭りなんて、なんの風情もありません”というハガキを受けとって戦死した戦友の未亡人に、そのハガキを届けることから物語が始まるのですが、新藤監督の視線は徹底的に戦争に弄ばれて犠牲を強いられた無辜の民衆の心性にあり、そこを知識人的な視点で乗りこえるような素振りは排除しています。踏みつけられ、虐げられていく民衆の視点に恐るべきこだわりがあります。
 まず無条件に肯定しなければならないのは、100歳に迫る人間が頭脳活動を維持してシナリオを書き演出したという点です。66年を経てこうした戦争の被害体験を連綿と綴るということは、死ななくて生還した者のいまもって抱えている後ろめたさの感覚に他なりませんが、こうした感覚は戦争体験者以外には難しいのではないかと思います。演出も過剰な表現が目立ち、また流れの破綻がありますが、さらに加害意識がまったくないことも海外に出展した場合には問われるでしょう。そうした問題点はおいても、100歳を迎える人間が最後のメッセージとして発する戦争の真実には、後継世代として頭が下がります。名演小劇場にて。(2011/8/14)

マルコ・ベロッキオ『愛の勝利を  ムッソリーニを愛した女』(イタリア 2010年)
 独裁者ムッソリーニが左翼からファッシズムへと変貌していく過程を支えた最初の愛人とその息子の狂気にいたる情況をファナテックに描写する美学が魅力的ですが、それはまさにファッシズム美学の妖しい美しさに他なりません。とくに印象深いのは、イタリア未来派のマリネッテイの先鋭的な絵画展をムソリーニが見学に行って、アジる光景でした。イタリア未来派は、危機の時代に先端的前衛をファッシズムに求めていく様相は、イタリア民衆が左翼から雪崩を打ってファッシズムになだれ込んでいく心性の局面をリアルに映しだしていました。この映画は一見すると、ムソリーニを愛した1人の女性とその息子の狂気の愛を描いているかのように見えますが、じつはイタリア民衆の追いつめられたファッシズムへのなだれ込む心性の醸成を描いているように思います。
 この監督の現代を見る目がどこにあるのかよくわかりませんが、基底にはファッシズムの狂気の美の世界を描いて現代への警告とも解せますが、じつは愛情のピュアーな姿の歪みの極地を描く唯美主義映画かも知れません。こうしたポピュリズムの美は、現代日本にも通底するものがあります。しかし20世紀のもっとも劇的な時代を本格的に描いた劇映画として、イタリア映画の底深い表現があり、最近の日本映画界では描けない世界があります。いつもと同じく、絶賛の嵐である日本映画批評の水準の貧しさが浮き彫りとなっています。この映画が問いかけているのは、左翼とファッシズムの心情的な基盤が類似していることの提示にあります。どうしようもないのは、極右的な視点からこの映画をみる日本の無頼派批評の底知れぬ頽廃にあります。俳優陣の演技は何れも素晴らしい。ミリオン座にて。観客10名弱。こうした濃密な映画は日本ではもはや見る者は少ないのでしょうか。(2011/8/8)

モハメド・アルダルジー『バビロンの陽光』(イラク 2009年)
 なんとも重い映画です。おそらく中東アラブの現在が背後に押しよせて、ある家族に象徴されて、問いかけてくるかのようです。じつはイラク映画はみた覚えがありません。なにしろ03年以降3本しかつくられず、イラク映画システムは崩壊しているのですから。この映画は、過去40年間で150万人以上が行方不明となっているイラクの政治的実態がバックにあります。年老いた祖母と孫の少年が湾岸戦争時に行方不明となった息子(父)を探す旅を描いたロード・ムービーですが、朝日新聞の映画批評が家族愛を描いた者と評価しているのには驚きました。家族愛はもちろんですが、この映画は家族の悲劇的な離散をもたらしたイラク・バース党支配とクルド民族抑圧、そして大義なき米国のイラク侵略に翻弄された民衆の視点に立つ告発の映画なのです。累々と横たわる頭蓋骨の光景はカンボジアのポル・ポトを想い起こさせる大虐殺であり、父の頭蓋骨をなでる息子の痛ましさは言葉にはできない痛々しさです。祖母を演じた女性は、自分自身が政治犯として懲役に服し、そのあいだに夫や家族を迫害で失った人だそうです。この映画は外国人のスタッフが危険に曝されて、手を引くなかでつくられたそうですが、最近あまり伝えられなくなったイラクの内実に迫り得ています。シルバー劇場にて。観客10名弱。(2011/8/7)

ドロタ・ケンジェジャフスカ『木漏れ日の家で』(ポーランド 2007年)
 アンジェイ・ワイダの社会派本流しかほとんどみたことがないポーランド映画に、このようなヒューマン映画あろうとは知りませんでした。体制の激動のなかで生きてきた民衆の日常生活が奈辺にあったかをしみじみと共感的に理解できる映画です。それにしてもポーランド民衆の尊厳とか矜持の深さが、取るに足らぬホームドラマのなかで描かれますが、それにしても冷戦崩壊後の市民生活の格差や世代間の断絶が先進国共通の普遍的な現象としてあり、また未来への希望を子どもに託すという点でも似ています。人生の晩年をどう生きるかということに主題が絞られていますが、じつはその底に現代史の激動があるのです。ポーランドが、市場原理主義の分裂をともないつつ成熟した社会に向かいつつあることの表現であるかも知れません。パンフではやはり佐藤忠男氏の批評が抜群で、他の人はピントがずれた自己満足で、日本の映画批評の貧困の酷さが心配となります。名演小劇場。中高年女性が意外と多く驚きました。(2011/6/29)

トマス・ヴィンターヴェア『光のほうへ(原題 SUBMARINO  潜水艦)』(デンマーク 2010年)
 スカンジナビア・モデルといわれる福祉先進国・デンマークの底辺がえぐられています。アル中の兄と薬物中毒の弟とその幼い息子の3人が、生きていく過酷な状況は、福祉の裏にある自殺率の高さを象徴しています。コペンハーゲン中央駅の裏のヴェスタブロ地区は暴力と薬と売春が横行する荒廃した街だそうですが、弟の生きる場所はここです。デンマークには5000人のホームレスが居るそうですが、多くは障害年金手当(26万5000円!)か生活保護(月額16万円)で、シェルターか公営賃貸住宅の減免措置を受けて生活していますが、明日への希望はないのです。空き缶はデポジット制で回収箱に入れるとビール瓶15円、炭酸飲料25円がその場で戻ってきます。戦争や内戦の渦中にある国の自殺率は低く、先進国ほど自殺率は高いという実態の背景に事実を持って迫ろうとしています。パンフではデンマーク在住の鈴木優美さんだけが社会的真実を述べ、他はすべて抽象的な孤独や愛という視点から論じて日本の映画批評の貧困はますます極まっています。兄弟と子どもの俳優の演技がすばらしい。名演小劇場にて。観客10名弱。(2011/6/25)

マイケル・マドセン『100,000年後の安全』(2009年)
 高レベル放射性廃棄物の最終処分を鉱山の地下深く、なにか地下要塞のような所で10万年間保存するように設計していくフィンランドのドキュメンタリーです。なにかSFチックな雰囲気がただよっていますが、すでに原発の地獄が地球の数万年後の世代に、取りかえしのつかない罪をいまなしつつあると云うことが分かります。日本は米国と一緒に、モンゴルに最終処分場を求める交渉をしているそうですが、原子力帝国主義の極地といってよいでしょう。ただこのドキュメンタリーは、非常に詩的な映像で、BGMにすばらしいアリアがながれるために、極限のシビアーさが芸術的に昇華されています。名古屋・シネマテークにて。補助椅子まで出す超満員には驚きました。(2011/6/16)

パーシー・アドロン&フェリックス・アドロン『マーラー君にささげるアダージョ』(2010年 襖)
 後期ロマン派の作曲家グスタフ・マーラー(1860−1911)の生誕150年と没後100年を記念する映画です。マーラーよりも、むしろ妻のほうに焦点を当てた愛憎の物語であり、それ以上でも以下でもありません。マーラーの創作意図や、時代精神との社会的関連は一切カットされて、ただの夫婦の愛憎物語に堕しているのが非常に残念です。しかしなぜか芸術家を描く映画は、このような愛憎の世界に絞り込んでしまい、マクロな世界をすべて捨象しますので、ほんとうに芸術家の震央に迫り、評価するものとならないのです。名古屋・シネマテーク。観客10数名。(2011/6/15)

マルコム・クラーク『ナチス、偽りの楽園ーハリウッドに行かなかった天才』(米国 2003年)
 ドイチ系ユダヤ人で舞台や映画で活躍したクルト・ゲロンの生涯を描きます。私はこのユダヤ人のことを初めて知りましたが、テレージエッjシュタット収容所で国際赤十字の査察向けにつくられた楽園映画の監督をした人のことでした。当時の記録フィルムを交えながらの、ドキュメンタリータッチの再現映画ですので、多少の説明性がありますが、ポイントはナチスに協力してもなお映画制作を試みたい芸術至上主義者として、突っ込んだ内面描写がまったくなく、事実の羅列と紹介に終わっていますので、深い感動をもたらすようなものではありません。しかしなお、こうした映画に制作費を出すハリウッドの経営の思想は称賛されるべきものと思います。名古屋ミリオン座にて。観客10数名いましたが、こうした映画に関心を持つ人がいることに少し驚きました。(2011/6/14)

アク・ロウヒミエス『4月の涙』(フィンランド 2009年)
 フィンランド映画って、カウリスマキがそうでしたか? しかしこの映画フィンランド現代史をバックにした本格的ドラマでした。1917年のロシア革命を契機に、白衛軍と赤衛軍の内戦があったと言うことは初めて知りました。この映画はどちらかというと、赤衛軍のほうに親和的な描写でしたが、内実は男女の愛とヒューマンであることが、戦争の狂喜とカオスのなかで追求され、シェクスピア的な葛藤を描いています。皮相な加害のみの日本の現代史からは、やっぱり皮相な人間しか生まれないことが、福島原発事故で露わとなった狂想曲で情けないほどに分かりますが、欧州はいずこの国も熾烈な歴史を刻んできたのです。ただ私は、歴史をバックとして個人の性愛を浮き彫りにする手法は限界があるように思います。名演小劇場にて。会場7割。旧同僚のS氏と会う。(2011/5/21)

俳優座『リビエールの夏の祭り』(名古屋市民会館)
 アンリ・コルピ『かくも長き不在』という有名な映画の翻案劇です。私はこの映画を世界映画史上のベストテン・トップに置くほどに傾倒していますので、かなり期待を持って観た次第です。吉永氏の翻案は東京の下町のシベリア抑留帰りの兵隊に置き換えて、夏祭りをバックにかなり良くできたシナリオとなっています。しかし原作は、おそらくレジスタンスが拷問で記憶喪失になって、ファッシズムに対する静かな怒りがこみあげてくるような素晴らしい脚本でしたが、この翻案はシベリア抑留の悲惨を暗示していますので、ごく普通の嫌戦劇になってしまい、残念です。最後の絶叫シーンも台詞が長すぎて、象徴力の圧倒的な迫力を失ってしまいました。映画のしみ入るような反戦と反ファッショの芸樹的形象はありません。現代日本の表現ではこれが精一杯なのでしょうが、あえて挑んだ俳優座の志には敬意を表します。名古屋市民会館にて。開場満席。(5月19日)

ニキータ・ミハルコフ『戦火のナージャ』(原題・太陽に焼かれて2脱出)
 久しぶりに本格ドラマをみた。いうまでもなく現代ロシアを代表する監督の、反スターリン主義戦争映画である。英語の原題がエクソダス(脱出)というのも面白い。こうした大河ドラマは、チマチマとした狭い日常世界を描く日本映画のもはやとても及ぶところではなく、8年間という撮影期間も世界にはありません。内容は、スターリンノ粛清を受けた軍人の家族が、KGBにつきまとわれながら、独ソ戦の渦中を生きるというものであり、ハリウッド的な戦闘シーンと戦場の残酷さがふんだんに登場しますが、なんといってもミハルコフ独特ののロシア・リリシズムたっぷりの溢れる詩情と印象派のような美しい絵が交錯して、堪能できます。しかしパンフに載っている2人の評論家の解説は日本の映画批評の水準がどんどん貧しくなっていることを示しています。作品分析の基本は創造思想とその表現技術にあるのですが、思想分析はとっくにできなくなり、技術分析に移行しましたが、いまや技術分析能力がなくなって、高校生レベルの印象批評に過ぎません。
 この映画はミハルコフがプーチン主流派として現代ロシアの中枢にいることをしめしていますが、そのポイントは反スターリン主義から反社会主義へ、そしてロシア正教の宗教を基礎とする民族主義的な資本主義への傾斜を示しています。しかしミハルコフのすごいのは、その基底にある反戦ヒューマニズムであって、そこにこそこの映画の普遍的な意味があります。冒頭の上映開始で機械のトラブルがあり、終了後に無料招待券が配られました。かっての同僚のK氏と再会しました。。名演小劇場にて。(2011/5/16)

アピチャポン・ウイーラセタウン『ブンミおじさんの森』
 ひさしぶりに映画をみた。これほど映画をみない日々を過ごしたのは。おそらく初めてではないでしょうか。カンヌ映画祭パルムドールというからには、小栗康平に似た静謐な映像とオリエンタリズムの融合した映像美の世界と思いきや、アニミズムたっぷりの幻想世界がリアリズムそのものの音響とあいまって、ポスト・モダンの疲れきった心性を包み込んでいくような癒しの世界がひろがっています。私は1度だけタイを旅行したことがあるのですが、首都の喧噪と夜の屋台のエネルギーには圧倒されてしまい、タイのイメージはそれで終わったのですが、この映画では仏教のおそらくな輪廻の思想に彩られた別のタイの精神風景があるように思いました。しかしこの監督は、現代のタイの民主化闘争のシーンはさりげなく映像に挟み込みながら、冷ややかに見る姿勢があるように思われましたが、私の誤解でしょうか。アジア的なメランコリックな瞑想的映像は、欧州の疲れた感性には惹きつけられるものがあるのでしょうか。名演小劇場。(2011/4/30)

こんにゃく座『オペラ 変身』
 フランツ・カフカ原作の実存主義小説『変身』の日本語版オペラで、作曲は著名な林光であり、開演前に30分のトークがあった。かなりのおじいさんであった。久しぶりのシリアス・ドラマなので興味深くみたが、原作を初めて読んだときの衝撃はなかった。なぜ日本語版オペラなのか分からない、オペラでなく普通のアバンギャルド劇のほうが衝迫力があるのではないか。或いは中劇場ではなく、小劇場で上演すべきではないか。人間が虫に変身するという実存的不安というテーマが、現代日本にはもはやマッチしないほどに疎外は深化しているのだろうか? 大震災で見通しが利かなくなった日本でこの演劇はどういう意味があるのか? 日本人の発声そのものが細いうたごえでオペラに向かないような気もする。舞台装置はよい。アートピアホールにて。満席。(2011/4/28)

グザビエ・ヴォーヴォグ『神々と男たち』(フランス)
 ウーン? これが2010年のカンヌ・グランプリ作品か・・・。アルジェリアのフランス修道院で貧しい村人に医療を施しながら、信仰にいそしむカソリック修道士たちが、イスラム原理派のテロリストの迫害にどう対処していくか、帰還を選ぼうとする者やこの地にとどまろうとする者や迷いながら信仰に殉じる過程を描きます。こうした映画をみると、フランスにはカソリック信仰がかなり根づいていること分かります。修道士たちのピュアーさとテロ集団の凶暴さが対照的に描かれますので、カソリック信仰の使命感が浮き彫りとなります。フランス流のノブレス・オブリージュですが、この映画の致命的欠陥は、アルジェリアを植民地として苛斂誅求を極めたフランス現代史をまったく捨象しているところにあり、カソリックが植民地支配の一端を担った役割への自己批判がいっさいないことです。イスラム原理系のテロリストが生みだされていく社会的背景を描けば、深みが出た映画となるでしょうが、残念です。私はカソリック信仰の純潔を疑うものではなく、この映画でも解放の神学のようなカソリック解釈がありますが、そうした点をも描けばさらに深い映画となったでしょう。演出はBGMを排してリアルに内面を表現するすぐれたものでした。名古屋駅・ゴールド劇場。観客20数名。(2011/4/8)

マイケル・アプテイッド『アメイジング・グレイス』(英国 2006年)
 この映画を観て、私が最も好きな曲である「アメイジング・グレイス」が英国貴族階級のジョン・ニューメン作詩であることに少しとまどいを覚えました。この映画は英国の奴隷船貿易を廃止する運動に献身した下院議員の活動をヒロイックに描いているのですが、英国の偽善的なノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)の臭いが充ち満ちて嫌悪感を催します。ここには奴隷自身が民衆運動として解放を実現していく歴史はいっさいなく、ただ単に英国上流階級のヒューマンな献身が美化されて描かれているに過ぎません。英国映画はこのような大英帝国のノスタルジーにすがる傾向があって、はしたないとしか思われない演出があります。英国はケン・ローチ監督などの正統派映画があるのですが、一方では鼻持ちならない映画もあると言うことがよく分かります。ただ奴隷解放に果たした上流階級の良心を否定するものではありません。名演小劇場。意外と中高年観客多し。(2011/3/22)

劇団文化座『てけれっつのぱ』
 文化座の演劇思想はどうなったのでしょう。この作品は原作の選定に根本的な問題があり、それをカバーする演出にも問題がありました。明治初期の黒田清隆グループの高級官僚のまわりにいる市民たちの東京から小樽への新天地を求める生活の失敗を描き、女性の自立と身分制を乗りこえる庶民の連帯を描くのですが、如何せん企業的な自立に自閉する限界があり、また高級官僚の権力志向の描写も深みがありません。ところどころドタバタ喜劇になってしまい、完全に演出も失敗しています。下手をすれば自力で生きていこうという自己責任思想に巻き込まれるような危険もあります。文化座の思想的な貧困がさらけ出されています。明治14年の政変は権力闘争でしかなく、登場する庶民の哀感が自由民権運動の思想にむすんでいかないところに原作の最大の限界があります。下手をすると文化座は佐々木愛とともに終わりを迎えるのではないでしょうか。せめて『荷車の歌』のレベルで踏みとどまってほしいと思います。名古屋市民会館中ホールにて。(2011/3/17)

アレハンドロ・アメナーバル『アレキサンドリア』(スペイン 2010年)
 じつに面白い映画でした。古代アレキサンドリアの大図書館を舞台とする宗教間闘争と科学者という凄まじい世界が復元されています。CGグラフィックを多用していますが、かなり精細な画像で見劣りはしません。図書館の蔵書がパピルス紙への手書きで丸めて保存され、女性科学者の授業がまた興味深いものでした。科学者といっても当時は哲学者イコール天文学者であり、集う説へどう接近していくのかも興味深いものでした。ローマ帝国末期ですでにキリスト教は国教化されていますが、多神教もユダヤ教も多くいて、しだいにキリスト教が原始キリスト教を脱して権力化していく過程を描きます。敵は有無を言わずむごたらしく殺害していくさまは、現代の宗教間闘争と二重写しになり、追放されるユダヤ人は現代のデイアスポラに重なってきます。現代はアゴラ(広場)であり、ローマ帝国時代の市民の民主政に近い討議の雰囲気や、古代アレクサンドリアの都市風景など興味深いものでしたが、エンタテイメントに徹して内面描写には深みがありません。ミドオランドスクウエアにて。観客10数名。(2011/3/9)

ヤスミラ・ジュヴァニッチ『サラエヴォ 希望の街角』(2010年 ボスニワ=ヘルツエゴビナ)
 私は残念ながらボスニア紛争の真相をよく知らないままに、今日を過ごし、あらためてこの映画をみて知の限界を実感した次第です。この東欧の国におけるイスラム系と西欧系の内戦から何年経ったかも知りませんが、この映画は現代も続くその傷跡を描いています。この映画であらためて教えられたのは、イスラム系のなかに欧州文化に溶け込もうとする潮流と原理主義グループの分岐があり、それを登場人物の男女が象徴しているのです。欧州にあって一夫多妻制を実行する原理主義派の信仰にも驚きましたが、この映画はそうした宗派の差異を超えた普遍的な次元を求める男女を描いて、監督の希求をあらわしています。ボスニアの独自性にあくまで依拠して描いていますので、原理主義と現代文化が入りまじって独特の異文化共生の苦しみが滲んできますが、それを超えた異文化共生の希望については残念ながら限界があります。それはやむを得ないことかも知れません。いずれにしろこうした宗教と民族の苛烈な対立の体験をほとんど持たない、東アジアの小さな島国の私は我れと我が身にひきつけてみるのは、あまりに違いすぎる文化です。名古屋・名演小劇場。雨にもかかわらす観衆10名弱。(2011/2/28)

イ・ジェハン『戦火の中へ』(2010年 韓国)
 朝日新聞の石飛とかいう記者によれば、この映画は「愚かな戦争に突入してしまう私たちの心性を図らずも表現している反戦映画」であり、「敵の侵略で親しい人の命が奪われたとしたらどうか。それでも平和憲法などと言っていられるのだろうか」と脳天気な解説を書いていますが、こうした脳天気こそほんとうは怖いのです。この映画解説記事は、はからずも朝日新聞は憲法9条改憲に転じたことを実質的に意味しています。こうした解説記事しか書けない映画記者がもう普通になっているのでしょう。ほんとうに情けない日本文化の状況とはなっています。
 さてこの映画は朝鮮戦争時に南朝鮮の中学生の生徒が学徒兵として戦い、北朝鮮軍の南進を遅らせるという戦果をあげた犠牲的な歴史上の事実にもとづいてつくられています。もはやこれだけでこの映画の本質が浮かびあがってきます。この映画は従来の朝鮮戦争を描いた韓国映画にはなかった、大韓民国を美化する視点から描かれています。朝鮮戦争は言うまでもなく北朝鮮軍の侵攻から始まったのですが、李承晩米国傀儡独裁政権の単独選挙に対する分裂の固定化を防ごうとする南朝鮮の民主化の問題もあったのです。この映画は反共教育に汚染された学生をピュアーな祖国防衛の戦士に仕立て上げ、英雄的な自己犠牲の死を賛美することによって韓国建国への忠誠をに導くという意図がすけてみえます。北の兵士がまるで木偶の坊の人形のように描かれているのも、ハリウッドの反共映画に似ていますが、北朝鮮軍の大隊長と政治委員を対立的に描くという手の込んだ手法を用いて、北朝鮮に対する攻撃心を煽っています。
 いままでの韓国現代史を描く映画は、決して北朝鮮を単純に敵視せず、同じ同胞として分断の苦しみを共有する存在として描いていましたが、この映画はその一線を完全に越えて、韓国による朝鮮統一を指向する意図を示す完成度の高い反共エンタテイメント映画です。日本の特攻作戦に殉じた日本の若い青年を美化する映画と本質的に同じです。戦後朝鮮現代史を知らない若い世代は文句なく感動して影響を受けるのではないでしょうか。こうした映画が今つくられるのは、北朝鮮の社会主義がもはやもはや行きづまり、韓国の発展が宣揚されるという自信があるのでしょう。名古屋・ミリオン座。観客50数名。(2011/2/19)

クラウス・ハロ『ヤコブへの手紙』(2009年  フィンランド)
 フィンランド映画は初めてかなー、独特のイントネーションがただようフィンランド語も面白いものでしたが、映画そのものが気品ただよう上質なもので感心しました。登場人物はわずかに3人、いまはすべての信者が去ってしまった寒村の老いたる盲目の牧師、そこへ住み込みで働きにやってきた恩赦で釈放された終身刑の女囚、そして牧師館へ手紙を配達する中年の郵便夫だけです。ドラマは少しミステリアスなストリー展開ですが、牧師の所へ配達される手紙をめぐるヒューマニテイあふれるものです。しかしよくみると、そこには現代社会が抱えている問題が象徴的に煮込まれています。信者の去った孤独な牧師は、おそらく現代キリスト教信仰の凋落を象徴し、姉婿を殺害して終身囚となった女性はDVによる家族崩壊を象徴し、郵便配達夫は底辺労働に生きる労働者階級を象徴しています。ようするにここには、高度福祉社会を達成したフィンランド社会の先進文明の病める社会を描きながら、なおそこにいきる人間の信頼と希望、そして最後の死の瞬間をどう生きるかを描く、きわまて哲学的な映画です。素晴らしいのはフィンランドの荒涼として美しい農村風景であり、まさに中世の風景が温存されています。こうした気品ただようストレートな映画は、日本では描かれないでしょう。なぜなら、日本とフィンランドでは生きる感性がかなり違うような気がします。市場経済にもてあそばれないがゆえに、なお高度福祉社会で救われないものがあるということを、つくづくと感じます。シナリオも演出も演技もBGMPIANOも一級品で、風景も素晴らしい佳作です。名演小劇場にて。朝一番にしては10数名の観客がいてびっくりしました。(2011/2/9)

フィリップ・リオレ『君を想って海をゆく』(2010年 フランス)
 この映画はフランスで大ヒットを記録し、セザール賞主要10部門にノミネートされた意味を考える必要が、とくに日本では求められます。なぜでしょうか?それをいう前にどういう映画なのか見てみましょう。
 フランスへ密入国したクルド人の17歳の少年が、ロンドンいる恋人に会うために、なんどかの不法渡航を試み、最後にこの世を去るという物語ですが、ドーバー海峡を泳いで渡るということ自体が驚きですが、そのまえにさまざまの手法に挑戦し、はじめてこういう世界を見せられてただただ圧倒されるばかりです。少年と親しくなる水泳コーチはおそらくフランス人の良心を象徴しているのでしょうし、取り締まる警官もどこか共感の風情がただよっています。サルコジとル・ぺん派に対する監督の批判が込められているようにも思います。ただこの映画は少年の純愛と苦闘の果ての挫折に焦点を当てているので、イラクのクルド族の状況とかフランスの移民問題の背景には突っ込んでいません。観客は情感的に不法移民に共感を寄せるでしょうが、犯罪の多発に不満を持つ映画であれば容易にそちらにたなびくでしょう。しかしこうした社会は的なテーマを正面から取りあげる論争的な映画を撮影できるフランスはさすがに文化の国だと思います。想像力があれば、こうしたストーリーの背後にひるがえる星条旗の嬌笑をみるでしょう。名古屋・名演小劇場にて。朝1番で観客6名。(2011/2/2)

木山事務所『出番を待ちながら』(名古屋演劇鑑賞会1月例会)
 かって華やかななりし舞台女優が引退後に老人ホームに入所し、それぞれの栄光の記憶と失われいく尊厳とたたかいながら老後を生きる物語です。いかにも勤労者演劇鑑賞会の中高年女性が主導権を握る現状にフィットするような題目ではありませんか。しかしただそれだけのことなのです。ここには過去の栄光と黄昏のノスタルジアを生きる糧としながら、無残な老後を虚飾のうちに過ごさなければならない、敗北の老後が語られます。おそらくそれが中高年女性の共感を得るのでしょうが、それはなんら未来への展望なき自己慰安に過ぎません。最近の勤労者演劇の良心的な頽廃は恐るべき速度で進みつつあるように思います。いったい現代の演劇人はなにを考えているのでしょうか。名古屋市民会館中ホールにて。開場満席。(2011/1/20)

ミヒャエル・ハネケ『白いリボン』(2009年 ドイツ)
 白いリボンとは、子供の純粋無垢を証すものとして親が身につけさせるもののようですが、この映画では人間の悪と偽善を逆証するシンボル・イメージを持たされています。第1次大戦前のドイツの農村で次々と起こる奇怪な事件の連鎖を通して、人間の心理の闇の世界が浮き彫りとなり、すべての人が疑心暗鬼となるシニカル・シンキングの世界が浮き彫りとなります。こうした視点から人間を描いた心理劇をドイツ映画でみることははじめてと言っていいでしょう。ユング的な深層心理の世界を人間の本質としてえがきたいのでしょうか、あるいは第1次大戦前の不安な世相を描きたいのでしょうか。第1次大戦前のドイツの農村共同体の社会構造が興味を惹きました。頂点に広大な領地を所有する貴族が君臨し(映画では男爵)、それと並び立つ形で教会権力が君臨し、医者と教師が中間権力として小作人を支配するという明治期の日本のような状況です。
 人間の深層心理の闇を描く作品は数多あるのですが、この作品がヒットしたのは白黒フィルムで音楽も一切使わず、リアリズムに徹したからでしょう。しかし21世紀のいまになぜこうしたテーマを描くのか監督の意図は分かりません。昨日から降り続く大雪がのこる朝にもかかわらず、観客は6名もいました。名古屋・名演小劇場。(2011/1/17)

マノエル・デ・オルベイラ『ブロンド少女は過激に美しく』
 この監督はこの作品を撮影中に100歳を迎えたそうですが、なんとみずみずしい感性の持ち主ですね。このようなショート・ショートというか、すこしひねった佳作をよく指揮できるものと思います。内容はモーパッサンかチェホフのような人間のシニカルな面を余韻を残して描いていますが、ある少女に恋をして苦労の末に結婚にたどりついた青年が少女の汚い面を見せつけられて終わるという、なんの変哲もない物語です。まあ巨匠であるがゆえに制作資金が出たのでしょう。題名はほとんど内容と一致しておりません。ポルトガル映画って久しぶりですが、随所に西欧風の文化がうかがわれ、サロンも政治文化がただよっています。それほどにおすすめではありません。名古屋・シネマテークにて。観客4名。(2011/1/12)

ジュゼッペ・トルナトーレ『シチリア!シチリア!(原題 BAARIA)』
 『ニューシネマ・パラダイス』の監督作品を期待していったのですが、予想にたがわず、骨太の情感たっぷりのユーモアとペーソスがふんだんに織り込まれた映画で、久しぶりに堪能しました。このような叙事詩的な大河ドラマは日本では無理でしょうね。イタリアよりはるかに金持ちの日本がなぜつくれないかはおいて、なぜイタリアでこうした映画をつくれるのかを考えた方がいいでしょう。
 さて映画は監督の故郷であるシシリー島のある貧しい羊飼いの家族の1930年代から80年代の3代にわたる物語をファッシズムから解放とその後の民主化の激動の現代史を背景に描いています。例によってパンフを買い求めて評論家の文章を読むと、最近の評論の貧困が哀しいまでに顕わとなっています。この映画の最大のテーマは、反ファッシズムと戦後民主化をめぐる現代史をイタリア共産党員を対象に描いているのですが、それに触れている評論は皆無です。おそらくそういう迫り方は日本ではタブーなのでしょう。なぜ日本でこういう映画がいま作れないのかは、そこに最大の要因があるのです。トルナトーレ監督自身がイタリア共産党員であり、この映画はいまは解体してしまった共産党へのオマージュなのです。戦後民主化の時代にうずまく希望と失望の交錯したダイナミックな時代へのオマージュなのです。それは、主人公がソ連へ視察旅行へ行ったあとに、親友に「恐ろしいものを見た}ともらす場面や、共産党を改良主義と批判して登場する毛沢東主義の青年へのまなざしにあらわれていますが、ショットとしては少しですので観客は見逃すかも知れません。
 最後に幾つかの心憎い演出がありますが、これは監督の得意とするどんでん返しで、あまり過剰となると効果がそげます。音楽は巨匠のモリコーネが担当していますが、思い入れが過ぎたようで音楽なしのシーンを少し入れると、さらに効果があったと思います。最後のSTAFF紹介は素晴らしい音楽でした。名古屋・パルコ映画劇場にて。観客30数名。スパゲッテイのプレゼントがありました。原題のBAARIAは監督の故郷の街の名です。(2010/12/19)

平山秀幸『信さん 炭坑町のセレナーデ』(2010年 日本)
 九州の離島の炭坑町の少年期から青年期までの日々を回想するノスタルジックな作品です。九州風土の荒くれと義理の文化がよくでています。日本の戦後経済を支えた石炭街の文化もよくでています。会社側の人物が中間管理職を中心に描かれていますので、石炭資本の血の滴るような悪魔性はでていません。昭和38年ですから日本の高度成長に向かう絶頂期にあって、農村部から太平洋沿岸ベルト地帯への大人口移動が起こる向都離村の背後に、一人一人の哀しい物語と苦い青春があったのです。朝鮮人少年との友情をむすぶ偏見のない瞳も美しく、ようするに日本の美しい共同体がまだ生き生きとあった時代へのノスタルジーなのです。それを振り切って都会へ向かった青年たちが、その後の企業戦士になったのです。60年ー70年代の日本への監督のオマージュですが、現代の砂漠のように乾いた世相にはどうも理解できないでしょう。早朝1番で、観客はわたしを含めて2名でした。名古屋・名演小劇場。(2010/12/7)

カン・ウソク『黒く濁る村』(2010年 韓国)
 やっぱり韓国映画ってものすごい情念というかルサンチマンていうか、日本をはるかに超えるような濃密世界ですね。たしかに日本映画でも鈴木清順や『八つ墓村』の世界はあるのですが、どこかおどろおどろしい世界で終わってしまいますが、韓国映画はあくまでリアルに描きます。この映画は韓国の土俗的な風土の世界とユートピア志向がいりまじって、ミステリアスにくりひろげられますが、ベトナム従軍の傷をおった男が救世主のような役割を演じ、それをシンボルとして金儲けに励むプロデユーサーがいるのですが、実は最後のどんでん返しで女性の情念を見せつけて終わります。『シルミド』をつくった監督ですので期待してみたのですが、この監督はこうした方向へ行こうとしているのでしょうか。人間の意識下にある欲望の世界を描くのはいいのですが、韓国の出口のない様な現代の風景を凝縮しているようです。早朝1回目上映で、観客10数名。名古屋駅裏・シルバー劇場にて。(2010/12/6)

『続・我が闘争/勝者と敗者』(1961年 スウエーデン)
 第3帝国崩壊からニュルンベルグ裁判の過程を描きますが、ほとんどは強制収容所の記録です。ドキュメントとしてナチスを告発して極悪人を描くのですが、記録映画であっても、もう少し内在的な描写をしないと、現代のネオ・ナチの問題に迫れないでしょう。昨夜観たNHKの収容所の楽隊の生き残りを描いたドキュメンタリーの記憶がありますので、こうした印象を持ちました。名古屋・シネマテークにて。満席。(2010/12/5)

ルイ・マル『さようなら子どもたち』(1988年 仏・西独)
 なんかすごい年につくられていますね、この映画は。翌年にソ連・東欧社会主義が崩壊するのですから。しかも被占領国フランスと侵略国の西ドイツの合作です。この映画は監督の少年時代の自伝的要素が強いそうですが、シナリオはよく錬られて演出もていねいです。ナチス占領下のパリから疎開してカソリックの全寮制中学に通う少年と、おなじくユダヤ人という出自を隠して転校してきた少年の友情と別れの物語です。校長が反ナチで少年をかくまうのですが、このあたりにフランスの左翼カトリックの動向が示されています。しかし最後は修道院を解雇された下働きの少年の密告によって、かくまわれていた3人の少年と校長がゲシュタポに連行されます。校庭に集合させられた少年たちの前を連れ去られていく校長に、少年たちが「さようなら神父さん」と期せずして別れの挨拶がかけられ、神父が「さようなら子どもたち、また会おう」というのが最後の言葉で、4人は強制収容所で死にます。
 なんといってもナチス関連の歴史の記憶がいまもって連綿と作品化され、継承されていくのは欧州文化の現代的な重厚さを示しており、この辺が浅はかな歴史修正主義が跋扈してはばからない日本との違いです。辛く痛みに満ちた作品ですが、なぜかこころが洗われるようなカタストロフィを覚えるのです。当時のフランス中学校の授業は、就学・ラテン語・ギリシャ語・フランス語・・宗教・体育が描かれていました。ユダヤ人の少年が聖体拝受で座って口を出しているのですが、神父はパンの切れ端をわざと入れずに通り過ぎます。これはいったい何と解釈するのでしょうか。少年はカソリックを偽装して逃れようとする演技ですが、神父はそれを拒否するのです。最後のキャストの処に日本人女性の名がありました。ルイ・マル特集で今日しかやらないのですが、10名弱入っていました。(2010/11/16)

チャン・フン『義兄弟』(韓国 2001年)
 ずいぶん凝ったスパイものですが、南北朝鮮の冷戦的思考から抜け出そうとしている韓国社会の成熟を反映したエンタテイメントです。北から派遣されたスパイの若者が裏切り者とみなされて組織から追放され、他方では韓国情報部から解雇された中年の間に芽ばえる友情が、組織同志の厳しい対決から破綻しますが、最後はハッピーエンドに終わるというものです。いままでの、ハードで救いがないスパイものに較べて、なにやら余裕が感じられます。北のスパイのボスも正式の党の命令ではなく、恣意的な指導をおこなっていた者として、北への敵視を和らげており、南北宥和への配慮をにじませています。この成熟性の本質は、あらゆる組織から自立していこうとする個人を理想化するところにあり、現代韓国社会の個の成熟の問題が前面に出ているところにあります。こうした思想的分析を抜きにしても充分に楽しめる映画ですが、じっさいに南北朝鮮の民主化のために命を賭けている人にとっては、とても複雑なものでしょう。最後に二人ともが英国への脱出に希望を見いだしているところは、この映画の限界です。シルバー劇場にて。中高年がかなり入っているのは、千円デーのためでしょうか。名古屋・ゴールド劇場にて。(2010/11/1)

ストッパード『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(1990年 DVD)
 英国の脚本家・ストッパードが自分のシナリオをみずから映画化し、ヴェニス映画祭の金獅子賞を受賞した作品ですが、日本では上映されたのでしょうか、覚えがありません。シィクスピア『ハムレット』のごく一部に登場する友人ローゼンクランツとギルデンスターンを主人公にして、狂気の王子を慰安する2人が逆に王子によって殺害される運命にあるのですが、2人はそれを知らないままにアレコレとふるまっていきます。めまぐるしく場面が転換してよく分かりませんでしたが、なにやら自己の運命を知らないままに一生懸命にふるまって死んでいく不条理を描いているように思いました。台詞がかなり凝って機知に富んだものですので、ついひきこまれていきます。これはDVDではなく劇場の大型スクリーンでみなければ堪能できない作品です。ベケット『ゴドーを待ちながら』などの不条理演劇と似ています。(2010/10/29)

ウニー・ルコント『冬の小鳥』(2009年 韓国・フランス合作)
 韓国を舞台にしながら、しかも哀しみに満ちたテーマでありながら、なんと洗練された、静謐な上品な雰囲気のただよう映画でしょう。韓国映画はドラステックで骨太という感じなのですが、全く違います。パンフをみますと、この女性映画監督は孤児としてフランス人宣教師夫妻に養子として引き取られ、フランスで成長して映画界に入った経歴の持ち主です。この作品は彼女のデビュー作で、自らの経歴に題材をとってシナリオ化したものです。
 ストーリーは、父に捨てられて孤児院に収容された9歳の少女が、捨てられ、裏切られた哀しみを乗り越えて、フランスに養子として引き取られるという、ありふれたものですが、その少女の心理の深奥に迫る演出が素晴らしいし、また擬音を交えない静寂さそのものの映像で激しくこころをゆさぶられるのです。9歳の捨てられたということが分かる年齢の心理を描く至難の演出に成功しています。親からの裏切りを実感するという心の痛みは、じつは同一体験に近い実生活がないとほんとうはわからないでしょう。するとただ単なる子捨て物語りを子の視点から描いたと云うことになりますが、私は希望と絶望をこえて生きていこうとする人間の本質的なありかたを象徴しているような気がします。その向こうに果たして希望があるのかも不確かなままに、やはり進んでいこうとする人間のけなげさのような気高さを感じます。こうした細やかな映画づくりはやはりフランスのものであって、韓国のものではありません。ひさしぶりに胸にしみ入るような映像をみて、映画も捨てたものではないとあらためて感じました。日本映画で云えば、小津安二郎的世界をさらに細やかにしたと云えそうです。付言すれば、戦後韓国では人口問題と貧困解決のために、朝鮮戦争後に政府主導の海外養子政策が推進され、少なく見積もって15万人の子どもが海外にいったそうです。パンフでは日本の植民地責任にふれた人はいませんが、明らかに日本植民地主義の傷跡を背負っていきさせられた子どもたちです。名演小劇場にて。中高年の女性が10数名。(2010/10/20)

リンダ・ホーグランド『ANPO』(2010年)
 米国人宣教師の娘として日本で育ち、輸出日本映画の英語字幕などを生業としている米国人女性映画監督が、なぜか60年安保改定を中心とする日本美術と写真表現を回顧しながら、現在に至る安保を告発するセミ・ドキュメンタリーです。いまさら安保などと商業ベースに乗らないテーマで映画化する可能性がほとんどない日本の、意表をついたかたちで外国人監督が作ったことに、なぜか暗然とします。しかも監督は、日本に抵抗の運動と抵抗のアートがあったことを世界は知らないので、もはや文化遺産となった作品を紹介したいとしています。せいぜい沖縄をのぞいて安保を実感できず、世界でも特異で異常な軍事条約を知らない振りをして認めてきた戦後日本史の恥辱の部分をあばいています。みながら考えたことを2つ記します。
 第1は60年代の協同とつながりが生き生きとしていた日本の民衆の姿と、競争原理に明け暮れる21世紀初頭の現代のあまりの非対称性です。原始的貧困と人間的な健やかさは戦後のものであり、物質的豊かさの一定の実現と文化的頽廃にある21世紀初頭の非対称性です。第2は、アーテイストもまた時代の噴出するエネルギーを一身に受けてきわめて迫真的な問題提起をしていることです。監督が逃しているのは、安保期に反体制であったアーテイストがその後あっという間に体制派に鞍替えした多くの者がいると云うことであり、そのあたりを掘り下げるとさらに深い現代史ドキュメンタリーができたに違いありません。とくに歴史的には恥ずかしいふるまいをしている画家と青年期の初心を維持している画家は区別すべきでしょう。かえすがえすもこのような映画を外国人につくってもらう現代日本の退廃を嘆きます。名古屋・シネマテークにて。観客5名。(2010/10/16)

アスガー・ファルハデイ『彼女が消えた浜辺』(イラン 2009年)
 ベルリン映画祭銀熊賞受賞作というので大いに期待を持ってみました。イランではおそらく上流階級に入る法学部関係の青年たちのグループが、浜辺の別荘で休日を愉しむのですが、そこに独身の男女を紹介することが仕組まれます。女性はすでにいる婚約者と別れたがって、さそわれて断りきれずに参加します。ところがあやまって海に溺れた子どもを助けようとして、その女性も溺死してしまうのです。さてそこで、ある種のイスラム文化の規律との矛盾が露わになります。婚約者がいるにもかかわらず、別の男性と会う女性はあきらかに重大なモラルを犯し、制裁の対象となりますが、婚約者の名誉を重んじる友人は彼女のそうした背景を隠そうとします。そこにあらわれた婚約者との対話で、真実を明らかにしながら、たった一つの嘘をついてしまいます。映画は人間の尊厳と名誉をめぐる緊迫した心理サスペンスとして展開しますが、演出技術がハリウド並みの起伏に富んでいるために、ありふれたテーマなのですが引きこまれてしまいます。
 強く印象に残ったことは、イスラム文化の婚姻関係の厳格さと個人の尊厳を重視する名誉観です。婚約者以外の異性と知り合うことが重大なモラルの侵害になる文化は日本では理解できないでしょう。そしてイスラム原理主義が国家権力を握るイランにあって、かなり市民生活の近代化が進み、男女の自由な交流があること、イランの市民社会に欧米文化がかなり浸透していることに驚きました。そして現在のイランの表現の問題として、こうした個人と共同体の心理葛藤という非社会的テーマでしか映画制作はできない実態があるのではないかとすると、心理サスペンスを通しての体制批判の暗喩が含まれているのではとうがった見方もでてきます。この監督は体制批判につながる発言で次回作を禁止されたそうです。名演小劇場にて。観客10名弱。(2010/10/12)

ハル・アシュビー『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971年)
 監督は『夜の大捜査線』でアカデミー編集賞をとっているいわゆるアメリカン・ニューシネマの旗手の一人だそうです。1960年代末の既成世代に対する異議申し立て運動のヒッピー文化のアナーキーな自由の心情が痛々しく描かれています。富豪の家族に生まれた19歳の少年が、生きる意味を模索して自殺演技を繰り返しますが、ふと出会った老女の生き生きとした自由な精神に感化されて希望を見いだしていくという物語ですが、老女は最後に自死してしまいます。
 この映画の凄い点は、シナリオがハリウッド風のドタバタを織りまぜた、アッといわせるような凝った展開が多いということと、老女がナチ強制収容所の生還者であり、戦時の地獄を体験した世代とドラッグにのめりこむさまよえる世代が、生きる希望を接点につながっているという世代的連続性にあります。少年と老女が夕日を見つめながら、老女の腕に彫り込まれた囚人番号をチラリと見せる演出は素晴らしい。しかしあの少年はあの刺青の意味が分かっているのだろうか。とにかう、1960年代の希望を求めて彷徨する時代の息吹が懐かしく想い出されて、中高年はノスタルジックになるでしょう。ハル・アシュビー監督はユダヤ系なのだろうか。名古屋・シネマテークにて。観客10名弱。(2010/10/9)

ユ・ヒョンモク『誤発弾』(韓国 1961年)
 1960年代の韓国映画の名作といわれる社会派映画です。朝鮮戦争後の復員傷病兵家族の追いつめられた原始的貧困による家族崩壊を描きます。60年の4月革命で李承晩政権が崩壊し、翌年にパクチョンヒ軍事独裁政権が成立するという韓国現代史の激動の時代の渦中に作られています。原作は李範宣という作家だそうですが、私は寡聞にして知りませんでした。白黒フィルムによる演出は、なにかイタリア・ネオ・リアリスモの『自転車泥棒』とかの影響を受けているようにおもいますが、社会主義リアリズム的手法もあります。60年代韓国映画の代表的名作だそうですが、あまりに貧困をリアルに描いているために、独裁政権の検閲で最初に上映禁止になったそうです。韓国映画の戦後における水準の高さは、日本の黒沢映画に匹敵するように思います。DVD.(2010/10/5)

バフマン・ゴヴァデイ『ペルシャ猫を誰も知らない』
 この監督はなによりも『ブラックボード 背負う人』で、イランの民衆教育運動の一端をみ、『酔っぱらった馬の時間』でたしかクルド民族の密輸を扱うリアリズム映画が印象に残っていますが、これほどのアヴァンギャルド映画を撮るとは思いませんでした。イラン映画史上初めて、反体制の若者を肯定的に描いた作品です。イランのイスラム原理主義政権の下での鬱屈した表現の欲求を、ロック音楽の表現運動の緊張を描いて迫真的な映像となっています。従来の体制とは対峙しない、あるモラーリッシュな映画とは異なって、民衆の退嬰的な音楽表現の自由を希求するアウトローの世界を描いているのが注目されます。なにか欧米の1960年代に抵抗歌のロックに通じますが、イスラム原理主義政権下における文化状況のリアルな描写となっています。日本でいえば1960年代のアングラ文化運動に酷似していますが、またその音楽性が素晴らしい。石油資源を原資とする近代化・工業化・都市化による近代市民意識の醸成とイスラム原理主義革命の矛盾が、なまなましく表出しています。監督は許可を得ずに発表したこの作品を最後にイランを離れたそうです。。それにしてもイランでは、ペットは外に連れ出すことが禁止されているのは驚きでした。名古屋・シネマテークにて。観客10数名。(2010/9/27)

青年劇場『族譜』
 鋭く社会的テーマに迫るこの劇団の今回の作品は、日本帝国主義の朝鮮植民地支配の罪を正面から問いかけるものです。皇民化政策によって創氏改名を強制される朝鮮民衆の苦悩を、両班の族長の拒否行動を通して、最後は自殺に到る悲劇として描きます。植民地支配責任や天皇制の責任を正面から問う作品を上映することは相当に勇気が要ることであり、また市場的にも限界があることですが、この劇団が敢えて選んだことを評価したいと思います。絵描きの私も天皇制を正面から描画することは、残念ながら躊躇するのです。
 演出は典型的な社会主義リアリズムの古典的技法に依拠しながら、現代的な演出効果を取り入れていますが、シナリオ(ジェームス三木)に紋切り型の台詞と演技もあり、まえもって予測できるように展開していくのが限界ですが、全体として重たい政治的テーマをよくこなしていると思いました。良心的な日本人官僚のソフトな誠実なるが故の犯罪性をもっと際だたせるとよかったと思います。加害者と被害者の和解を云う前に、加害の事実と真実を後継世代が共有することの困難さと責任を強く感じました。それにしても族譜とは、日本のような単なる系図ではなく、その時代の動きを詳細に記録する歴史書でもあったのは初めて知りました。名古屋演劇鑑賞会例会(名古屋市民会館中ホール)。会場満席。(2010/9/23)

実録ドキュメント893『金嬉老 最後の証言』(DVD)
 在日2世として静岡で成長し、1968年に借金トラブルで暴力団員2名を射殺後に、寸又峡温泉で人質を取って抵抗し、在日差別を訴え逮捕される。1972年に無期懲役判決後1999年に仮釈放され、韓国へ強制送還され、2010年に82歳で死去しています。私は初めて彼が韓国で日本に抵抗した英雄として遇されたことを知り驚いたしだいです。彼は日本で生まれ育った在日として全身日本文化のなかで育ち、在日として差別され、韓国へ帰ってもじつはとけ込めず、典型的なポスト・コロニアリズムの辺境人として死んだのです。ただしドキュメンタリー自身は、犠牲的英雄として単純に偶像化し、在日の真の深層に迫るものではありません。日本人の事件首謀者への興味本位の視線が背後にあるドキュメンタリーであり、作品としては完全に失敗であり、金氏自身にとって負の記録といえましょう。(2010/9/21)

サタジット・レイ『大河の歌』(DVD)
 『大地の歌』に続く第2部とされていますが、制作は1956年ということです。インド独立から近代化に向けて、社会的変動が前近代的な家族関係を解体していく過程を鋭く、又優しいまなざしで描いています。貧しい僧侶の家に生まれた少年が、優秀な学力でカルカッタの大学に進学し、しだいに故郷と母から離れていくさまを、解説はインド近代都市における家族関係の衰退としていますが、少し違います。日本で云えば明治から昭和初期の近代化の過程で、村を出て都市に向かい、学校階梯への参入を経て、社会的地位を上昇させるというどこにでも見られる普遍的なパターンです。その哀しみをふりすてて大都市に向かう少年は、かっての日本の姿です。しかしこれが1956年制作というのは驚きで、白黒フィルムですが、映像の美しさと場面転換はなかなかのものです。さすが、サタジット・レイです。(2010/9/16)

呉徳洙『記録映画 戦後在日50年史 「在日』人物編』(DVD)
 在日の韓国系ビジネスマン組織による在日戦後50年を象徴する人物が6人登場するドキュメンタリーです。パチンコの景品交換所を経営しながら生きてきた一世の80歳の老女、成功したビジネスマンとヒットしたフォーク・ソング「清河への道」の新井英一は2世、10種競技の選手と日本TV報道カメラマンと「にあんちゃん」の作者・安井末子を母に持つ学生は3世であり、それぞれの在日体験を告白的に語りますが、シナリオと演出および現地取材が綿密になされていますので、記録映画というよりも芸術性があります。朝鮮民族の家系を尊重する大河のような流れが浮き彫りとなります。なにしろ報道カメラマンの青年は、12代前までの自分の先祖の源流をあげて、シベリアの森の中から日本列島にきたのだと自然に云います。私などは祖母祖父止まりですから驚きです。
さらに韓国系の資本でつくられた映画ですが、朝鮮籍の青年も堂々と登場しますし、北への帰還もとりあげて、けっして分裂に囚われないで編集しています。韓国・朝鮮系の未来への希望が静かに胸に迫ってきます。図書館の映像コーナーで借りたのですが、なかなかの作品です。(2010/9/15)

アラン・レネ『戦争は終わった』(DVD)
 フランスの著名な監督の初期の作品なのでしょうか。戦後に続くスペイン・フランコ独裁に対抗して、パリに亡命しているスペイン人革命家がスペインへの密入国を試みるまでのフランスの抵抗運動を描きます。抵抗運動内部の連帯と葛藤や、フランス国内の青年地下運動を背景に、自由を求めて彷徨する抵抗精神の結晶のようなあり方を、主演のイヴ・モンタンが渋く演じています。イブ・モンタンという歌手はなぜか欧州の左翼抵抗運動を描く映画に多く出演しています。
 人民戦線以降の欧州史で、フランスとスペイン左翼の人間的な繋がりの深さを実感します。あるいは文化そのものが深くつながっているのでしょうか。最後はスペイン脱出の可能性を残してかすかな希望のうちに閉じます。現代の演出と較べて、平板で類型的なところもありますが、人間同士の信頼が素朴に生きていた苛烈な時代のホッとするような暖かみを残す映画です。(2010/9/15)

クリスチャンン・カリオン『フェアウエル さらば哀しみのスパイ』(フランス)
 ブレジネフからゴルバチョフ時代へのソ連の最後の時代にあって、ソ連体制に見切りをつけたKGB高官が最高度の極秘情報をフランス情報機関にもらしていく家庭をまさしくスパイ映画の迫真的な緊張感あふれる映像で描いていきます。映像の転換と描写がモダンであり、たんなるスパイ映画の水準を超えようと努力しているさまは充分に感得できますが、残念ながらなぜ祖国ソ連を裏切るのかという肝心の点が描写不足であり、またフランス人技師がなぜそれに協力するのかという点も説得力不足ですので、007とはいわないまでもスパイ映画の通俗的な緊迫感のレベルに留まったと云えましょう。人間的な陰影の深みを刻もうと努力はしていますが、最高度の信念体系である祖国・ソ連を裏切る心情への共感を組織できたら、この映画は最高のソ連崩壊を描いた映画になったでしょう。しかしさすがフランスはこうした分野に挑戦できるのですね。早朝にしては観客10数名と多い。名演小劇場。(2010/9/13)

ルイ・シホヨス『ザ・コーヴ』
 2010年度アカデミー賞ドキュメンタリー部門の受賞作で、日本の和歌山県太地町の伝統的なイルカ猟を告発するドキュメンタリーであり、反日映画として上映が妨害されるという曰わく付きのものです。私は初めてイルカの追い込み漁法と、食用肉と水族館演技向けの販売のことを知りましたが、それ以上の初歩的な驚きは、欧米の環境保護運動による告発的ドキュメンタリーとしての質の高さと、動物保護思想と運動の広がりです。太地町の伝統的な漁労文化は、残酷な動物抹殺行為として自然破壊の犯罪と攻撃され、全世界の批判を浴びることとなったのです。動物性タンパク質をどのように摂取するかというという食物連鎖の頂点にいる人間の食文化思想そのものが問題となると思いますが、いわゆるデイープ・エコロジーにちかい欧州の環境思想の進化を思い知らされました。
 映画は水俣病と同じ水銀中毒の視点からイルカ補食を批判していますが、もし水銀汚染がなければイルカ猟は許容されるのかというと、そうでもなく人類に近い高等な海洋生命体としてイルカを位置づけているようで、映画の環境思想の基点そのものがよく分かりません。何れにしろ欧米の環境運動ははるかに日本のレベルを超えているようで、「緑の党」が日本でほとんど成長しなかった理由も分かるような気がします。国際捕鯨連盟での日本政府代表の発言も、環境保護と動物虐待の視点はほとんどなく、その点の日本の決定的遅れを国際的にも致命的といえるでしょう。この映画は、たんにイルカ猟問題に留まらず、日本型環境思想そのもののあり方を問いかけています。名古屋・シネマテークにて。観客10数名。(2010/9/10)

マルタン・プロヴォスト『セラフィーヌの庭』
 前評判もよいようでしたし、なにしろ女流画家の物語なのでかなり期待を持って観にいったのですが、残念ながら失望しました。フランスの田舎で家政婦として孤独な生活を送るある女性の唯一の生き甲斐は、深夜たった一人で賛美歌を歌いながら絵筆をとることです。貧しいなかで絵の具も自作のものですが、まるで神が乗り移ったような美しい絵を描くのです。ドイツからフランスに移り住んでいる画商が、彼女の得に注目して売り出しにかかりますが、第1次大戦で中断します。その後彼女の絵は画壇の注目を集め、女流画家として生活が一変し奢侈な生活になります。その後の世界第恐慌の不況で、また貧しい生活に逆戻りした彼女は遂に発狂して精神病院に入りますが、そのときに又売れ出した自分の絵のことを知ることはありませんでした。
 といったごく単純なストーリーであり、ひたすら画家の内面と描く衝動に焦点を当てるのですが、演出がまずくて鬼気迫るような狂気の世界にもなっていません。ただたんなる絵狂いの女性のあっけない生涯でしかありません。絵そのものも新古典派の常識的な作品のようであり、ひきこまれるところはありません。なぜこのような平板な物語になったかというと、当時のドイツとフランスをめぐる対峙と矛盾をもっと民衆レベルで描き、なぜ画商がフランスにきているのか? 画家自身と時代の葛藤が全く捨象されているがゆえに、芸術至上主義的描写が空回りに終わったからです。しかしこうしたいわゆるアート映画に映画資本が投資するというのは、やはりフランスならではのことと思います。名演小劇場にて。会場はほぼ満席。(2010/8/29)

フアン・ホセ・カンパネラ『瞳の奥の秘密』
 ウーン、アルゼンチン映画を観るのははじめてだろうか? 獄中のホモ政治犯を描いた映画はアルゼンチンだったか覚えがない。暴行殺人犯の探索と残された夫の復讐劇を主軸に、アルゼンチン司法界の恥部や警察の裏世界がえがかれ、捜査官と女性検事の愛など盛りだくさんの展開のなかで、衝撃的なラストを迎えます。いかにもラテン的な血の騒ぐパッションに満ちた映画であって、その濃密なエンタテイメントの世界を堪能しましたが、それ以上ではありません。意外と満席に近い入り。名古屋ミリオン座にて。(2010/8/28)

SABU『蟹工船』
 いうまでもなく、現代の非正規労働と格差問題のなかでなかで注目を浴びているプロレタリア文学の代表作である小林多喜二『蟹工船』の映画化です。SABUという監督はよく知らないのですが、かなり原作をモダンなシュールっぽいものへ改作しています。蟹工船の船内の作業現場もかなり原始労働っぽいものにし、演出も映像もシュールっぽくしているので、原始的労働のルサンチマンがリーダーのアジテーションで熱く暴発する、いわばサンデイカリズムのような演出です。したがって、小林の原作とはかなり異なるアナーキーなパッションを前面に描いています。一方向的な抑圧の蓄積の原初的心情の爆発として描く演出は、江戸期の一揆的な闘争で、とても近代労働の組織的な闘争ではありません。抑圧された者のルサンチマンの感情を一時的に動員はできるでしょうが、変革への組織的意志の長期的結集という小林の意図とはかなり異なります。
 いったいこのような作品になぜ資本が投資してくるのか、いまいち理解に苦しみましたが、これはかなり凝った資本サイドの映画に逆転するアート映画であるのです。WOWOUにて。(2010/8/16)

ジョン・ヒルコート『ザ ロード』
 いやはやなんというニヒリズム丸だしの映画なのでしょう。原作は07年ピューリッツアー賞受賞のコーマック・マッカーシーだそうですが、現代アメリカの底知れぬ希望の喪失と人間不信の極限状況が描かれます。米国文明崩壊後の最後に生き残ったアメリカ人たちが、世界の終末を残された希望の地をさがして流浪の旅をするという物語ですが、他者の人肉を食って生き延びる悪人とそうはできない善人の二元的な世界で、かすかな希望を残して終わるのですが、希望はもはや絶たれているのだと全員が知っているのです。
 これはおそらく、市場原理の血で血を洗う闘争の世界と化してしまった現代米国の底知れない絶望の世界を化象したのでしょう。こうした終末が実感を帯びて日常を支配し、そうした世界を描くことが全米有数の文学賞を獲得するという、なんとも無残な現代米国の退廃を移しだしています。善と悪の極限的な対立と闘争というゾロアスターのような未開の文明に米国文化は堕落してしまったのです。もはやこうした終末映画がリアルな実感を持って受けとめられるのが、ハリウッドの映画世界に他なりません。そしてまさにここにこそ、米国型市場原理の追っかけに退廃した日本の近未来があるのです。ウイークデイにもかかわらず、けっこう観客がいました。名古屋・伏見ミリオン座にて。(2010/8/5)

ローラン・カテ『パリ20区 僕たちのクラス』
 ウーンじつに20数日ぶりに映画をみることとなりました。みなさまは回心というような体験をしたことがおありでしょうか? 世の中が全く違って見えるような再生の体験とでも云いましょうか。まあそのような感じで、今週中に終わる映画はなんだろうかと考えて、この作品を選んだのですが、じつに凄い作品でした。第61回カンヌ・パルムドールはさすがにというものです。しかし、なにもハリウッドの巨大資本を投下した巨編ではなく、パリの下町のしがない底辺の公立中学校の授業風景を描いているに過ぎません。ところが、主演の教師を除いて全員がこの中学校の在籍生徒であり、その演技がドキュメンタリーとも受け取れるような、迫真的な少年と少女の演技であり、また瞬間の感情が表れた表情をとらえるカメラ・ワークが素晴らしいのです。現代のリアリズムの極地を見たような気がします。
 さてこの中学校は、植民地やアジア、アフリカ出身の子どもたちが白人フランス人と混じって学ぶ典型的な多民族の場末の中学校であり、現代フランスの移民政策によって、いかにフランス国内の文化の多様性の混在が進んでいるかを示しています。しかも、黒人もアジア人も、物怖じしない自己主張を普通のものとしたフランス的個性の文化のなかで成長していますから、教師と生徒が普通に一個の人間として授業中に応酬するのです。このハラハラドキドキするような本音の応酬が、ギリギリの緊迫感を高めて、最後のシーンにもっと生きます。教師であるならば、誰でも体験する信頼しようとするが故の憎悪という感情がむき出しになります。有色人種の子どもたちは、さまざまの屈折した成長を遂げていますから、容易に人を信頼はできず、簡単に教師を裏切り、侮辱するのですが、これは日本の中学校の風景と変わりません。最後に、庭でサッカーに興じる教師たちを応援する子どもたちの歓声が救いではありますが、教育の世界の難しさをこれほどにリアルに表現した映画は日本ではありません。日本の教育映画は、安易に感動を組織する情動的な演出が目立ちすぎるか、不信を強調する暴力映画になるかなのです。
 最後に幾つか気がついた点にふれますと、フランスの公立中学のクラス定員は20数名であること、校庭が狭いアスファルトで日本のような運動場はないこと、職員室が狭くしかしアルコールで乾杯するなどしていること、成績会議に生徒代表が傍聴参加すること、懲罰委員会に市民代表が参加し対象生徒と親がその会議に出席し弁明できることなど、さすが近代民主革命の国フランスであると思いましたが、ひょっとしたらこれは5月革命の成果なのでしょうか? よくもあしくも典型的な場末のフランス公立中学校の剥き出しの人間主義的な風景であり、日本の機械主義的な教育との大きな差異を感じましたが、教師と生徒の悩みは本質的に共通しているがゆえに、大きな感銘を与える映画となっています。観客6名。名演小劇場にて。(2010/7/30)

マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』
 それにしてもこの欧州を代表する監督は、どうしてこのような映画をつくったのでしょうか? 米国への移住ポルトガル人医師夫妻が、ポルトガルの過去の栄光を確認するためのコロンブスをポルトガル人とする新説や旧跡を尋ね歩くノスタルジックな作品ですが、それ以上でも以下でもありません。大航海時代の評価は、欧州人の重商主義への発展を照明する夢物語であると同時に、植民津主義の開始を告げる残酷な物語でもあり、コロンブスの原住民への残虐なふるまいは知られるところです。こうしたコロニアリズムへの栄光を賛美し、その郷愁にひたる主人公を淡々と描く作品は、逆に欧州文明の終焉への挽歌となっていますが、ポスト・コロニアリズムからみれば許されない心情でしょう。こうしたピントはずれの作品をどうして作ったのか分かりかねます。名古屋シネマテークにて。観客5名。(2010/7/7)

キャリー・ジョージ・フクナガ『闇の列車、光の旅』
 久しぶりに骨太の社会はリアリズム映画をみましたが、メキシコ・米国合作となっています。中南米から米国南部への移住をめざす不法移民の群れと、彼らを襲撃してカネを巻き上げるメキシコ・ギャングの葛藤を主旋律に、中南米の貧困と希望の喪失そして唯一の希望としての米国脱出を実態をリアルに捉え、原始的貧困のなかでの人間の生きる実相を突きつけてまいります。貧困からの脱出と尊厳の恢復が、ギャングという擬似友愛集団への献身と忠誠という様態はいずれの文化にもあるのですが、中南米においては独特の濃い人間的紐帯を帯びているようです。そうした退廃と戦いながら生きる根拠は、やはり家族愛と男女愛にあるようです。
 本作品は、ホンジュラスから米国への不法移民に参加する少女と、それを襲撃するメキシコ・ギャング団の少年の哀しい出会いと別れを中心に展開しますが、夜の停車場の殺伐たる風景の美しさと、田園をひたすら走る列車の映像は撮影監督の功績です。この映画の最大の欠陥は、不法移民の根源にある構造的な問題としての大土地所有制を一切無視し、さらに最近の中南米の社会主義政権の連続的誕生によるかすかな希望の兆候に一切目を閉ざし、ただひたすらに絶対的貧困の絶望と米国への脱出を唯一の希望として明らかにしていることです。これがこれがおそらく、日系3世の監督が、これからハリウッドで生き残っていくための限界を示しているのでしょう。名演小劇場にて。満席。(2010/7/3)

アンダース・オステルガイド『ビルマVJ 消された革命』
 軍事独裁政権に批判的なジャーナリストの地下組織が、民主化の高揚と挫折の一連の過程をビデオ・カメラで撮り衛星通信を経てカナダに発信されたものを編集したものです。これらの地下組織メンバーは、ほとんど逮捕されて行方不明となっています。日本人ジャーナリストの軍隊による殺害の場面も収められ、また連行された僧侶が殺害したいとなって遺棄されているシーンもあり、迫真的な現場が伝わって参ります。すべてドキュメントの編集ですので、ビルマ民主化運動の歴史と経過についてはほとんど説明されていないのが弱点ですが、民主化運動の街頭での実態は伝わって参ります。
 民主化の前衛的な主体が、僧侶と学生という途上国に特有の構造であり、軍事独裁が上からの資本主義化を推進する開発独裁という構図もまた第3世界特有のものですが、なぜビルマがいつまでも開発独裁の段階を克服して次のレベルに移行し得ないのかは、この映画からは分かりません。ビルマは戦後の初発は社会主義を名乗ってスタートしたのですが、なぜこのような硬直した時期がながく続いているのでしょうか。名古屋シネマテークにて。ウイークデイ午前中にもかかわらず、会場はほぼ満席で、若い人も多い、なぜなのかよく分からない。(2010/7/1)

イエジー・スコリモフスキー『身分証明書』
 私はこのポーランド出身の監督を初めて知りましたが、どうもポランスキー作品の脚本などを書いて映画生活がスタートしたらしい。この作品は彼の長編第1作であり、徴兵をひかえた青年のあてでもない自分探しのような生活を描き、軍隊へ出発する駅頭へガールフレンドが予期せぬ形であらわれて、救いを見せて終わるという青春グラフィテイですが、主役は監督自身らしい。ポーランド映画のヌーベルヴァーグと評せられるらしいが、アンジェイ・ワイダのよう社会主義リアリズムとの葛藤はなく、なぜこうした映画がポーランドの1960年代に撮影ができたのかよく分かりません。ポーランド文化のしたたかで、ピュアーな本質をあらためて知らされました。名古屋シネマテークにて。観客18名。(2010/6/26)

ジム・シェリダン『マイ・ブラザー』
 アフガン戦線へ従軍し、ゲリラ組織の捕虜となって惨い殺人を強いられた主人公の復員後のPTSDによる家族の崩壊をリアルに描きます。おそらく無数の事例が背後にあるのでしょうが、これは大義なき侵略軍の本質でしかありません。ゲリラが悪魔のように描かれているのが限界ですが、しかし米国または米映画界が実に情けなく、可哀相に思えてきます。侵略軍の兵士達のPTSDは、ベトナム戦争からはじまって湾岸戦争、イラク戦争と全ての戦後の米国の戦争の醜悪な問題であり、おなじような非人間的な行為をいつまで繰り返すのかということですが、この作品にはそのような米国の本質への鋭い視点は残念ながらありません。平凡な市民は祖国の要請に答えて、星条旗のためにたたかう英雄となって、PTSDに「おちいって人生を終えるのです。ベトナム戦争をえがいた「7月16日に生まれて」のほうがもっとリアルで問題性にあふれていました。名古屋ミリオン座にて。観客10数名。(2010/6/21)

クリント・イーストウッド『チェンジリング』
 息子を誘拐された母親が、警察の権力的な捜査のミスと徹底的にたたかい、精神病院に強制入院されるなどの弾圧を受けながらも最後には真実を明らかにしていくという物語です。1928年に実際にあった事件をモデルにしているようですが、その時代のレトロな雰囲気を忠実に復元した丁寧な映画作りに感心します。イーストウッドはますます誠実に人間の尊厳を侵すものとたたかう思想を成熟させているようです。こうした映画をみると、ますますアメリカの個人の人権を死守するという、よくも悪しくもアングロ・サクソン的な社会契約社会であることを実感します。個人の権利は徹底的に守られるが、逆に弱肉強食を自己責任として受け容れるとマイナス面もあります。権力が自己目的化したときに、批判者を精神病と規定して管理するシステムは、旧ソ連圏と本質的におなじで、1930年代の米国が相当の管理社会であったことが分かります。誘拐犯人が被害関係者が見守る中、13階段を上って絞首刑に処せられる一連の過程は圧巻でした。
 フォード・テーラー・システムが浸透しているようで、主人公の電話交換手の職場でローラースケートで移動している風景があったのには驚きました。1929年の世界大恐慌を描けば、社会的不安がもっと表現し得たのではないかと思います。キノシタホールにて。観客5名。(2010/6/16)

小林政弘『春との旅』
 脚本・監督とも小林氏ですが、氏の制作の意味がどこにあるのかよく分かりません。家族間葛藤と愛の恢復というテーマならば、フランスやイタリア映画に見られますが、それおしももっと社会的な広がりをもっていますが、この作品は大正か昭和初期の親子の別離物語と本質的に変わりません。演出と撮影技術が格段に進歩している現在では、かってのお涙ちょうだいの人情ものとは違って、それなりに見せるものがありますが、それでもこの作品は危うくすると人情ものに転落する可能性があります。
 ストーリーは、たった一人の孤独な生活になった老人が紆余曲折を経て孫娘との生活に到る点でこの世を去るというものです。高齢化社会の深化する現代では、自らの老後を重ね合わせる感情移入があるでしょうが、老人の救いは結局の処限られた家族の癒しにしかないのだというメッセージであり、老人の孤独死はもっとシビアーであり、この映画はそのシビアーさを連想させてさらに孤独感を深めさせるでしょう。
 問題は小林の老後観と高齢化社会認識の展望に深さがなく、そのためにひたすら観客を情感で感情移入させる演出を使うしかなかったところにあります。この映画は一見すると、希望と救いが与えられたように見えますが、じつは現実を変えるプラスαはなにもないのです。ただ、こうした映画に制作資金が投下されるということが、現実の高齢化問題の深刻さを背景とするビジネス・チャンスを逆に物語っています。哀しいことです。平日の一番でも満席でした。名演小劇場にて。(2010/6/8)

ラデユ・ミヘイルアニュ『オーケストラ』(フランス 2009)
 フーン久しぶりの音楽映画でしたが、中味はなかなかの社会派です。ブレジネフ政権時代のソ連で、ボリショイ劇場のユダヤ系音楽家が追放され、それに抵抗した著名指揮者が掃除人となっています。彼が追放された音楽家を集めて偽の交響楽団を編成し、パリ公演を実現するまでをユーモアとペーソスにつつんで面白く展開します。これがロシア映画ではなく、フランス映画であるのが残念です。旧社会主義体制下のソ連音楽についての苦い記憶と云うよりも、音楽にピュアーな情熱を傾ける普通の人々として描いており、面白いのですが歴史的背景の突っ込みが足りません。モスクワのシーンがふんだんに登場しますので、数年前に旅行した風景を思いうかべました。最後にながれるもの哀しいバラード風の音楽が最高でした。名演小劇場にて。驚いたことに超満員でした。(2010/6/2)

シャーンドル・カルドウシュ/イレーシュ・サボー『ウイニング・チケットーはるかなるブダペスト』(ハンガリー 2003年)
 比較的最近のハンガリー映画になるのでしょうか、やはり独特の感性がユーモアとペーソスに隠されていますが、現代ハンガリー人がなにをいいたいのかいまいち分かりません。映画そのものは、サッカー籤で巨万の富を手に入れた男の悲喜劇をハンガリー事件のまっただ中でえがく面白いものです。 社会主義ハンガリーの独特の重苦しい集合アパートや大工場、石畳の街路など当時の雰囲気が良くでています。集合アパートに暮らす庶民の喜怒哀楽も、政治体制とは無関係の世界であり、やはり社会主義が強制であったことを示しています。ハンガリー映画は独特の影があるようです。シネマテークにて。観客10数名。(2010/5/26)

ラースロー・ラノーデイ『だれのものでもないチェレ』(ハンガリー 1976年)
 ひさしぶりに観たハンガリー映画ですが、作品そのものは原作も含めて小学校の教科書に登場するような国民的な作品だそうです。私はこの作品も監督も知りませんでした。ストリーはきわめてシンプルであり、捨て子になって孤児院に収容された7歳の少女が、養父母のもとで(富農が援助金を目当てに子どもを引き取って育てる制度があり、労働力として酷使された)、はげしいイジメを受けてついに農家に放火して炎の中で自死していくという悲惨極まるものです。日本でいえば、明治・大正期の原始的な貧困の時代の孤児物語ですが現代では見向きもされないようなこうしたテーマの映画が、なぜかハンガリー映画では新鮮な深みをもって迫ってくるのです。ハンガリーの美しい農村風景と少女のピュアーな瞳と、、寡黙な大人の百姓の彫りの深さなど、シナリオが凝っているからでしょうか。7歳の少女が全裸で生き生きと演技するのです(映画とはいえ、日本では児童虐待で犯罪となるでしょう)。
 パンフを観ると、ほとんどが描写の美しさと少女の演技を激賞していますが、ほんとうに最近の映画批評の質は低下しています(日本について)。この映画はまだ東欧社会主義が維持されている1976年に制作されています。なぜ1930年代の革命前のハンガリーの孤児物語であるのか、ファッシズム政権を告発しているのか? 少女がイエスの信仰に救いを見いだすシーンは社会主義政権の検閲にはならなかったのか? 或いはひょっとするとスターリン主義下の人間的尊厳の剥奪への抗議ではないのか? そうした映画批評はほとんどみられません。いわゆる東欧的野蛮という言葉がありますが、その野蛮は女性の暴力としてあらわれているのです。こうした映画を観ると、あれこれひねくり回したり、ハリウッド風の活劇よりも、リアリズムに徹して人間のふるまいを描写しにくところに、人間の真実があるという確信めいたものが浮かんで参ります。ひさしぶりに沈潜できた映画です。シネマテークにて。観客8名。(2010/5/23)

鎌倉英也『しかし それだけではない。加藤周一 幽霊と語る』
 日本の「教養派」知識人の代表的存在であった加藤周一の晩年の姿と思想を淡々と描写したドキュメンタリー映画です。映像もシナリオも重厚な構成で、この戦後派知識人の風貌をよく伝えています。こうした専門を越えたルネサンス的知識人は絶えて久しいのか、もはやそうした人の活動を許さない時代なのか、なんともさみしい閉塞的な時代が彼の死とともにおとづれたことをかんじますが、東大での講演を熱心に聞いている学生の真剣な眼差しはまだまだなんとかなるという気持をおこさせました。
 大学生活4年間と退職後の人生に、日本の自由のピークがあるというある種のアジテーションは、しかしいささか希望的観測です。学生生活からほんとうの自由は奪われ、現役中にこころを売った企業人に自由の感覚はなく、現在の日本のそうした状況を見据えて、なお希望の道を語らねばなりません。しかし加藤周一のやり残した仕事と、彼のメッセージを受けとめるのは私たちに他なりません。彼は時代的な制約を覚悟しつつ、全身全霊を賭けてなにかを私たちに告げて去っていったのですから。名演小劇場にて。観衆5名。(2010/5/23)

エイコーン公演『令嬢ジュリー』(名演5月例会)
 エイコーンという劇団は栗原小巻の自主公演のための劇団ということを初めて知りました。貴族の令嬢が下男との劣情に身を委ねて最後はおそらく自死に到るというスローリーですが、近代市民の社会の形成期での崩壊する貴族の苦悩というようなテーマであれば、 何で現代の世界にこうした演劇をぶつけるのかよく分かりません。おそらく現代の若者は前近代的な身分と自由恋愛というテーマに切実さは感じないでしょうが、それともなにか時代を超えた人間の普遍的な自由と抑圧を描く葛藤だともいうのでしょうか? しかしあの60年代に少女であった栗原小巻がまだ健在でそれなりの肉体を保ちながら、奮闘しているのには感心しますが、どうもこの演劇は彼女の名前でうっているような演出が目立ちすぎて上滑りしています。もっともっと刻みこまれた深さのあるヒューマニズムへの演出が求められます。名古屋市民会館中ホールにて。満席。(2010/5/20)

ポール・グリーングラス『グリーン・ゾーン』(2009 米国)
 イラク侵攻の大義である大量破壊兵器の阻止という目的が、米政権の虚妄の情報操作であるということを前線の兵士の目を通して暴いていくというストーリーですが、表現は銃撃戦の凄まじさであり、なにをいまさらという映画です。開戦時にはブッシュを礼讃し、うまくゆかないと批判派に廻って興業を稼ぐといかにもハリウッド風の何でもありという映画です。ハリウッドの良心という批評も生まれそうですが、もうこうした虚妄に飽き飽きしているのが世界であり、ハリウッドの限界を示しています。ミッドランドスクエアにて。観衆30数名。(2010/5/18)
 
『立ちあがるイラク帰還兵』(2009年 日本)
 米軍に従軍して、戦争の虚妄を自覚して徴兵を拒否したり、帰還して反戦運動を繰りひろげている元米兵の運動のルポルタージュです。映画館で上映するには短編で、入場料を徴収するのはどうかとも思われますが、米国の一面をとらえてはいます。米軍元兵士の反戦運動を映画化するなら、もっと周到に調査し、過去のフィルムなども織り込みながら、その実態の本質に迫るシナリオが求められます。徴兵制期の米軍と志願制の現代の米軍の違いなど、突っ込んでみるテーマはたくさんあります。あまりに安易で表面をなぞっただけのドキュメンタリーでは、プロパガンダに堕してしまいます。名古屋シネマテークにて。観客7名。(2010/5/12)

藤本幸久『兵士になるということ ONE SHOT ONE KILL』(2009年 日本)
 日本人の監督が米国海兵隊の新兵訓練の6ヶ月を追ったなかなかのドキュメンタリー映画です。米海兵隊当局がこうした撮影を許可することも驚きですが、米国ナイーブな貧しい青年男女が海兵隊に入り、星条旗ナショナリズムを素朴に肉体化し、殺すことを使命と心得るロボット兵士に変身していく過程が少しは描かれています。海兵隊が防衛部隊ではなく、侵略の最前線部隊であることがよく分かり、沖縄が3大基地のひとつであることに、いまさなながら暗然とさせられます。命令への絶対服従と集団行動の快感と美しさは、ナチス美学と本質的におなじであり、上官命令に一切疑問を抱かない機械化した兵士の一端が分かります。しかしそれ以上ではありません。さらに裏面をうがった本質を描くまでに展開することが期待されます。名古屋シネマテークにて。観客10名弱。(2010/5/11)

テリー・ギリアム『Dr・パルナサスの鏡』
 フーン久しぶりのイマジネーションを刺激する大人のファンタジー映画です。ハラハラドキドキするようなシーンの連続で、観ている方も疲れてしまいますが、しかしシナリオに飛躍が多く、付いていくのに一苦労です。子どもが観ても相当に面白い映画かも知れませんが、では見終わった跡になにが残るのかというと、いまいちよく分かりません。ようするにその時間を精一杯愉しみましょうという感じです。アレコレ云うことなく、イマジネーションを爆発させる映画も久しぶりです。ほんとうは相当の問題意識を持った鬼才という感じです。名古屋・キノシタホール。観客2名。(2010/4/29)

マーテイン・スコセッシ『シャッター・アイランド』
 あまりに著名なイタリア系米国人の映画監督で、かなり期待を持ってみましたが、さてさてどのように評価していいものやら。この映画監督は相当な問題意識をもって撮っていると思っていましたが、なにかホラーっぽい潜在心理ドラマに仕上がっていますが、果たしてどこにどういうねらいがあるのか、いまいちよく分かりません。映画評論を読んでも、最近の若手評論家の内容は分析が浅薄で技術主義に走ってほとんど参考になりません。
 極限の閉鎖空間では人間の正常な神経反射が歪んでいく実験は、いままで数多くあり、閉鎖された精神病院に送りこまれた主人公のFBI捜査官がじつは患者であったという設定なのですが、それだけでは何とも面白くありません。ナチの強制収容所の傷ましい体験がなんども登場するのですが、これも監督なりの問題意識の反映なのでしょうか。ようするにスコセッシは、現代米国そのものを極限まで閉鎖された病院のような究極の管理社会が完成しているのであり、そこで市民は自らすすんで精神病患者であることを申告するソフトな管理が極限化しているのだと云いたいのでしょうか? それとも単なるハリウッドの凝ったエンタテイメントなのでしょうか。名古屋駅ミッドランド・スクエアにて。観客は中高年でほぼ満席。(2010/4/28)

キム・テギュン『クロッシング』(2008年 韓国)
 映画が終了しても、誰も席を立たないでエンデイングを迎えるという映画は久しぶりです。ウーンなかなか評価の難しい作品です。テーマが脱北家族の悲劇を描いていますので、下手をすれば芸術性の高い反共映画ということになります。経済制裁のただ中にあって、300万人ともいう餓死者をうみながら、必死になって体制を維持しようとする側にとっては、脱北とはまさに裏切りになるでしょうし、ただ飢えをしのぐ庶民にとっては脱北は食いつなぐための手段にすぎないでしょう。まさにこの映画は、単に行き詰まった庶民の家族の脱北過程の悲劇を描くがゆえに、ピュアーな迫真的メッセージとなって観るものの心に食い込んでくるのです。この映画の決定的欠陥は、北朝鮮の餓死を独裁と強制収容所と闇市で描きながら、米国を中心とする経済制裁措置について全くふれていないことです。だからといって北朝鮮の政策が免罪されるものではありませんが、いずれにしろ、北朝鮮の現代史を刻みこんでいないことが南北朝鮮市民にとっての最大の不幸な映画ではないでしょうか。かくまで云わせるほどに、この映画は北朝鮮の現況を鋭くリアルに描き、ほとんどプロパガンダ性を抑制する点で演出としても、韓国映画の相当の到達点を示していると云えます。だからこそ、日本の凡百の評論家が絶賛するような評価は、日本の右翼的潮流にとってこの上ない効果的支援となるでしょう。願わくば、この映画を痛みとともに受け容れて評価する視点を考察しなければなりません。それにしても韓国映画は自国の悲劇をえがく成熟した視点をもっていると確信しました。会場は満席です。名古屋・シネマスコーレ。(2010/4/18)

ジャン=ピエール・メルヴィ『海の沈黙』(1947年 フランス)
 第2次大戦のドイツ占領下のフランスの抵抗の讃歌ですが、解放直後にこのような気品のある静謐な作品をつくるところに、なんていおうかフランス文化のおそろしい力があるような気がします。ドイツ占領軍の内部にある、ある種の良心的軍人の啓蒙思想の虚妄を描くのですが、それにいっさい沈黙を以て接するという、フランス人のこのうえない侮蔑的態度なのです。抵抗やレジスタンスは、ハラハラドキドキするような血なまぐさいドラマが多いのですが、このような精神性あふれるドラマとして圧縮する作品は、日本の敗戦直後の風景にはほとんどあり得ないし、日本映画がつくり得ないものでした。人間の尊厳とか高貴さについての西欧文化の伝統の重さを実感いたします。名演小劇場にて。会場ほぼ満席。((2010/4/15)

ロベール・ブレッソン『抵抗ー死刑囚の手記より』(フランス 1956年)
 ナチス占領下のレジスタンスの収容所の死刑囚の脱獄の過程を描くリアリズム映画です。レジスタンスや反ナチの理念よりも、脱獄の苦闘を淡々とリアルに描く手法が成功しています。1956年につくられていますが、やはり当時のネオ・リアリスモの影響を受けているのでしょうか。しかし現在見ても、それほどに色褪せて見えない迫力はどこにあるのでしょうか。ハリウッドならばもっとエンタテイメント性に富んだ演出にするでしょうが、この映画の真摯な演出はなにか私たちが置き忘れてきたようなノスタルジアがただよいます。わたしは、こうした映画を観て、なんとかげんだいにリアリズム美学の真実性を再生し、現代の先端的表現として創造させたいと思うのです。名演小劇場にて。観客8名。(2010/4/15)

海流座『新・裸の大将放浪記』(藤本義一作・米倉斎加年演出・芦屋小雁主演)
 知的障害のある画家・山下清のピュアーな個性を通して、戦争の本質と商業芸術を鋭く批判しようとするものですが、観客を意識した予定調和が多く、観客は安心して泣き笑いできますが、ほんとうに人間の深奥に迫ることはありません。このあたりが藤本義一と米倉の美点であり、また限界でもあります。ただし殺伐とした世の現実を逃れて、あたたかいヒューマンな世界にひたる作品としては絶品です。名古屋演劇鑑賞会例会。会場満席。(2010/4/10)

ジェイソン・ライトマン『マイレージ、マイライフ』
 リストラ請負会社の中堅社員を主人公とするいかにもハリウッド風の映画です。要するに首切りのソフトかハードか、アナログかデジタルかをめぐるペーソスを狙う映画であり、底の浅いヒューマン・ドラマの偽善が哀しく露呈されていますが、アカデミー賞作品であるところを見れば、米国市民意識の哀れさがにじみでています。裏返せば、つまり本質的には、いかにすさまじい冷酷無残な労働関係が米国にあるかということであり、米国人がつぎつぎと転職を重ねる背景が分かるかも知れません。まあ私としてはどうでもよい映画であり、ハリウッド三文映画に過ぎませんでしたが、ジョージ・クルーニーが魅力的な演技をしているので、コロッといかれるひともいるでしょう。ひさしぶりのセンチュリー劇場でしたが、観客は20名弱。(2010/4/7)

金田敬『アンダンテ 稲の旋律』
 この監督の演出と撮影がすばらしい・・・! シナリオも一流なのでしょうが、映像とその転換が貧しい資本のなかでよくやっていると思います。旭爪あかね氏の原作は読んだことがありませんが、ほぼ原作に忠実に作られたシナリオなのでしょう。引きこもりとか対人恐怖症とかのふるえるような魂に共感する想像力がないと、この作品は甘えの世界に堕してしまうでしょう。ただしこのように美しく引きこもりの世界から脱出していく物語も虚しく思えるかもしれません。引きこもりの娘とその同僚の女性があまりに美人なので、農村と農業とは結びつかないのですね。ここがこの作品のミスキャストでした。ところどころにシナリオの破れがありますが、現在の日本的現状で苦しんでいる人々への希望となるならば、やはり作品としてはすごいのでしょうが、現実はもっともっと陰惨でみにくいのではないかと思います。田園のなかでのピアノ演奏など作為性が目立ちすぎて、残念です。三上真史の自然な演技が素晴らしい。名古屋駅裏・シネマスコーレにて。(2010/4/3)

キャスリン・ビグロー『ハート・ロッカー』
 文句なしのバルザック的リアリズムの勝利です。戦場の最前線の兵士の緊迫感をこのようにリアルに描いたドキュメンタリー・タッチの映画は始めてみました。イラク戦線での爆発物処理部隊の活動を描くのですが、このリアルなシナリオが圧倒的な臨場感と兵士の心理分析をもたらします。こうした映画をハリウッドが撮り、また2010年度アカデミー賞作品賞を与えるとは、あのアホなブッシュの国の恐るべき奥深さを知らされます。この映画の成功している最大の要因は、反米でもなく親テロでもない戦争のしかも戦闘の渦中を恐るべきリアリズムで描ききったところにあると思います。ただし、帰還した米兵がふたたび麻薬中毒のようにイラク戦場へ志願するシナリオは、余分な感傷でありなかった方がよいと思いました。私は絵描きなのですが、リアリズム手法の圧倒的迫力に改めて励ましを与えられたような気持です。シネマズ名古屋にて。意外と観客多し。(2010/3/29)

フィリップ・シュテルチェル『アイガー北壁』
 登山好きにはたまらない映画でしょうね、とにかくアルプスの絶景がふんだんにもりこまれ、高山鉄道からホテルまで、、そしてあのアイガーの垂直の壁が圧巻です。しかし内容はなかなかシリアスで、ナチス高揚期の国家の栄光を賭けた登山ゲームとして北壁の初登頂をめざすドイツ・オウストリアの若者のピュアーな競争が政治の論理に巻き込まれ、ファッシズムと人間のたたかいという二重性を帯びて参ります。ここまではよいのですが、クライマーの恋人が絡んで、重要な役を演じるのですこしおかしくなるのです。とくに宙づりになったクライマーを助けにいった女性の目の前で亡くなるといったシナリオは、いかにも見えすいた演出であり、残念でした。撮影技術は素晴らしく、なぜこのような超高山のリアリテイがだせるのか、驚きました。まあそれは於いて、充分にスイスの山岳風景を堪能できる映画でした。あの高山ホテルに泊まって、デイナーをとりたくなるでしょう。名古屋・伏見ミリオン座にて。中高年山好きファンで満席。(2010/3/25)

アンジェロ・ロンゴーニ『カラヴァッジオ 天才画家の光と影』
 ルネサンスから宗教改革に対抗するカソリック教会の反宗教改革運動の時代にバロックといわれる独特の芸術様式が出現した。カソリックの原理的な教義を生々しい人間的な描写によって表現する様式であり、その巨匠がカラヴァッジオであった。この映画は、カラヴァッジオが故郷を出てローマに行き、法王庁のパトロンを受ける画家となり、最後は数々の暴力事件のあとに野垂れ死にするまでを描いている。いわば彼は教会権力から自立する近代芸術の前奏曲としての類い希な才能を示したのだ。まことに彼の迫真的な人間描写の迫力には圧倒される。そして私のもっとも印象に残ったのは、娼婦たちが公開で斬首される場面と、ジョルダーノ・ブルーノー(地動説を撤回しなかった哲学者)の火刑のシーンであり、それを鋭く見つめるカラヴァッジオの視線である。彼の芸術は、マーケットが教会と貴族というパトロン・システムの元で成長する市民の意識を表現するという苛烈な時代の産物であったのかも知れない。久しぶりの文芸大作で非常に面白くみましたが、場面転換がはげしくてつかれました。名演小劇場にて。観客20人弱。(2010/3/23)

こまつ座『シャンハイ・ムーン』
 日本占領下に於ける上海での魯迅の苦闘と、それを支援する日本人である内山完造や医師、そして妻の許広平の交流を描く。徹底的に魯迅の人間的素顔を描いているところがすごい。いつもながらのテーマ性と勘所を押さえたシナリオが井上の才能を感じましたし、舞台美術が著名な画家であったところもよかったと思います。魯迅をいささかヒロイックに描いているところがありますが、なぜかくも日本人が魯迅を支援したのかという肝心の所が今一でした。井上ひさしの調査の徹底性には感心させられますし、エンタテイメント性とテーマ性の統合はさすがです。日本と中国の独特の濃密な結びつきはいったい何なのでしょう。中高年の善男善女で満席でした。名古屋市民会館中ホールにて。(2010/3/18)

佐野伸寿『ウイグルからきた少年』
 イラク・アフガン戦争後に原油高騰で繁栄に向かったカザフスタンには、周辺地域から多くの移民が流入した。この映画は新くウイグル地区から密入国した少年が、ストリート・チルドレンとしていき、最後は絶望の末に、体に爆薬を巻き付けて自爆テロの英雄として死ぬことを選ぶ、崩壊した旧ソ連の凄まじい市場経済下の貧富の差が浮き彫りとなりますが、テーマ自体は時代の先端でとても意味あるのですが、如何せん演出がB級なので失望します。カネを取ってみせる映画ではありません。監督が日本人で、カザフ・ロシア・日本合作とはどういう経過なのでしょうか。監督の経歴では、つい最近まで自衛隊のイラク作戦に従軍していたようであり、こうした監督の世界観そのものの限界でしょう。名古屋・シネマテークにて。観客4人。(2010/3/6)

ナインマイルズ『母なることの由来』
 マザー・テレサをを聖女としてたたえるドキュメンタリー映画です。アルバニア人としてユーゴに生まれた彼女が、カソリック修道院に入り、その後に独立してインドで救貧活動に無私の献身をして、全世界に名をはせるまでを描きます。凄まじい絶対的な貧困の渦中に飛び込む彼女の自己犠牲のピュアーさには、どんな批評の言葉もありませんが、賛美に終わるのではなく、一人の人間の生涯として描いてほしかったと思います。たしかにイエスの啓示を受けてた信仰者として描くのですから、こうなるのかもしれませんが・・・。それにしてもかくも無残な境遇の人間たちをつくりだした創造主の罪をこそ逆に問わねばならないなどという不遜な考えが頭をかすめました。テレサのような現場に於ける現在主義的な救済活動を否定するものではありませんが、すこしシステム的な複眼で彼女の信仰と活動を深く描いてもよいと思いますが、カソリック教会の公演を得た映画であれば仕方ありません。朝一番でしたが、クリスチャンでしょうか、若い女性たちで会場はほぼ満席でした。名古屋・今池・シネマテークにて。(2010/3/4)

イ・チョンニョル『ウオナンソリ(牛鈴の音)』
 韓国で09年に300万人という記録的な動員をしたドキュメンタリー映画です。描かれるのは79歳と76歳の百姓の老夫婦と一頭の老いた農耕牛にすぎません。老牛を中心に淡々と篤農家の農作業と日常生活がなんの変化もなく描かれるだけです。死を前にして苛酷な労働に明け暮れる老牛と老人の原始的とも云える労働の姿が、私たちの忘れ去った原初的な感性をゆさぶります。市場原理の効率とスピードに埋没した現代文明の対極にある原初的な生命の営みに向き合えたのでしょうか? 自然の苛酷さと一体となった前近代的な農業生活にはじつはなにかとりかえしのつない崇高なものがあったのではないかという思いに打ちのめされます。おそらくもはや二度とかえらない喪失の痛みのような感じも迫って参ります。死を前にしてなお歩きつづける牛の表情の絶対的な素朴さはすべての批評を許さない迫力があります。おもえば私の祖父母も同じような労働の日々でした。そしてそれらはすべて近代原理によって失われていったのです。私は、汗がにじみ出る祖母の背中をいまも忘れません。この映画はそうした意味で、哲学的な意味を持っています。驚いたのは開場から人がならんでいたことです。さすがピュアーな感性が持続する韓国ならではの映画です。名古屋・シルバー劇場。(2010/2/27)

伊藤孝司『ヒロシマ ピヨンヤン』
 北朝鮮にいる被爆者が現在なんの補償も受けられていない実態を鋭く告発するドキュメンタリー映画です。3歳でヒロシマで被爆し、成長して帰国事業で北に行った女性が、淡々と哀しみをこめて、その後の病状を語り、日本にいる家族との再会を願う気持を語るのが痛々しい。けっして北当局によって作為されたのではない語りが迫真性をもっています。首都の英雄記念碑や観光地が登場し、自宅もピアノを弾く子どもが登場するなど、生活はかなり豊かであることを描こうとして、かえって貧しさが透けて見えますが、それがなお痛々しく感じます。広島県医師会の国家間関係を越えた人道援助が切実な美しさを印象づけています。名古屋駅裏・シネマスコーレにて。在日らしい中高年女性が数人拍手していた。党派を超えた上映運動が行われているようです。(2010/2/24)

フィリップ・クローデル『ずっとあなたを愛してる』
 監督が小説家のクローデルとはまた驚きました! しかしなんというかさすがフランス映画ですね! なんともはやあちこちにきらめくエスプリと重厚な感性に魅入られてしまいます! しかしテーマはそれは重いもので、息子を殺害して15年の獄中生活を終えた女性が、そしてそれを迎える妹が、それぞれにどのような過去の克服と再生を刻んでいくかという、とても日本映画では果たし得ない質を孕んでいます。しかもまわりに配置された人物像がまた独自の人間像を刻んでいて、作品を立体化しています。主演のスコット・トーマスの演技が、これぞ演じるという迫真的な細やかさに富んでいて圧倒されます。ただし、これらフランス人たちは、医者や大学教授というきらびやかな、いかにもフランス風の知性あふれる世界であり、それがフランスの全体を描ききれない限界となっています。それは呆けている母親の世界が異端視されていることにうかがわれます。そうした若干の欠陥はありますが、いかにも重厚でエスプリに満ちたフランスの香りただよう映画を堪能致しました。題名は現代の直訳なのでしょうが、日本語ではやはりアモーレは伝わりませんね。名演小劇場にて。観客10数名。(2010/2/23)

大澤豊『いのちの山河 日本の青空U』
 乳幼児死亡率ゼロや老人医療無料化など先進的医療に挑戦した岩手県の寒村・沢内村深沢村長の農村自治を描いた映画です。戦後民主主義のもっとも良質の部分が東北の寒村で実現した事例は感動的ですが、如何せん脚本と演出がいかにも類型的で映画の質としては問題があります。深沢氏の思想を支えた満州での植民地支配と戦犯裁判、農村民主化運動の内実、なぜ沢内村では民主化が進展したのかなどもっと素直な分析に基づく深い演出が必要です。深沢氏のヒロイックな使命感と、それに従っていく青年たちという知識人と大衆類型では、後世の教訓とはなりません。たしかに地域変革は、指導者が絶対条件なのですが、それは十分条件ではありません。映画としてはかなり工夫が必要な質的問題を残しつつも、この晩期資本主義の混迷期にあって、こうした映画づくりに挑戦するこころざしは高く評価されます。映画支援の資金を提供した団体名が最後に流れますが、その量はそのままその地域の民主化水準をあらわしているようです。名古屋駅裏・シネマスコーレにて。中高年でほぼ満席。(2010/2/22)

アルギマンタス・ブイバ『ナチス・ホロコーストの戦慄 ヒトラー独裁下の地獄』(2005年 リトアニア作品)
 私はリトアニア映画を初めて見ましたが、それがナチス強制収容所の映画でした。残念ながらこの映画を配給した日本人スタッフは、ほんとうに歴史感覚が疑われます。まさにこの映画は、ナチスとスターリニズムの二重の抑圧のもとにあるリトアニアの独自の歴史的状況を鋭く描いていますが、日本の題名はあたかもナチスに名を借りた売らんかなの題名に頽廃しています。1939年のポーランド・スチェトフ収容所を舞台に、ナチに非協力がゆえに政治犯として収容されたリトアニア人大学教授の数奇な運命を描いたものです。この映画が独特な問題性をもっているのは、単にナチを告発したのではなく、戦後のスターリン主義の抑圧を生きる二重の収容所生活を送った大学教授を描いているからです。ナチを批判してナチ強制収容所に入り、戦後はスターリニズムに屈服することを拒否して、また同じ収容所に入るという希有なファッシズムと全体主義への告発を描いています。20世紀の負の遺産として、ナチス・ファッシズムとスターリン全体主義を重層的に克服しなければならない問題性を鋭く描いていますが、結果的に新自由主義の市場原理に翻弄されているとすれば私たちは第3の全体主義を問題にしなければならないのです。私はこの映画をDVDでみたので、映画館で公開したのかどうかは知りません。ナチを描いてこれほどに現代の問題と対決しなければならない映画は異色でした。(2010/2/18)

アンジェイ・ワイダ『カrテインの森』(2007年 ポーランド)
  先ず驚くのはあのワイダ監督が83歳にしての、この本格的劇映画であるということです。ポーランドという欧州の国際的激動のなかで翻弄された誇り高い文化の意識なくして、このような映画創造はできないでしょう。テーマは言うまでもなく、独ソ不可侵条約によって分割された祖国ポーランドの悲劇です。ポーランド国軍将校1万4千名を捕虜にしたソ連は、抵抗の実力組織を無化させるために軍の将校や知識人を大量虐殺したのがカチンの森事件です。ソ連政府中枢部の命令で内務人民委員(GPU)が遂行した虐殺は、戦後数十年にわたってナチス犯罪と作為され、ポーランドの戦後現代史は歪んだモノとなったのです。「灰とダイヤモンド」に登場する青年と同じく、この映画でも国内軍のレジスタンスが戦後に抑圧されるシーンが出てきますが、ポーランドの錯綜した戦後史が虐殺の被害家族を中心に活写されます。
 こうした骨太の映画がやはり欧州には(東欧)には健在であり、日本では山本薩夫以降にこうした歴史と正面から向きあう本格的な現代史映画はつくられたことがありません。山田洋次に期待するのですが、相変わらずの家族人情物語で自足しています。ウイークデーの昼間にもかかわらず、会場は中高年で満席となったのは驚きでした。名演小劇場。(2010/2/8)

幹の会+リリック『冬のライオン』(名古屋市民会館中ホール)
 久しぶりの演劇でしたが、会場は中高年女性で満席。やはり主役の平幹二朗と麻美れいということなのでしょうか。内容は英国獅子王の次期王座をめぐる王子たちと王妃の権謀術数の愛憎劇なのですが、テーマが古典劇の割には重厚さが空回りする絶叫調が多く、時に笑い声が漏れるという奇妙な舞台となりました。やはり問題は演出にあるのでしょう。役者はそれぞれに熱演しているのですが、なにか空回りの見えすいた演技に見えるのです。基本には俳優の個人名で客を集める戦略があり、テーマの掘り下げが劇団内部で深められていないからでしょう。それにしても勤労者対象の演劇鑑賞運動の名に値しない企画が蔓延しているような気がします。(2010/12/4)

山田洋次『おとうと』
 原作は幸田文、市川昆が最初の予定監督だったのか? 無能な弟への無条件の愛情を注ぐ姉を描く単純なストーリーですが、さすがに山田演出はさえて最期までグイグイと引っ張ります。どうも山田洋次ワールドは、こうした人情紙風船の風情にあるようで、最近は少々疑問に思います。散々に他者を傷つけておいて愛されたいとする情とは、まさに日本的甘えの世界に他ならず、非正規の必死で生きている現代労働者が見れば、腹立たしくてスクリーンにモノをぶつけたくなるのではないでしょうか。山田ワールドの世界は、前近代日本の庶民の人情世界にあるのですが、もはやそれは漫画チックな世界になりつつあります。それほどに現実世界は厳しくなったというのでしょう。ただしこの映画には、看取りというターミナルケアの世界が登場します。しかもそれは民間のNPOという世界なのですが、ここに山田洋次の政府批判が背景にあります。それにしても山田洋次は、このような前近代的な人情物語の現代的な限界を悟らなければならないのではないでしょうか? 名古屋ピカデリーにて。観客中高年で半分の入り。(2010/2/2)

ヴィターリ・カネフスキー『ぼくら20世紀の子供たち』
 ウーン!現代というか人間の実存に迫る映像が、子どもの世界を対象にリアリズムで迫ります。ほとんどは親と環境により歪んで失敗した子供たち、あっけらかんと自分の犯した犯罪を告白し、いとも簡単に殺人に到ったシーンを愉しそうに説明します。しかも人肉を食ったということまで・・・・。いったい社会主義ロシアとはなんだったのでしょう・・・。マカレンコ集団主義教育とは何だったのでしょう!・・・。ロシア革命とはいったい何だったのでしょう? ピュアーな子供たちの視線を通して、大人の弁解を許さない映像が突き刺さります。驚いたことに前2作の主演男優の少年が、犯罪で刑務所に収容され、共演女優が面会に来るのには驚嘆しました。カネフスキーは赤の広場で群れて遊ぶ不良少年に、次の質問をします。「究極の崇高な目的のために、君は自分の父親を殺すことができますか?」・・・・!これこそドストエフスキーを生んだロシアの感性なのでしょうか!? カネフスキーという映像作家を生みだしたということで、20世紀ロシア映画はなにか許されているような感じです。名古屋・シネマテーク。観客8名。(2010/1/26)

ヴィターリー・カネフスキー『ひとりで生きる』
 前作の続編として15歳になった主人公のその後を描きます。よくみるとフランス・ロシア合作となっています。おなじように乾いたリアリズム映像が哀しみを深めるように繰りひろげられます。前作もそうなのですが、第2次大戦直後のソ連国内の実態は、社会主義リアリズムが宣揚したイメージとは全く異なり、日本の敗戦直後とおなじように、生きていくのに必死で社会主義の理念などはどこかに吹き飛んでいます。この映画はおそらくは監督の自伝的なものなのでしょう。レーニンやマルクスの巨大な銅像が、虚像のようにものもの哀しげにそそりたつ映像は、ソ連型社会主義の虚像をリアルに写しだして薄ら寒くなります。名古屋シネマテーク。意外と若い観客が多いのに驚きました。(2010/1/25)

ヴィターリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ』(1989年 ロシア)
 なんとも乾いたリアルそのものの映像がくりひろげられます。第2次大戦直後のシベリアの地方炭鉱都市で、日本軍の捕虜収容所と隣り合わせで生活するロシア人の子どもたちの物語です。スターリンが君臨する敗戦直後の荒廃した社会で、綺麗事ではなく生きのびていかねばならない子どもたちの汚濁したリアルな生活を正面から逃れることのない視線でドキュメンタリックに描きます。捕虜日本兵の日本の唱歌の独唱がもの悲しく響きます。私は日本兵のシベリア収容所生活の映像を始めてみました! お辞儀という日本的礼儀が屈従的にみえます。あの時代をかくもリアルに描く視線は、さすがにソ連崩壊後の新たな動きなのでしょうか? それにしてもソ連映画独特の重くたれ込めたピュアーな心情がにじみ出るような映画です。久しぶりに本格的なドラマを見た想いで満足感を味わいました。
 監督は1935年生まれで、25歳で全露映画大学に入学しますが、在学中に無実の罪で8年間投獄されて復帰し、3作品を残したまま姿を消すという経歴を歩んでいます。イタリア・ネオ・リアリスモと共通する人間の哀しい真実を切ないまでのタッチで描いています。こうした映画を観ると、日本映画の限界を思い知らされます。名古屋シネマテークにて。意外と若い人が多いのには驚きました。(2010/1/23)

デニス・ガンゼル『THE WAVE』
 人間の深層心理を解放するはてに現出するファッシズムへの狂気を心理実験としてえがく戦慄の映画です。監督が35歳というのでまたまた驚きです。独裁の心理実験は、1967年に米国カリフォルニア州パロ・アルトのキャバリー高校で歴史教師のロン・ジョーンズが初めて試み、次いで1971年にスタンフォード大学が刑務所での独裁実験を行い、両者ともに実験管理者自身が実験に支配されるという異常な結果を生みました。その他にも、人間の攻撃実験としてソロモン・アッシュ実験などがありますが、権威への盲目的服従と異端への攻撃の裏にある帰属集団への献身的な団結への陶酔の心理としてのファッシズムを分析しようとしています。
 この映画はドイツの高校での特別の選択授業として「独裁」の授業が、トレーニング実験としておこなわれます。独裁者として君臨する教師も、絶対服従する生徒も、日常では他者から認められないコンプレックスか生きる充実感がない歪んだ心理の蓄積の持ち主として表象されています。これはナチスを支持した階層が、没落して不安に駆られる中間層の心理であったことと共通しています。
 それにしてもドイツの高校は、かなり自由というか頽廃があり、薬物汚染も蔓延し、そのなかで試行錯誤しながら生きようとする若者が描かれます。教師の生活も日本と較べてかなり自由で、独裁者となる教師が水上生活者であることには驚きました。こうしたネオ・ナチ現象を正面から描くのは、やはりドイツであって、日本の若い監督はおそらく右翼に媚びへつらう映画をつくるでしょう。シネマテークにて。観客6名ですべて男性。(2010/1/19)

オーレ・クリスチャン・マセン『誰がため』
 デンマーク・チェコ・ドイツの合作映画をみるのははじめてですが、この3国の共通テーマといえば、いうまでもなくナチス支配に対する闘争でしょう。この映画は、ナチス占領下のデンマークでのレジスタンスの暗殺部隊の行動と心理的葛藤を描くサスペンス風のリアリズム映画です。まるでサルトルの戯曲か映画「灰とダイヤモンド」をもっとドラマテックにした組織の非情と人間心理の深層に迫ろうとするかのようです。この映画は実話によるものだそうですが、たしかにどのような正義の組織であれそこには人間の善と悪が入り乱れる非情さがあります。この映画はナチスへのレジスタンスをもっとも冷酷な暗殺という世界で描くことを通して、じつは「羅生門」のような人間の心理の闇の世界に迫ろうとしたかに見えます。テーマは面白いのですが、演出が入り組んだシナリオを追い切れず、途中でストーリーが不可解となる部分があり、また一人一人の人間の個性的な陰影の描き方で平板なところがあります。しかしこうした骨太の映画は、日本ではつくれないでしょう。名演小劇場にて。会場ほぼ満席。若い女性が意外と多いのはなぜだろうか。(2010/1/16)

『大同江のほとりで』
 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の映画を観た覚えがない、とすればこれが初めてなのか? 首都・平壌で繰りひろげられる恋愛と結婚のいわばどたばたホームドラマにすぎませんが、一生懸命に祖国への献身と同志愛をうったえるピュアーさにはなにか共感を通り越して哀しみを覚えます。しかしこうしたホームドラマ仕立ては、いかに北朝鮮の庶民が家族的な結びつきを描いたドラマを望んでいるかが分かります。しかし内実は、戦前期日本映画のような人情ものと儒教的な家父長家族がそのままに残っています。それが最期にすべてが党への感謝で終わるのですから、プロパガンダの本質を暴露しています。北朝鮮に共感を覚えていった有能な芸術家や知識人は多かったはずですが、なぜこのようなレベルの映画に留まっているのでしょうか? これではスターリン主義時代のソ連映画のほうがはるかに上質です。みればみるほど、めざしたはずの理想とそのもとでの痛々しい文化の荒廃(!)がつたわって、涙が出そうになるのです。名古屋・シネマスコーレにて。朝鮮系の中高年者が10数名。(2010/1/12)

マイケル・ムーア『キャピタリズム マネーは踊る』
 アメリカ金融資本主義の頽廃の極地をアッケラカンと暴露的に描き、しかもエンタテイメントして面白い風刺精神に富んでいます。こんな映画は日本では絶対につくれないだろうと思います。そこにあるユーモアと風刺精神の強さと深さが全く違い、日本ではジメジメした情感のルサンチマンかテロリズム風になるでしょう。ムーアはしかしどうも勉強不足で、米国に比して日本と欧州の社会的基本権保障がすすんでいるように云っていますが、いまや米国モデルはニュアンスの違いはあれ全世界を覆い、とくに日本は従来の日本型を壊しているがゆえに米国以上に惨憺たる状況なのです。インタナショナルをロック風に歌いながら、民主党オバマを賛美したり、基本的には米国民主主義の良心的部分を代表しているのがムーアでしょうか。全員経営参加の中小企業を描いていましたが、ユートピア社会主義の限界もありますが、ムーアの誠実さがうかがえます。伏見ミリオン座にて。観客30数名。中年が多いが高年は少ない。(2010/1/9)

クエンテイ・タランテイーノ『イングロリアス・バスターズ』
 父親はイタリア系俳優、母親はインデアンの出自という監督は、暴力と犯罪をテーマとする作品をつくり、パロデイとオマージュをふんだんに織りまぜるB旧映画を評価する変わった監督と言っていいでしょう。イングロリアス・バスターズとは名誉なき野郎どもという、米国情報機関が第2次大戦中にドイツ軍占領地に派遣した秘密部隊で、情け容赦ないナチス軍隊への復讐を実行する部隊をいいます。この映画は、ナチスの暴力以上に連合軍側の残酷な暴力を赤裸々に描き、最期にはヒトラーもろともナチス最高幹部を映画館内で皆殺しにするという破天荒なストーリーです。全編人間が極限状況において迫られる緊迫した選択と行為の連続ですので、いままでのナチスを描いた映画とはまったく異なるエンタテイメントに満ちた映画となっています。そこに私はあるとまどいを覚えたのですが、反ナチ・ヒューマニズムの基本線は維持していますので、たんなるエンタテイメントではないのですが、暴力と復讐の連鎖を人間的な本質の必然として、愉しんでみるような感じで嫌気がさすのかも知れません。ちょうどベトナム戦争を戦争の醜さから描ききって、ベトナムと米軍を同列に置いたかのような『デイア・ハンター』と似たような印象を受けたのです。ハラハラドキドキの徹底した人間の本質を暴き出すような演出に引きこまれていく自分を感じるのです。その意味でそうとうに厄介な映画ではあります。これほどに面白い映画なのに、なぜか日本では宣伝しないで、しかも上映が19:30という遅い時間帯に設けているのは、この映画に身を引く傾向があるからなのでしょうか。名古屋・伏見ミリオン座にて。夜上映なのに若い女性が意外と多い。(2010/1/8)

滝田洋二郎『壬生義士伝』
 この映画は封切り時になぜか観る気になれなくてほっておいたのですが、TVで放映していましたのでついみました。南部藩の下級武士が生活困窮のなかで脱藩して、新選組に参加して生活費を稼ぎながら、最期は時代に翻弄されて自決するという物語です。テーマは最期まで主君に殉じるという武士道精神と家族を守る父性愛という、ありふれた伝統的なものですが、なぜこうしたテーマが浅田次郎という直木賞作家のテーマになるのと云うのは興味があります。時代の推移への主体的な参加と新しい精神の探求と云うよりも、武士の意地のみに生命を賭ける美学は、敢えて死ぬと分かっていても虚栄の大義に殉じる特高精神の美化に他なりません。だから観方によっては、殉教の美学を宣揚するイスラム原理主義の精神に似て、どこか漫画チックで滑稽なものにうつるでしょう。貧困の下級武士が自決に到るストーリーは、それなりに時代の階級矛盾を告発している側面もありますが、殉死するように受け容れていく姿は哀れという同情を呼ぶ以上のものではなく、こうした作品を書いた浅田氏と滝田監督の時代精神の限界が露呈されています。或いは勤王派にもう少し光をあてれば、重厚な映像になり得たかも知れません。演出技術そのものはそれなりに充実し、最期まで見飽きませんが、冗長に流れるシーンもあります。どうしても日本映画は、自足的な自閉映画になるのでしょうか。(2010/1/7)

アンリ・フォルマン『戦場でワルツを』
 1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻と親イスラエルの民兵によるサブラ・シャテイーラ大虐殺を実体験したイスラエルの青年兵士のPTSDを描きながら、戦争の悲惨さを表現した衝撃的な表現力を持ったアニメーション映画です。イスラエル人監督は、自分自身のPTSDによる戦場体験の記憶喪失を治療を伴いながら、記憶を復元していく過程がそのまま、観客にとってのレバノン戦争の表現となっています。パンフの評者はこの映画を絶賛していますが、私は非情に複雑な気持ちになりました。
 監督の両親はアウシュヴッツの奇跡的な帰還者であり、監督自身も6歳の体験であったことから、現在はイスラエル反体制左翼で反戦思想の持ち主です。第1の感慨は、ホロコーストの体験民族がおなじような支配と虐殺をパレスチナ人に容赦なく加えていること、第2にこのような映画が政府と映画界から評価され絶賛されるイスラエルとはなんなのか、この戦争より一層悲惨なガザ侵攻という最近の行為がなぜ両立するのか・・・などです。
 この映画はレバノンでは上映禁止であり、イスラエル政府は絶賛、イスラエル極左は非難という錯綜した評価を受けていますが、パレスチナ戦争の現実を知らない私は、かなり良心的な映画だと思いました。同時にこのような映画が堂々と作成されて、イスラエルの良心の存在が評価されるという「偽善的な」構造に疑問を抱かざるを得ないのです。名演小劇場にて。観客10名弱。(2009/12/8)

IMAGINE21・渡辺義治 横井量子『地獄のDECEMSERー哀しみの南京』
 南京虐殺の事実を解明しながら、加害の日本軍の次世代の戦争責任を問いかけるという、、そうとうにそうとうにしんどく重いテーマをに正面から挑戦しようとする二人芝居です。舞台も美術も簡素で、二人だけの演技が舞台を決めていますが、背後に流れる音楽がクラシックの定番であり、音楽の選択は工夫が必要だと思いました。次世代の戦争責任は、戦争責任を回避してきた世代の遺産を不可避的に継承しているという意味で、逃れることはできませんし、未決の過去の決済は後継世代がやるしかないのです。ただし直接に手を下していない、その意味では間接性がある問題でもあるのですが、このグループは当事者世代と同等に、或いはそれ以上に責任を自らの主体のとして受けとめようとします。右翼から見ればまさに自虐史観であるでしょう、たしかに演出の一部では責任を自らに引きうける姿勢に自己陶酔していると受けとられてもやむをえないシーンもあります。そうした姿勢は、やたらに合掌する宗教的なシーンがみられることです。直接的な遡及をめざす表現よりも、ぐっと抑制したなかでより深い哀しみの訴える力がにじみ出てくるのではないでしょうか。それにしてもこのような未決の重いテーマを、この演劇市場でためらくことなくうったようとする演劇には歴史的な意味があります。愛知県芸術劇場小ホールにて。観客100数名。もっと小劇場でやった方がいいのでは。(2009/12/4)

パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ『太陽は夜も輝く』(1990年)
 ウーン、タヴィアーニ兄弟はこういう映画も撮るのか? 原作はトルストイだそうですが、世俗の頽廃に絶望した青年が修道士としてキリストの世界に救いを求めていきますが、その世界にも世俗の誘惑はかたちを変えて忍びより、自らの捨て去ることのできない肉欲にさらなる絶望を深め、最期にはいずjこへともなく放浪の生活に姿をやつしてしまう、あまりにもピュアーな青年の数奇な物語です。トルストイの世界ならば、キリスト教の人間化として、ある程度分かるのですが、現代イタリアでこのようなテーマが対象となるとは、さすがにカソリックの聖地の文化の重さを実感せざるを得ませんでした。映像美が素晴らしい。IMAGICA発売DVVDにて。

ロベルト・ファエンツア『副王家の一族』
 じつに堪能すべき大河ドラマでした。シシリーを支配する名門貴族の一族が、19世紀半ばのイタリア統一という歴史の激動の渦中にあって、沈みゆく封建制に抗して生き残っていこうとするあがらいを父子の葛藤に焦点をあてて描きます。ヴィスコンテイの『山猫』とよく似たストーリーですが、山猫ほどに滅亡の美学を歌いあげるのではなく、しぶとく生き残ろうとするマキャベリステックな欲望を前面に出しています。監督はネオ・レジスタ(新しい監督群)と称せられる潮流の代表的位置を占めているそうですが、私は初めてこの監督の作品を見ました。ひさいぶりにイタリアらしい本格劇映画であり、じっくりと堪能することができました。名演小劇場にて。観客8名内外。(2009/11/14)

劇団民藝『静かな落日ー広津家3代』
 広津柳浪ー和郎ー桃子とつづく小説家3代を激動の時代を背景に描き、とくに松川事件をライフワークとした和郎と桃子の父娘の交流に重心を置いて描く。松川事件は権力による謀略の性格が強いが、党派に無関係にのめり込んでいくヒューマニズムは時代を超えて美しい。志賀直哉と宇野浩二が親友として登場したのには驚いた。しかしなぜ民藝がいま、このテーマなのかいまいち判然としない。演出は古典的な正統派であり、ところどころにユーモアとペーソスをたたえながら、和郎の苦闘に迫っていくが、赤間自白に到る警察の取り調べシーンは迫力に欠ける。21世紀の世界大恐慌と選挙革命による政権交代を迎えて漂流している日本で、権力犯罪と反共偏見がどのような歴史的意味があるのか、よく分からない。中高年の女性観客で会場は満席ですが、なにかこうした女性の常識的な良心を満足させるために人為された作品に見えてしまいます。名古屋市民会館中ホールにて(ネームビジネスで大学名になっていますが私は認めません)。(2009/11/13)

パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ『サン・ロレンツオの夜』
 聖ロレンツオの夜に願いごとをすればかなうというカソリックの年中行事の夜になにがおこったか? ナチス占領下の北イタリアの村の村人たちが、ファッシズム派とパルチザンに別れて骨肉相争う烈しい内戦を繰りひろげるなかで、村を襲った悲劇と最期の解放がえがかれます。狭い島国の日本は、このように近現代史で骨肉合い食うような烈しい争闘がおこったことはありません。独裁からの解放もイタリアやフランスのようにパルチザンの抵抗運動を中心に、自力で独裁を倒した体験的歴史もありません。欧州人はおそらく、人間の醜さも愛しさも目の前で知り尽くしているがゆえに、悪と偽に対する直感的な烈しい憎しみを感じるに違いありません。日本は占領されるまで自力で抵抗した勢力は根こそぎ弾圧されるばかりか、一般市民も権力と一緒になって迫害し、核爆弾や大空襲の被害体験による加害の免罪にいく弱点を抱えたまま、戦後を生きてきました。そうした歴史の違いがあまりにも大きすぎるのです。
 ファッシストとパルチザンが民衆レベルで苛烈に争うイタリア現代史の体験は、日本の感覚では理解できないでしょう。ムッソリーニを愛人とともに逆さづりにして処刑したイタリアと、最高司令官を免罪していつまでも王政を続けている日本のこの恐るべき落差! 激烈な物語を通して、イタリア人らしい人間性やペーソスとユーモアが織り込まれ、久しぶりに本格的な劇映画を見た感じです。21世紀に入ってこのような本格ドラマはつくられていません。しかも映像がまるでレンブラントの古典派のような色彩美で迫ってきます。さすがにイタリアらしい映画です。それにしても最近あまりイタリア映画のことを聞きませんがどうなっているのでしょうか。紀伊国屋発売のDVDにて鑑賞。(2009/11/12)

ボン・ジュノ『母なる証明』
 殺人罪で逮捕された知恵遅れの息子を必死で助ける母親がたどりついた真実を悲劇的に描きます。この映画からは、母の無条件の愛から母子相姦、イノセントゆえの罪、韓国社会の退嬰的な若者の世界そして根底にある貧しさ等々が浮かび上がってきますが、なによりも韓国文化の基底にある濃密な肉親的感情の凄さがあります。それは恨(ハン)という伝統的な民衆的心情の世界とつながっているのでしょうか。そしてなぜかガルシア・マルケスなどのラテン世界の赤々とした血の世界を思いうかべました。日本で云うと、前近代共同体の世界を描いた今村昇平の映画を思いおこさせました。しかし韓国映画は、濃密な感情世界の演出が枯れたリアルな技術で描かれ、おどろおどろしさにのめり込んではいません。名古屋・伏見ミリオン座にて。驚いたことに満席。(2009/11/3)

若松節朗『沈まぬ太陽』
 いうまでもなく原作は山崎豊子の日本航空の社内紛争をとりあげた長編小説で、何年か前に読んだときは、組合が違えば同じ飛行機内で話もしないという実態を知って唖然としたものですが、とりあえず脚本は忠実に原作をフォローしており、ところどころにほころびもありますが、全体はスピードがあり面白く観ることができました。男女関係が多くてその部分は余計なものがあります。とにもかくにもこの日本航空は現在倒産寸前で政府による救済が迫っているという絶好の上映機会を得た得たせいか、観客が超満員で最前列で仰ぎみるという悲惨なことになりました。
  日本の高度成長期は同時に日本の革新的労働運動の高揚期でもありましたが、その頃の労働関係が浮きぼりとなり、それなりにひねっていますが、ついには倒産に到るというこのナショナル・フラッグの経営戦略そのものは問われてはいません。一部の出世志向に我を忘れた勢力が、業績主義にのめり込んでいく事実はありますが、第1組合が安全理念のために全力投球したのみでなく、分裂を醸成する弱点もあったはずであり、そのあたりまで踏み込んでシナリオ化すると、もっと深いものになったでしょう。それにしても、主人公が不当な配転を理由とする司法制度の裁きという方法を採用しないのが不思議であり、ここに良心派の企業主義への包摂があらわれています。名古屋シネマスクエアにて。満席。それにしてもこの監督は初めてです。現地ロケを含む相当な制作費を注ぎこんでいますが、角川は充分に採算が取れたでしょう。(2009/10/28)

デレク・チウ『孫文 100年先を見た男』
 いうまでもなく清朝を倒した辛亥革命の指導者・孫文を描く映画であり、革命を準備する不遇時代の日本からマレーシア・ペナンへの亡命時代を描いています。比類なき革命家を人間的に描くことにより、孫文の歴史的評価が現代中国でどうなっているかをうかがわせます。世界経済の前線に躍りでた現代中国の中華思想を自己犠牲的に体現した人物としてヒロイックに描きますが、意外なことに孫文の基盤が民族ブルジョアジーにあり、抵抗主体としての民衆は無自覚な被指導階級として描かれています。蒋介石の中華民国と孫文は切り離しています。このあたりが現代中国の映画製作の行政的背景がうかがわれ、面白いと思いました。大英帝国支配下のマレーシアの下層労働者として、インド人と放浪中国人が労働者階級を構成し、華僑資本と英国資本が結託しながら植民地経済を牛耳り、そのなかで華僑資本の民族意識が目覚めていく過程として孫文の革命的基盤を描いていますが、ほぼ事実なのでしょう。逆に言うと中国の社会主義革命が不可避の将来であったことを意味しますが、中国共産党をヒロイックに描いてきた中国映画界が、いまや孫文という近代反封建革命を英雄化していることに時の流れを感じましたが、紋切り型の演出技術は本質的に変わっていません。名古屋・シルバー劇場にて。観客10数名。(2009/10/27)

フレデリック・ワイズマン『パリ・オペラ座のすべて』
 バレエ愛好者にとっては堪えられないドキュメンタリーでしょう。世界最古のバレエ団の練習風景から楽屋裏まで、克明に写しだしています。とにかくこの鍛えあげられた若い肉体の駆使される光景は圧巻ですが、私はこの古典バレエの殿堂が、すごい前衛バレエに取り組んでいるのにおどろきました。単に身体的鍛錬に留まらず、そうとうの精神精神的錬磨なしにダンサーとして生きていくことはできないのです。さすがに労働権の強いフランスでは、国家公務員としてのダンサーが定年40を過ぎての年金問題とか、労働条件について団体交渉のような風景もあり、感心致しました。女性の芸術監督が毅然とした指導をしているのも興味深いものでした。3時間近い長編力作で疲れきってしまいました。伏見ミリオン座にて。観客20数名。(2009/10/21)

レーナ・アインホルン『ワルシャワ・ゲットー』(DVD版)
 1939年に開始されたワルシャワの40万人のユダヤ人の強制隔離居住に巻き込まれたあるユダヤ人家族のなかで生き残った兄妹の物語です。劇と記録フィルムが交互に入り組んでリアル感を高めます。少なからずのポーランド人が死を覚悟してユダヤ人を匿ったこと、解放後にポーランド人によるユダヤ人虐殺が起こったことなど、迫真的な描写です。これほどの民族の被害を体験したユダヤ民族が、パレスチナでおこなっている行為との連続性を思うと、暗然たるものがあります。(2009/10/19)

ケヴィン・マグドナルド『敵こそ、我が友ー戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』(DVD版)
 ナチス・ゲシュタポ(親衛隊)であり、リヨンの虐殺者と言われたクラウス・バルビー中佐のフランス占領時代、米軍の協力者時代、南米ボリビア時代を経て、フランスでの裁判で終身刑で獄中で病死する特異な生涯を描く。裁判での彼をみていると、 けっして凶暴な風貌ではなく、むしろ知的な感じさえ漂っている。こうした冷徹な人格ほど感情に左右されず、おのれの栄達を求めた非人道的な行為を平然とおこない得るのだとつくづくと感じる。印象に残ったことは、米軍の反共政策のひどさと裁判でのベトナム人弁護士の無罪弁護論の主張だ。しかし戦争犯罪の時効を停止して、いつまでも占領者の犯罪を追求する欧州に比しての日本の戦犯追及のあまりの非対称性に絶句せざるを得ない。(2009/10/19)

ウエイン・クラマー『正義のゆくえ I・C・E特別捜査官』
 移民国家アメリカの影の部分を赤裸々に描き出して最期まで見せる。おそらく9・11以降の有色系移民への露骨な排除に等しい捜査が深化した事実が背後にある。「自由の国」アメリカやアメリカン・ドリームがとっくの昔に幻想とかしているにもかかわらず、米国がなお世界の民衆を惹きつけるのは、こうしたハリウッド映画のお陰でもあろう。それは粗野な暴漢や冷酷な権力とたたかいながら、あくまでヒューマンな人間であろうとする米国市民を主人公として描き、共感と希望と救いを与えるからだ。たしかにそうした米国市民がいることも否定しないが、9・11以降の米国市民の大多数はイラク・アフガン侵攻に両手をあげて拍手したのだ。米国でのグリーン・カードや就労ヴィザを入手することがどんなに至難であるかはよく分かるが、これは米国モデルにいそしんでいる日本の明日に他ならない。米国のもっとも良心的な側面を表現し得ている映画という大方の高評に対して、違和感を覚えるのは私だけだろうか? なぜならヒューマンな救世主として登場するのは、きまって社会的地位を確保した白人に他ならないからだ。こうした偽善がもはや限界にきていることを示すのが、黒人大統領の圧勝であろうか。演出と撮影技術はさすがにハリウッドだ。名古屋ゴールド劇場にて。観客20数名。(2009/9/28)

ジム・ジャームッシュ『リミッツ・オブ・コントロール』
 要するに殺人を請け負った男が、それをなし遂げる過程をシュールなタッチで描くこけおどしの映画に過ぎません。スペインを舞台に、フラメンコを中心にあちこちと都市と農村の風景を堪能できる犯罪映画に過ぎません。スリラータッチで最期に到らないとストリーが分からないという前衛的な手法を用いていますが、底の浅いハリウッド映画に過ぎません。監督の名前にひきづられて観る方は遠慮した方がいいでしょう。まあ時間つぶしにはいいかもしれません。伏見ミリオン座にて。中高年数名。(2009/9/25)

崔洋一『カムイ外伝』
 白土三平の一世を風靡した忍者漫画が原作です。1960年代の学生期に夢中になって読み、数十年を経て今年の6月に読み返すと、また面白くてとまらなくなり、ブック・オフで全巻揃えてしまうという結果になりました。まさかこの漫画を現代で映画化するとは驚きましたが、在日の崔氏なるがゆえに、そうした問題意識があったのでしょう。他の日本人監督は、もはや時代意識が違いすぎるとして誰も手を出さなかったに違いありませんが、白土のほんとうの代表作である『忍者武芸帳』も再刊されるそうですから、なにかリバイバル・ブームが起きているのでしょうか。小林多喜二『蟹工船』と同じようなブームの質があるのかもしれません。
 さてこの映画は、ほぼ原作を踏襲してシナリオ化されているように思いますが、CG技術を駆使して観客を圧倒する演出が多く、迫力ある画面が続きますが、なにか活劇風でこれでもかと登場人物を残酷に殺害していくシーンの連続であり、たしかに原作も殺害シーンが多いのですが、なにかもっと最底辺の差別に喘ぐ悲哀のようなモノが溢れでていたように思います。この映画は、残念ながら差別や逃亡の悲しみの内面には迫り得ていません。黒沢明の初期時代劇映画の演出からもっと学ぶべきものがあります。この映画は面白く最後まで見るのですが、終わった後にジーンと滲みてくるような感慨や差別への怒りはわき起こってきません。それだけおそらく現代は、観客一般も含めて感性の馴れが頽廃的に進展しており、監督も観客の想像力を刺激するような演出よりも、1次的な刺激を強調しないと映画界で生きていかれないとすれば、実に哀しいことです。名古屋トヨタスクエアーにて。ウイークデイにもかかわらず、観客が意外と多い。(2009/9/24)

人形劇団プーク『金壺親父恋」達引・カチカチ山』(名演例会)
 ウーンこんな大きな劇場で、人形劇を観たのは初めてかなあ。やっぱり人形劇は小劇場で観るべきものだとつくづくと実感しましたが、2階の末席からでもまあまあ分かるので、愉しむことはできました。プークはいまやこのような大衆娯楽劇をやっているんでしょうか、井上ひさしらしい人情喜劇ですが、中高年を主たる対象とするのは、こうしたものになるのでしょうかね。愉しむだけ?まあそれはそれでいいのかも。中高年女性で会場はほぼ満席です。名古屋青少年劇場にて。地階のジュンク堂にはじめていきましたが、さすがに人文書の棚の揃え方は、専門的ですばらしい。(2009/9/18)

クリストフ・バラテイエ『幸せのシャンソニア劇場』
 ウーンひさしぶりのフランス映画のエスプリとユマニズムのペーソスただよう作品です。1936年というファッシズムと人民戦線が激突する時代を背景に、パリの場末の大衆演劇場が舞台となっています。それぞれの人生の紆余曲折の甘酸っぱいストーリーを背景に、人間らしく精一杯にいきたいと願うフランスの雰囲気がよくでています。フランスでは文字どおり、ヒューマンであることは左翼であることを意味するのですね。この映画で興味を持ったのは、当時のフランス右翼(国民戦線)の日常活動がうかがえること、左翼を支持する民衆が「無政府主義万歳!}と叫ぶところなどです。1930年代のパリの風景はほとんんどCGで撮影されていましたが、それにしても街並みの枯れた味わいは素晴らしいものがあります。サルコジ体制下の現代フランスに根強く抵抗する人民戦線派の存在がうかがわれます。数年前に旅行した巴里パリの素晴らしい夜のセーヌ河を思いおこしました。平日の10時にかかわらず、ほぼ座席は埋まっているという感じで驚きました。名演小劇場にて。(2009/9/9)

アンドレア・モライヨーリ『湖のほとりで』
 ノルウエーの著名なミステリー作家の作品を原作とする文句なしのイタリア映画です。ある殺人事件の犯人を捜す警部を中心に、捜査線上に浮かび上がるひとびとの生きていく哀感が浮き彫りとなっていきます。さすがイタリア映画ですね。こうした人生の彫りの深さは、ハリウッドや日本映画には絶対に描けない世界ですね。真犯人の暴露にほんの少々のストーリーの乱れがありますが、最期にホッとするような苦い救いをもってくるところなど、こたえられませんね。名演小劇場にて。女性千円デーのためか、女性客が多く、男性は私を含め2名。(2009/9/3)

木村大作『劔岳 点の記』
 イヤー懐かしい劔の勇姿を堪能できましたね。何年前でしょうか、劔にの登ったのは、朝まだ暗い内に起きだして、急峻な絶壁をチェーンにつかまりながら、たどりついた頂上は岩場がゴツゴツしてせまく、見おろせば急峻な谷で恐怖に襲われたことをいまでも思いおこします。この映画で、いかに現在の登山が観光登山化しているか、実感した次第です。あそこに明治期にたどりついて三角点を設けた陸軍測量部がいたとは、この映画で初めて知りました。
 新田次郎の原作がおそらく素晴らしいのでしょう。精細な日本地図の完成が、日露戦争後の軍事目的であったとは? 現在のような国土地理院はまだなかったのでしょう。原作の素晴らしい点は、陸軍の要員でありながら、軍事目的から自立して地図づくりに賭けていく専門家精神という市民的自立が描かれている点です。軍部批判も含めて、スポーツとしての登山がまだ公認されていなかった時代の日本山岳会の黎明期も描かれ、山好きには耐えられない映画でしょう。演出も舞台づくりも、現地撮影を含めて素晴らしくていねいにつくられており、近年久しぶりに見るエンタテイメント映画です。ピカデリーにて。観客30数名か。(2009/9/1)

ステイーブン・ダルドリー『愛を読む人』
 ウーン久しぶりの本格的な映画をみました。原作は、世界的なベストセラーとなったベルンハルト・シュリンク(独)の『朗読者』だそうですが、私は読んでいません。なぜ原題のママで、上映しないのでしょう。少年期に愛を交わした年上の女性が、実はアウシュヴィッツのSS看守であり、終身刑で服役し、釈放当日に自殺するという凄まじい展開です。この映画は、ドイツの戦後史に於いて戦争とナチズム体験の世代間継承が、紆余曲折をたどりながらも、良心的な方向で着実に進んでいることを象徴しています。しかし大学でのナチ裁判授業の受講生が少ないように、必ずしも順調ではないことも示しています。SSが貧しい失業者を対象に隊員を集めたことも示されていますが、なによりも現代ドイツでいまもってナチ戦犯が裁かれていることが驚きです。日本では逆に過去の戦争を美化しようとする潮流が勢いを得つつあるのですから。
 しかし評論家も監督自身も語っていませんが、この映画は従来のナチスやホロコーストを描いた映画の水準をはるかに超えた、実は鋭く深い問題提起をおこなっているように思えました。それは、同じドイツ民族内部で元ナチスとの許しと和解は成立するのか、或いはドイツ人とユダヤ人の間の和解は成立するのか?という根元的な問題です。わたし自身は、戦争犯罪への許しはあり得ないが、過去の罪責への謝罪を踏まえた新しい関係はあり得るだろうと思います。さらに問題は、600万人の自民族を虐殺されたユダヤ人が、イスラエル建国後の歴史に於いてパレスチナ人への同じようなホロコーストを繰りひろげていることです。なにか希望のない人間の悪の深淵を突きつけられて、呆然とするしかありませんが、すくなくともこの映画は次々と現代の問題状況にひろがっていく問題性を持った映画です。はじめてリニューアルした映画館に行きました。木下ホールにて。観客4名。(20096/8/27)

SPIKE LEE『MIRACLE AT ST.ANNA』
 ウーンひさしぶりに堪能したエンタテイメント映画です。といっても、テーマは第2次大戦の米黒人部隊とイタリア・パルチザンの重いテーマなのですが、とにかくシナリオが凝っていますので、迫真的なシーンの連続で、それぞれのグループの内部矛盾を含む心理葛藤も描きこまれ、ナチス軍隊も単なる悪役ではなく充分な人間的彫りをもって描かれています。最期のハリウッドらしい感動的な(?)ハッピーエンドも用意されて、さすがスパイクリーですね。ただいかにも次への展開が事前に分かってしまったり、やりすぎのような演出(ナチス高級将校が拳銃を提供する)、或いは村落共同体の奇跡願望など、もうすこしていねいに描き込めば、歴史的な作品になったと思います。シルバー劇場にて。観客20数名。(2009/8/16)

◆エルマンノ・オルミ『ポー川のひかり』
 『木靴の樹』以来何年ぶりだろうか、この監督の映画をみるのは? まだ存命で活動中なのが驚きだ。アカデミズムに絶望したボローニャ大学の若い教授が、すべてを捨ててホームレス生活にはいる。そこに生きる市井の人々との哀感あふれる交流を描いて去っていくというーまあ単純なストーリーですが、こんな映画はイタリアだから撮れるのであって、日本ではどの映画会社も見向きもしないだろう。いかにもイタリア的な庶民のペーソスが満喫できる映画です。しかしリアルに見ると、高級知識人と庶民との間の越えがたい身分制のようなものもあり、階級性の西欧を痛感させます。おそらくボローニャ大学の荘重な図書館も圧巻であり、イタリア文化を満喫させる映画ですが、監督自身の意図は啓蒙的知識人の破産をノスタルジックに描いたのでしょうか。名演小劇場にて。観客10数名。(2009/8/13)

マーク・ハーマン『縞模様のパジャマ少年』
 ナチスによるホロコーストの真実を、ナチス高級将校の息子と強制収容所のユダヤ人の子どもの交流を通して描くという、ありえない作品ですが、面白いのは高級将校を含むドイツ人のなかにある反ナチの矛盾です。そうしたドイツ人の内部に於ける内部矛盾は、ドイツ人の自責意識を和らげるものとなるでしょうが、ここらあたりに甘さがあります。鋭さはむしろ、ドイツ少年がユダヤ少年を裏切るところですが、彼はその贖罪を自らがガス室に入ることによってとげるという悲劇的な結末になります。戦争の愚かさを子どもに伝えていくという点で優れた映画だと思います。デイズニーはこんな映画をつくることもあるんだ。伏見ミリオン座にて。(2009/8/11)

神山征二郎『鶴彬 こころの軌跡』
 ウーンじつに1ヶ月以上の久しぶりの映画鑑賞となった。病床から解放されて、ふたたび映画を見ることができるようになったことに、ジワリと感慨がこみあげてくる。大好きだったプロボクシングの鑑賞も、なにか殴り合いの野蛮に神経がついていけなくなってやめてしまい、はたして映画も残酷なシーンがあるのではないかと少々心配でした。一カ所、治安維持法違反で逮捕された主人公に拷問のシーンがあり、目を背けましたが、その他はかなりデフォルメされた象徴的な描写で、痛みを刺激するシーンはありませんでした。
 この作品は著名な戦前期のプロレタリア川柳運動のフロントランナーであった喜多を描いています。ひたむきにまっすぐにすすむ真摯な反戦の抵抗者として、少々ヒロイックに描いており、もっと全人間的に描写した方がいいのではないかと思いましたが、現代の日本の混迷を撃ち抜く豪速の直球型の映画であり、監督の危機意識が噴出しています。もう少し制作資金があって重厚なシナリオになれば、と惜しまれますが、現代日本の映画資本の実態ではこれが精いっぱいでしょう。シネマスコーレにて。観客中高年10数名。(2009/8/10)

ジャー・ジャンクー『四川のうた』
 四川省成都の軍事工場420は、巨大な人民公社機能をもつ軍需工場であったが、冷戦後の軍需減退の中で50年の歴史を閉じて、広大な敷地を民間企業に売却して閉鎖される。旧従業員の何人かがインタビュー形式で自らの工場時代をふり返る。青春のすべてを注ぎこんだ工場が閉鎖され、民営化の中で翻弄される労働者の哀愁が立ちのぼる。圧巻は冒頭の新会社移行記念式典と、女工達のインターナショナルの大合唱を背景に巨大工場が崩壊するシーンだ。かっての社会主義をめざした時代の情念がみごとに砕け散っていく象徴的シーンだ。
 こうした産業構造の大転換に伴う労働者の生活の激変は、日本では三井三池だが、中国は社会主義にもかかわらず、労働権が全く未成熟なことがよく分かる。労働者達は党の指令によって、唯々諾々と諦めていくのだ。この映画はそのような推移を哀感をこめて描くだけで、なんら未来への希望をこめてはいない。中国映画の水準は、技術的には素晴らしく向上しているが、民主主義の水準という点でははるかに未成熟だ。労働者をすべてプロの俳優が演じているので、それらしく演じてはいるが、やはりつくられてりうまさは否定できず、なぜほんものの労働者を直接に描かなかったのだろうかと思う。名古屋シネマテークにて。会場8割。(2009/6/27 15:38)

ロン・ハワード『天使と悪魔』
 ハリウッドが金に任せてつくった高級エンタテイメント映画であり、ねらいは先進国10億人のカソリック信者の動員主義がめだつ。こけ脅かしの宗教と科学の闘争物語で、両者の妥協を求めるヴァチカンの意図に添っている。シナリオも乱れがみられ、最後のどんでん返しもつまらない。ハリウッドは、だいたい日本の中学卒業生レベルを相手に製作しているので、しかたがない。まあ、ローマの教会観光と暇つぶしにみるには面白いでしょう。ミッドランドスクエア5。はじめてこの高層ビルで映画を観た。観客10数名で大赤字であろう。(2009/6/17 14:29)

ベラ・ベルモン『ミーシャ ホロコーストと白い狼』
 世界的なベストセラー『少女ミーシャの旅』の映画化だそうですが、私は原作を読んでいません。ナチスによるユダヤ人迫害から逃れた少女が、強制連行された両親をさがして、ベルギーからウクライナまでひとりでいく。少女はどん底の生活をし、森林では狼と生活しながら、たどりつくがついに両親には会えなかった。焦点は少女の艱難辛苦の極限を描いているので、背景はホロコーストでなくてもよかったともいえます。しかし欧州においてはホロコーストを背景とするリアルな映画になるのでしょう。ミミズを食べたり、生肉をむさぼり食うのは、欧州肉食文化のゆえでしょうか、日本人はおそらくできないでしょう。ただ映画は、シナリオの掘り下げと内面の描写が弱く、艱難辛苦物語におわっています。ホロコーストの問題性を深くうがっているのを期待したのですが、少々期待はずれでした。名演小劇場。観客6名。やぱりこうした映画は日本では集客力がないのでしょうか。(2009/6/148:32)

オリビエ・アサイヤス『夏時間の庭』
 いかにもフランス風の哀感とエスプリの漂う佳作です。というかこういう映画はフランスでしかつくれないでしょう。パリ郊外のうっそうたる森のなかにある古い家が舞台です。画家であった大叔父の素晴らしいコレクションが数世代に渡って受け継がれていきますが、ついに現代にいたってすべて売り払われ、美術品は政府に寄付されます。身を切られるような辛さと、アッケラカンと現代風に金に換える相続者の気持ちが交錯しながら、失われていくものへの哀切が漂います。しかしそれだけであって、それ以上のものはありません。滅びゆくものの喪失の美学とでも云うのでしょうか。
 じつは私も故郷の実家が廃屋となって朽ちはてようとしていますので、その想いはひとかたならず共感しました。このようにして時代は流れていくのです。これは故郷を失う者にしかわからない寂寥感です。しかし私は、この映画はフランスそのものがかっての素晴らしい文化を失って、アメリカナイズしていくことへの苦衷を表現しているように思いました。家を明け渡す前に、若者たちがパーテイを開く、そこで演奏されるロック音楽に、なんともいえない寂しさを感じるのです。それにしても欧州というのは、大都会の郊外に森林がひろがっているのです。1ヶ月も映画を観ていないので、久しぶりの感想となりました。名演小劇場にて。中高年が10人ほど。(2009/6/9 16:16)

フィリップ・コーリー『マリア・カラスの真実』
 オペラ・ファンには堪えられないドキュメンタリーでしょう。なにせ不出世の歌姫であるマリア・カラスの波瀾万丈のオペラ人生の栄光と挫折が、彼女自身の肉声で語られるのですから。しかしわたしがつくづく思うのは、ほんとうに欧州の文化の厚みというか、凄さです。チマチマした日本の四畳半文化などどこかへ吹き飛んでしまうようで、なんともため息が出るようです。そして一介の移民の娘が、ほとんど自力でサクセス・ストーリーを築き上げる偶然の戯れの恐ろしさと、パトロン文化の限界です。そのような世俗の物語を越えてひびく、カラスの女神のような美声は、ほんとうにウットリとしてしまいます。最近稀にみる芸術ドキュメンタリーの傑作といえましょう。名古屋・シネマテークにて。中高年女性がおおい。(2009/5/12 18:12)

エラン・リクリス『シリアの花嫁』
 ゴラン高原に暮らすイスラム教ドウルーズ派の娘が、さまざまの試練を乗り越えてシリアの男へ決然と嫁いでいく物語ですが、占領と分断によって生まれた地域と家族の葛藤やイスラム女性の自立など多くのテーマが織り込まれた「面白い」映画です。しかしこの映画は、第3次中東戦争によるイスラエルのゴラン高原占領後の地域史の知識なしに理解はできません。私はだからはじめてドウルーズ派の置かれた苛烈な生存の状況を突きつけられたのです。イスラエル占領下のゴラン高原のドウルーズ派信徒の多くは、イスラエル国籍の取得申請をせず、パスポートは無国籍者となっています。婚姻は親戚のいとこ婚が多いので、イスラエル在住者がシリア人と結婚してシリアにいってシリア国籍をとれば、永久にゴランへの帰還はないのです。こうした外的規定によって自己の人生を決定させられる状況を、娘の婚姻を通して描いたのがこの映画です。
 じつはこの映画は人為的国境線や宗教的因習を乗り越えようとする自立した主体の決断を描きますが、じつは私たちの想像を超えた残酷な映画でもあります。それはラストで検問を無視してシリア側に越境した娘は、おそらく実は射殺されただろうと推測されるからです。映画ではそこまで残酷に描きはしませんが、中東の置かれたシリアスな状況が浮かび上がってきます。しかしそこで日常生活をおくるイスラエル人もアラブ人も、淡々として生活を楽しんでいるような雰囲気で、ここに人間のペシミックな状況を越えていく監督のオプテイミズムがうかがわれます。ただゴラン高原に暮らすアラブ系の人たちが、イスラエルの大学に憧憬を持ち、高等教育に包摂されていく現状はいかにも残念です。それはアラブ語を棄ててヘブライ語を選び、ユダヤ文化に染まっていくことでもあるからです。
 パンフをみると驚いたことに、この映画はイスラエルと独・仏の共同製作となっており、イスラエル大使館が後援しています。映画でもイスラエルの兵士は優しく、シリア検問官は意地悪く描かれています。要するにこの映画は、よりソフトなイスラエル宣伝映画なのかといえば、そうでもなく親シリアの民族主義も肯定的に描かれ、イスラエル警察も批判的に描かれ、イスラエル占領による民族悲劇を主題としています。おそらくアラブ系のイスラエル人監督の民族を越えた共存を志向する良心がそうさせたのでしょう。しかし忘れてはならないのは、このゴラン高原の国連監視活動に日本の自衛隊が参加して活動していることです。パンフの諸評論家の分析は甘く、日本の映画評論水準がそうとうに衰弱していることがうかがわれます。連休の封切りで、観客は10名弱。名古屋・シネマテークにて。(2009/5/2 15:51)

ハナ・マフマルバフ『子供の情景』
 ウーン・・・アフガニスタンはこれからどのような運命を歩むんだろう・・・とつくづく考えさせられました。バーミヤンの巨大石仏の爆破からはじまる冒頭のシーンも衝撃的ですが、その石窟群に多くのアフガン人が日常の生活を営んでいるのにも驚かされました。この映画は、幼気で微笑ましくけなげな子どもたちの世界を描くことを通して、アフガンの残酷な現実を世界に伝えています。いまもってタリバンと多国籍軍の戦闘が激しさを増しているなかで、こうした子供の淡々とした日常の、しかし子供の世界こそ大人の世界を忠実に写しだした残酷さに充ちているのだと考えさせられます。
 教育関係者にとっては、学ぶということへの子供の持つ苛烈なこころを改めて信じさせられますが、そうした原初的な欲求さえもが大人との醜い戦争のなかでチリのように儚く扱われていくのです。しかし私はアフガンの未来がやはりこの子どもたちの学ぶ意欲に希望を懸けていることを信じるには、あまりに現実は苛烈であることを思い知らされます。戦争ごっこ遊びをいやがる女の子と、タリバン遊びに熱中して少女をいじめ抜く少年たちも、同じくおとなの行為の犠牲者であり、現代アフガンの、いや全世界の象徴なのです。「仏像は破壊されたのではない、恥辱のあまりみずから崩れおちたのだ」・・・この恥辱の意味の深さを世界はほんとうに理解することを求められていると思います。すべての希望を奪われた少女の後ろで、ふたたび石仏の爆破シーンが映し出されて終わります。ナイーブでピュアーな子供たちの表情をみればみるほど、この子供たちの生命を弄んでいる世界の現実の酷さが浮き彫りとなっていきます。
 おそらくアフガンの人たちは、特に子供は、生きていくのに必死で、学ぶチャンスなどないでしょうが、逆に自死などを考える神経など働かないでしょう。おそらくアフガンの死は戦闘による紛争死が大多数でしょうが、ひるがえってこの日本では毎年3万人を超える人が自死し、その数は毎年更新されています。この両極の死はなにか本質的には同じような構造を持っているような気がします。この映画はあらためて日本に生きている子どもたちの生きにくさを考えさせます。名古屋・名演小劇場にて。観客20数名。(2009/5/1 14:52)

アーノルド・シュワルツマン『ジェノサイド』
 ナチスによるユダヤ人絶滅の過程を描いて1981年のアカデミー賞長編ドキュメンタリ映画賞を受賞しています。なにしろナレーションがオーソン・ウエルズとエリザベス・テイラー、音楽がバーンスタイン指揮のロイヤル・フィルハーモニーですから、相当の資本を投下していることが分かります。ただし企画編集にサイモン・ヴィーゼンタール(ナチ戦犯追放国際機関)が参加していますので、強制収容所解放における米軍の貢献を最大限に称揚しています。言語に絶するショアーのフィルムがふんだんに登場しますので、ホロコーストを知るには絶好の映画といえましょう。私はむしろ、フィルムの背後にあるアニメーションや絵画による表現の痛々しさに注目しました。やはりどんなにがんばっても私には描画できない痛ましさの表現があります。この映画の題名では「ジェノサイド」を使っていますが、映画のなかでは「ポグロム」や「ホロコースト」が使われています。この関係がよく分かりません。この映画は、アカデミー賞を取るべくしてとったという、いわばハリウッドの米国讃歌のような印象もあり、複雑な印象があります。それにしても極限の民族受難を体験したユダヤ人たちが建国したイスラエルのパレスチナに対する行為をみると、なんと人間は愚かなことかと思わざるを得ません。DVD版。(2009/4/21 19:05)

シェーン・メドウズ『THIS IS ENGLAND』
 こうした映画をみると大英帝国の残影を引きずる斜陽の国というイメージが強くなります。率直に言ってもはや未来はないのです。たしかにサッチャーリズム下の大不況とフォークランド紛争という醜悪な戦争のもとで、もっとも犠牲となる製造業地帯の労働者階級の青春の歪みを描いているのですが、どのように描こうとこの国には希望はないということが伝わってきます。未来や希望のイメージを最初から奪われている青春のルサンチマンのエネルギーは、ロック音楽とパンクファッションに向かい、それが極右的なネオ・ナチの外国人排斥の暴力へと転落し、ついには仲間内の無差別暴力へと頽廃していきます。
 英国は絶望の国のように見えますが、しかし一方ではサッチャーリズムに対抗するNGO活動が凄まじい勢いで発展して世界的なモデルをつくっているのですが、この映画にはいっさいそうした労働者階級の水平的連携の動きはとらえません。したがって主人公の少年がネオ・ナチとの訣別を象徴するラスト・シーンも救いはないのです。
 そしてなによりも注意するのは、この日本こそが方向を失って沈むゆく英国の姿に次第に近づいていることです。いや日本のほうがもっと失望と傷は深いかも知れません。日本は英国よりもはるかにネイバーフッドが強いフレンドリーな地域社会を形成していたにもかかわらず、それが一気に失われてその激変への用意ができていないことと、英国のネオ・ナチがせいぜいスキンヘッドのレベルであるのに対し、日本では極右政治家が政権中枢を掌握しているからです。英国の労働者階級の危機を表現したこの映画は、まだ幾ばくかの温かさがあるのですが、日本で同じような若者のアウトサイダー映画はもっと陰惨でニヒルなものになるでしょう。ウイークデイにもかかわらず結構観客が多い、とくにロック関係の音楽にひかれている若者が多いようだ。名古屋・シネマテーク。(2009/4/21 15:59)
 
ペデイナ・オベルリ『マルタのやさしい刺繍』
 スイスの美しい村の風景を堪能するだけで、この映画は一見の価値があるといえます。荒廃する日本の農村に較べて、なんと手入れの行き届いた花の咲きほこる農村風景でしょう。最愛の夫に先立たれた老婆が、新しい希望をみいだして村人たちみんなにおよぼしていくほのぼのとした田園映画といえましょう。しかしたた単なる予定調和の物語ではなく、教会と地域政党を中心とする村の伝統的規範との摩擦や、家族の軋轢をおりまぜながら、さざ波が立つ日常生活が淡々と描かれます。いまは日本でも消えゆこうとしている地域共同体に埋めこまれた生活の、ある意味での豊かさはとっくに産業都市が失いつつあるものです。スイスの直接民主制をささえる住民集会が、日常に根づいていることもうかがえます。アメリカへの憧憬もありますが、スイスはやはりそうなのでしょうか。わたしはスイス映画をみた記憶がありませんので、よけいに印象深いものがありました。監督が30歳の女性というのも驚きですね。三越映画劇場にて。中高年女性で一杯でした。(2009/4/14 14:48)

フォン・イエン『長江に生きる ヒシアイの物語』
 世界最大(?)の三峡ダムに沈むある農家の7年間(!)を追跡したドキュメンタリーです。大地に根ざして生きる農民は近代化とは無縁の原初的農法によって幾ばくかの稼ぎをしながら、子ども世代が学校をへて、現代生活へ参入することを願うが、それもおぼつかない。園芸と畑による生活は営々と歴史とともにある中国農民にほかなりません。じつは自作地と土地所有制の関係がいまいちよく分かりません。大地に生きる農民の生活は、国家による巨大プロジェクトである三峡ダム計画に飲みこまれて、幾ばくかの補償金とともに立ち退きを迫られます。農民の耕作権はいともアッサリと蹂躙され、その交渉も畑におけるメモ書きのような念書で幕を閉じます。
 日本での開発政策とほぼ同じような権力による威嚇とカネによる誘導が見られるのは、社会主義システムにおいてもそうなのかという哀感が起こります。農民の共産党=官僚に対する冷酷な観方は、日本の官僚制に対する態度とほとんど変わりません。このドキュメンタリーは、現代中国の開発と生活の矛盾を写しだしていますが、未来への展望は語られていません。それはこの監督が日本に留学して(京大農学部大学院)、小川プロ系のドキュメンタリー作家と交流をもったことが背景にあるように思います。残念ながら中国の若い世代は、中国社会主義の前途に展望をいだいていないように思います。このドキュメンタリーは、7年間の歳月をかけた割には、中国農村の未来をうかがわせるような希望の要素はありません。いっさいの願望をえがかないリアリズムの極地といった感じです。名古屋・シネマスコーレにて。観客10数名。(2009/4/5 16:24)

アレクサンドル・ソクーロフ『チェチェンへ アレクサンドラの旅』
 ロシア軍のチェチェン侵攻をバックに、老婆が駐屯地にいる孫を訪ねていく泊かして帰っていく姿を淡々と描いています。大義を自覚しているのかどうか分からないようなロシア軍の疲弊と義務的な戦闘への参加が描かれ(ただし戦闘シーンは一切ありません)、そのなかでの祖母と孫の邂逅と別れ、兵士達との会話が乾いたリアルな描写で流れていきます。闇物資を流して売るロシア兵とチェチェン人が営むバザールの風景も、いったいなんのために戦争をやっているのか・・・空しさがジワリと伝わってきます。チェチェン人の売り子はタバコを老婆に売らず無視していますが、女性たちは民族の違いを超えて素朴な共感をいだき合います。わたしは、兵士の祖母を受け容れて丁寧に扱うロシア軍の民衆的姿に印象を受けましたが、だいたい肉親を駐屯地に受け容れるということすらが驚きです。戦争の背後に流れる敵と味方を超えた虚しさのような気配がただよって終わります。名古屋・シネマテークにて。意外と観客が多い。(2009/4/1 16:14)

人形劇団ひとみ座『マクベス』
 わたしははじめて本格的な人形劇をみました。ひもで操る人形劇ではなく、人間大の人形を黒子2〜3人が操りBGMも生演奏であり、座席も2列目でしたのでかなり迫力がありました。ストーリーはシェイクスピアの原作に忠実で、マクベスがダンカン王を暗殺し、狂気の果てに死んでいくというものです。権力への欲望の虚しさというテーマでしょうか。人形がそれぞれ抽象的な造型でなかなか不気味です。ただし演出は最初は劇的でしたが、波長が同じようで次のシーンが分かるようで、少し平板な感じがしました。これだけの人が情熱をかけて人形劇に打ち込んでいるのには感心しました。会場もけっこう若い人が多く、ほぼ満席で驚きました。入場料は当日券5000円で少し高いように思いましたが、劇団経営も大変なのでしょう。六本木・俳優座劇場。(2009/3/28)

ブライアン・シンガー『ワルキューレ』
 ナチス政権末期のヒトラー暗殺計画・7月20日事件の爆破実行犯であるシュタウフェンベルグ大佐に焦点をあて、ヒトラー暗殺計画の失敗過程をドキュメンタリータッチで描いています。この計画は結果的に失敗し、首謀者は処刑又は自殺したのですが、総逮捕者600名にのぼりましたから、相当に大規模な計画だったようです。処刑者のなかには告白教会のボンヘッファー牧師もいました。ワルキューレとは、戦死した英雄を天国に迎える女神の名前だそうですが、ワーグナーの『ニュルンベルグの指輪』でオペラ音楽として名高く、『地獄の黙示録』の米軍ヘリコプターのBGMとして圧倒的な効果を発揮しましたが、この映画では空爆時の導入で使われています。ワルキューレ作戦とは、もともとドイツ国内に大量に連行された捕虜や外国人の反乱を想定した非常作戦であり、暗殺計画はヒトラー殺害を契機にこの作戦を発動して権力を握ろうとして失敗したのです。
 シュタウフェンベルグ大佐は帝政ドイツ以来の伯爵家という名家の出身であり、現ドイツ経済大臣は彼の孫に当たるようですが、戦後ドイツではシュタウフェンベルグはヒトラーに抵抗した敬虔なカトリックの英雄として祈念されています。ためにサイエントロジーの広告塔となっているトム・クルーズが主演するに対し、ドイツ国内の反発は強く、国内での撮影は難航して公開が遅れたそうです。

 さて映画自体は緊迫感あふれる高度の演出技術を示していますが、いまなぜハリウッドが、ヒトラー暗殺計画を映画化するのか、その意図がよく分かりません。反ナチ映画はば、欧米では一定の観客を動員することを見越しただけであるならば、西部劇の悪漢退治と同じですが、どうもそれだけではないようです。だいたい私は、イラクで100万人を殺害した米国の戦争犯罪に指一本触れ得ない戦後世界をおもえば、この映画を単なる反ナチ抵抗映画としてみることはできません。自国の戦争犯罪を描けないハリウッドが、反ナチ抵抗を描くことによって、アメリカン・デモクラシ−への支持をつなぎ止める効果は客観的にあるでしょう。ここらあたりにドイツが非協力の姿勢を示したほんとうの問題があるような気がしますが、独国防省が「民主主義ドイツを描くこと」を条件に撮影を許可した経過からみれば、そうとうに原作のシナリオは問題があったようです。
 しかしさらにいえば、戦後ドイツの一部に、戦争責任をナチスに押しつけて免罪されようとする動きがあり、その主要な論理として、ドイツ国防軍はナチスやSSと一線を画した尊厳ある軍隊であったという弁護論であり、その証明として国防軍内部(陸軍)の最高級位の高級軍人が主導した7.20事件が使われるのです。しかし国防軍をナチスから切り離して擁護することは実態として明らかに作為的な誤謬です。この映画はそうした国防軍美化の効果をもたらすことは間違いありません。ただ旧日本軍と較べれば、はるかにドイツ国防軍の軍事思想のレベルは高かったことが分かります。旧日本軍は最後の地獄のような敗北状況にあっても、戦争終結のための軍事反乱を企画する高級軍人など皆無であったのですから。109シネマズ名古屋にて。日曜日でかなり観客は入っていた。(2009/3/22 15:47)

フローラン=エミリオ・シリ『いのちの戦場ーアルジェリア1959ー』
 1959年ってわたしは何をしていたのかを思いだすと、高校生で一生懸命に受験勉強に励んでおり、翌年に新安保条約が成立し、徹夜のラジオ放送で国会前の衝突の中継に昂奮し、浅沼稲次郎の刺殺事件に衝撃を受けた記憶がよみがえります。しかし田舎の高校生にとってはここまでで、その後はずっと平穏な学校生活が過ぎていきました。大学入学で上京した学生生活は、安保闘争の終わった後でなんとなく湿った空気がただよっていましたが、日韓条約問題のなかで活性化してきました。ちょうどそのようななかで観たのが、『アルジェのたたかい』というアルジェリアの独立を描いた映画でしたが、この映画は都市ゲリラによるテロ活動をへての一斉蜂起に到る情景であり、これもまた昂奮した記憶があります。とくに赤ん坊が乗っている乳母車に爆弾を仕込んで爆発させるシーンは、いまでも鮮やかに覚えていますが、この時期には無辜の市民を巻き込むテロ戦術について煩悶することなく、無条件に讃美していたように思います。テロは抵抗権の至当な形態であったのです。
 さて本作も、同じアルジェリア独立運動を描いたものですが、驚いたのは都市は一切登場することなく、山岳と砂漠を舞台としたゲリラ戦争です。私ははじめてアルジェリアが広大な砂漠を抱えたアフリカ大陸の地域であることを実感したのです。この映画の最大の焦点は、フランスと複雑に入り組んだ民族構造にあるアルジェリア人の敵・味方に分かれた闘争でもあったということです。そしてベトナムと同じく明確な植民地独立戦争でもあり、この重層的な入れ子構造のような複雑な様相をなしていると云うことです。私は過去の汚辱であり、忘れたい過去でしかないこの戦争を自国の恥部として描く、現代フランスの歴史認識の水準に敬意を表する次第です。過去の栄光を仮構しようとする日本の現状となんという非対称的なレベルでしょう。そうした観点からこの映画を観ている映画解説者はいったい何人いるのでしょうか。それにしても土曜日の早朝から会場は満席で驚きました。名古屋・名演小劇場にて。(2009/3/14 18:47)

文学座『初雷』
 仕事と家族の選択をめぐる女性の自立と葛藤? 自立しながらも協同を求める家族愛? テーマはそれ以外にもありそうですが、本質的には高度に洗練されたホームドラマに過ぎません。現代の家族と女性の情況は、もっともっとシビアーで抜き差しならない分裂や荒廃をかかえ、あるいは頽廃するミーイズムに呻吟しているなかで、なんと自己満足的な演劇をやっているのでしょう。これが現在の文学座の本質なのでしょうか? とてもこの作品は現代の普遍と結びついたリアリズム演劇ではありません。たしかにこのような部分的なリアルはあるでしょうが、それが普遍的重みを持たないのは、相変わらずの女権主義的自己解放と自己献身の矛盾という近代に留まっているからです。観賞後に胸にしみ入るような共感と明日からまたあらたに生きようという余韻のような情感はありません。自己決定・自己責任の洗練された思想があるからに過ぎないからです。これは社会的な規定情況との係わりを切ってしまっている閉塞した市民感覚に留まる文学座の本質的な限界です。
 それにしても市民的鑑賞団体がいつまでもこのような、時代の先端的・先駆的なテーマと真正面から対決するテーマを回避して、私生活に閉塞する作品を選ぶようになったのはなぜなのでしょうか。それである部分の鑑賞人口を獲得できるかも知れませんが、もっとも大事な鑑賞層を失意のうちに遠ざける結果となっています。率直にいってつまらないのです。内容とは別に、役者の演技と台詞回しの水準が素晴らしいので、よけいに無残な結果をもたらしているのです。可もなく不可もなく、それなりに現代の葛藤の局部を描くーというのが劇団の理念ならば、それはもはや頽廃以外の何者でもないでしょう。文学座の再建?に向けた新たな試行を願うや切なるものがあります。名古屋市民会館中ホールにて。(2009/3/13 21:02)

NHKハイヴィジョン特集『あの夏 60年目の恋文』
 昭和19年のある夏をともに過ごした教育実習の女教師とクラスの生徒の懐かしい日の想い出が60年を経てよもがえる。きっかけは、ドキュメンタリー作家となった少年がフトしたことで読んだ『昭和万葉集』の一作です。作家は、この作者こそ氏名は違え、あの女教師に違いないと確信したのです。少年(10)はその教育実習生(19)に淡い初恋をいだいていたのです。おどろいたことに作家は、今は老いた女教師に手紙を送るのです。そこから始まった往復書簡をへてついに再開へと到ります。その2人の間の取り持つトリック・スターのように、女教師の孫となってお茶の水女子大の学生が同じ教師の道を進もうとする姿を描きます。過ぎ去った過去への美しい想い出が走馬燈のように復元され、奇跡的な再開へと到るドキュメンタリーです。いやこれはドキュメンタリーではなく、俳優が演技していたのでしょうか。あまりにふたりが美しいからです。いややっぱりドキュメンタリーでしょう。作家の現在の妻もあたたかく見つめているところが、温かさを感じさせます。
 この映画はノスタルジーの甘美の究極を描くことに成功しています。シナリオと演出の技量の高さを感じさせます。さすがNHKの一部には素晴らしい作品創造力があることを示しています。特に老いた2人が、小学校時代の京都の住居を訪ねた時に、泣きだした女教師の姿をころがったツエ1本で表現したのが秀逸でした。そして私のように屈折している者にとっては、このようにピュアーで美しい映像を見せられると、すなおにその世界に没入することに、どこか抵抗を覚えるのです。だけれども、小学校時代の淡い恋の対象(しかも女教師)に真剣に再開しようとする純情には、どうしても圧倒されます。癒し効果を与えるのでしょうか。こうした世界で生きている人は、このうえなく幸福な人々でしょう。私は徹底したNHK懐疑論者ですが、いまでも維持されている映像技術の高さには敬服するものがあります。(2009/3/13 01:34)

滝田洋二郎『おくりびと』
 米国アカデミー外国映画賞受賞のニュースで騒がれていますが、私は見逃していましたので、本日の朝に見に行ってきました。驚いたことに30分前なのに、映画館の前は行列ができていました。ただしほとんど中高年です。会場は満席でした。日本では描かれたことのなかった納棺師という遺体を綺麗にして納棺する専門職の世界を描いています。納棺師は葬儀ビジネスに組み込まれて下請的に成立している「隙間ビジネス」で、人間の遺体を直接的に扱う葬儀の重要な過程を担当していますが、社会的には認知されるどころか賤業として排除されています(おそらく中世以降の賤業職の身分的底辺にあったのでしょう)。ある失職した青年が納棺師の世界に入り、次第に人間の死と遺体を清める仕事に独自の意味を見いだしていく過程を描きます。遺体を清め納棺する過程の技術は職人的な洗練があり、しかもそこには故人と遺族の決定的な別れという荘厳な時間と空間が流れますから、人間の本質的な姿が露呈されます。
 映画技術はたしかに感動を盛り上げていく一定の水準を示していますが、死と遺体の存在そのものの圧迫感ある尊厳の凄さはでていません。現代では葬儀は完全にビジネス化しているのですが、その当たりの描き方も浅いものでした。深く自己省察を迫るようなちからを持った映画ではありません。同じ映画を黒沢明ならどう描いたであろうなどと、見終わった後に考えているのです。黒沢の「生きる」も似たようなテーマを扱うのですが、やはり映像と演出の技術は黒沢に遠く及びません。本木という主役はまじめで真剣な青年を演じて秀逸ですが、広末涼子が完全にミスキャストでなにか喜劇のようなイメージがただよってくるのです。広末の演技は残念ながら大根です。それは彼女の責任ではなく、彼女の身体イメージがそうなのでから、起用に問題があったのです。
 この映画がアカデミー外国映画賞を得たのは、有力候補が反イスラエル的政治性にあったからだと推測され、『おくりびと』はその点でラッキーだということです。しかし日本映画で納棺という極限的な世界を正面から描いたのははじめてであり、死と遺体処理をめぐる国際的な癒しのような共感を得たのでしょう。(2009/2/25 17:04)

イジー・メンチェル『英国王給仕人に乾杯!』
 じつに東欧や旧ソ連圏の映画は西欧古典主義の典雅な雰囲気がただよう正統派が多い。私はチェコ映画をみた経験を思い出せないのですが、ミラン・クンデラ、カレル・チャペックといった作家から人間くさいコメデイタッチを連想しましたが、予想は外れませんでした。この映画の原作はチェコでは有名な作家であるボフミル・フラバル(1914−97)の同名のものだそうです。生涯を給仕人として過ごした主人公が、ナチスによるチェコ占領から社会主義政権下での投獄を経る半生を通じての、チェコ20世紀のドラマです。親ナチも反ナチも含めて、人間くさいヒューマニテイがあふれ、歴史の翻弄される人間ドラマです。リアルに描けば、相当な惨めさがともなうシリアス・ドラマとなったのでしょうが、コメデイ風に描くことでかえって哀しみと共感が歓喜されます。ほんとうに欧州映画は底が深い文化の蓄積を感じさせます。ハリウッドや日本映画の思想性と表現の底の浅さは恥じらわねばなりません。名古屋・シネマテークにて。ウイークデイの朝でも観客以外と多いのには愕きました。(2006/2/2317:02)

高橋 玄『ポチの告白』
 3時間を超える久しぶりの長編劇映画ですが、途中で間延びすることなく最後まで見せきります。なにしろ、日本警察のリアルな犯罪を内部告発的に描くのですから。登場する犯罪は、職務質問の私的横行、交通違反切符の恣意的な行使からはじまって、警察による麻薬ビジネス、ヤクザの麻薬と引き替えにヤラセの拳銃押収、麻薬に溺れる警官、風俗犯罪を見逃して稼ぐみかじめ料、警察自身による殺人等など際どいのが満載です。主人公は高卒の下級警官が刑事へ昇進し、組織犯罪課長へ出世するとともに、しだいに悪徳警官へ変貌して最後に生け贄として逮捕されるといったストーリーです。警察専用バーなどというのがあって、「暴力団と共産党はお断り」というのには笑わされました。政界や検察司法一体となった隠蔽、記者クラブによるメデイアの協力など警察犯罪の恩賞も暴かれます。暴露型告発映画なので、組織の論理に次第に絡めとられていく非常と最後には着られる冷酷さを描きますが、組織内部の良心派がいっさい登場しませんので、内部矛盾と内部改革の表出はありません。脱出口は、欧米的な警察官組合とスト権を含む労働基本権など警察民主化に他なりませんが、こうした方向性はありません。だから観客は反警察意識を沈殿したニヒルな気分を味わって映画館を出ることになるでしょう。朝10時開映でしたが、結構客は入っていました。名古屋・シネマスコーレにて。(2009/2/22 15:45)

セルジオ・レオーネ『ワンス アポン ア タイム イン アメリカ』
 「昔々アメリカで」といった意味だろうか? 禁酒時代を生き抜いたユダヤ系ギャングの友情と裏切りを濃密に描いたギャング映画の傑作といえましょう。演技も素晴らしいが、監督の演出と描写の映像技術が素晴らしい。マフィアと労働運動のリーダーの頽廃的な関係を鋭いが、それ以上に生き馬の目を抜くようなアメリカの生活の凄さが浮き彫りとなっています。最底辺に位置する移民の出身が、どのように生きることを選ばされるかというアメリカの冷酷なシステムが背後から立ちのぼってきます。労働運動の指導者がミスマッチで、ここを深くえぐればもっとリアルなものになったと思います。しかしこの映画には、民衆というか庶民の姿が基底にありませんので、アメリカを含めた生きることの希望はありません。描写は非常に美しいのですが、ニヒルな共感に溺れそうになっていきます。もしかしたら逆説的なアメリカ文化批判でしょうか。映像の技術は文句なく素晴らしいものがあり、またモリコーネの映画音楽がピッタリで情感を深めます。これほどに映画にフィットする映画音楽はありません。DVDで2度目を見た感想です。(2009/2/21 22:50)

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザー』
 ふとTVをつけましたらこの映画をやっていましたので、ついつい引きこまれてみてしまいました。ストーリーは、ほんとにばかばかしい、ニューヨークのマフィアの血なまぐさい権力闘争を描いているに過ぎませんが、このマフィアが貧しいイタリア移民(しかもシシリー島出身)ですので家父長制の濃厚な愛情と忠誠の入り交じる血の匂いが漂うものです。コッポラのシナリオと演出が素晴らしく、それに応える俳優人の演技がまた迫真的であり、エンタテイメントとしては最高の作品になっています。ギリシャ悲劇かシェイクスピアの雰囲気が漂う重厚な作品です。しかしそれ以上のものではありません。堪能しても明日への希望がでてはきませんし、人間への信頼も醸成はされません。女たちが男に愛情を捧げながら支配を甘受するのは、あくまでイタリア的な前近代の残滓なのでしょうか。女性の描き方を深めるともっと凄い作品になったでしょう。ここにコッポラの限界がありますが、もし彼がマフィアの世界を描いて、権力闘争の虚しさを訴えようとしたのであれば素晴らしいと想います。。BS2にて。(2009/2/15 19:29)

ニコライ・エック『人生案内』(1931年)
 久しぶりにVTRで旧ソ連映画を鑑賞しました。この映画は第1回ベニス国際映画祭最優秀監督賞を受賞しています。革命と国内戦で多くの孤児が浮浪児となって街頭をさまよいましたが、彼らを労働によって再教育し、喪われた尊厳を恢復していく物語です。ソ連初のトーキー映画ですが、ふんだんにエイゼンシュタイン風のモンタージュ技法が駆使され、80年を経ようとしている現在にあっても新鮮でリアルな映画です。さまざまの紆余曲折を経て浮浪児は人間的変革を遂げていきますが、なんらかの生きるめあてを獲得した者の人間変革の可能性は現代においても本質的に共通しています。革命初期の初々しい雰囲気が充ち、一方でスターリンによる収容所群島が推進されていることは、旧ソ連の痛々しい先駆としての試行の苦痛の坩堝でもあります。なぜ現代映画はこのようなヴィヴィッドで活力ある演出を忘れてしまったのでしょうか。IVC・VTRより。(2009/2/15 19:10)

エドワード・ズウイック『デイファイアンス』
 1941年、ナチス侵攻下で迫害されるベラルーシのユダヤ人たちが、森の中に逃げて共同体をつくり、赤軍パルチザンと共同しながら生きのびようとする苦闘を描いています。ユダヤ共同体内部でのさまざまの思想がかいま見え、ヒトラーとスターリンを同じ独裁者とみなすグループもあれば、赤軍と協力して武力抵抗をこころみるグループもいます。ロシア人たちの反ユダヤ感情もかなりストレートに描かれています。この映画はユダヤ共同体の生存闘争を指導する兄弟に焦点を当てていますが、すこし状況の掘り下げが弱いように思います。ユダヤ人たちが無抵抗のままに、ホロコーストに屈したという神話への否定的な運動が現実に存在したのだということを伝えています。なぜいまもって、ナチスの迫害を受けるユダヤ人という映画をつくりつづけるのだろうか。
 この映画は名古屋市内で上映がなく、隣接する三好町のジャスコ三好という大規模なレジャーセンターに行きました。いまやトヨタ系工場地帯となっているこの街の風景は、かっての三好ではなく、広大な畑地と一大レージャーランドが共存する典型的な現代の工場町となっていました。(2009/2/14 16:08)

高橋伴明『道元』
 日本の仏教教団の開祖を描く映画の典型的映画であり、宗祖を崇拝の対象として権威的に描きます。どのような人間的描写を入れたとしても、それは限界があるのです。その原因は、開祖の生きたリアルな時代背景のなかに宗祖を入れ、さらにその信仰理念の本質に迫ることができないからです。なぜ道元は中国に留学したのか? 彼がなぜ曹洞宗を選んだのか? 信仰理念の時代的本質はなんなのか? この映画は庇護を受ける地頭勢力や、遊女、孤児の出家僧を配してそれに迫ろうとしていますが、演出が紋切り型であるために表現の深まりがないのです。武士層の戦乱の死の争闘の虚しさや、生きることの煩悶、なぜ辺境武士が受容し、中央権力に包摂されなかったのか? などなど表層の描写に終わっています。曹洞宗が下級武士に受容されていった過程を描かねばなりません。歴史的人物の描写はやはり黒沢明に及びません。おそらく教団からの政策資金提供の枠内でつくらざるを得ないからでしょう。名古屋・ミリオン座にて。意外と中高年層の観客が多い。(2009/2/5 15:46)

ステイーブン・ソダーバーグ『チェ 39歳 別れの手紙』
 革命キューバを捨てて、なぜ南米ボリビアに行ったのか? これに迫らなければこの映画の意味はないと思うのですが、淡々とボリビアのゲリラ武装闘争の敗北の過程を描くのみで、中南米の矛盾を照射するダイナミズムがありません。所詮要するにハリウッドが受容するゲバラ像の枠内で描かれ、ボリビア共産党の非協力によって、ヒロイックに孤立するゲバラが浮き彫りになるだけの映画に過ぎません。キューバが革命を輸出するかのような描き方をしているのも、たとえ事実がそうであれうなずけません。高級な左派系エンタテイメント映画に過ぎません。109シネマズ名古屋にて。観客少ない。(2009/2/1 16:02)

テンギス・アブラゼ『懺悔』
 グルジア映画を観たのは初めてでしょうか。製作は1980年代であり、諸事情を経て日本の一般公開は20数年を経ての現在になったのですが、充分に衝撃的な内容です。シュールな手法をふんだんに駆使する方法は、エイゼンシュタインやアンゲロプロスの影響なのでしょうか。スターリンを思わせる独裁の痛ましい監視社会の犠牲を描き、独裁者がなぜ独裁者となるのか、それに加担していく社会がどのようにつくられるのか? 一言で言えば能力のある善意の者の独裁の恐怖です。こうした映画を観ると、旧ソ連・東欧圏で社会主義という名のつくシステムは2度と復権することはないだろうと確信せざるを得なくなります。問題はスターリン崩壊後もその加担の責罪は市民的に成熟することなく、剥き出しの市場化が進んでいるなかで、他方ではスターリン時代へのノスタルジアもあるという人間社会の問題です。言い換えればスターリン主義は、スターリンを含むすべての市民の合成の誤謬でもあったのです。アフォリズムや隠喩があふれていますので、監督のメッセージを解読するのが難しいのですが、あらゆる悪があろうとも何ごともなかったように日常は流れていく・・・そうした人間の深淵に迫ろうとしています。
 パンフでの映画評論は絶賛に終始していますが、その痛みをほんとうに共有しているのかどうか疑問です。なぜなら真に誠実であれば、スターリニズム構造と同質であった天皇制の贖罪に触れざるを得ないのですが、だれしもここを避けているのです。天皇制の呪縛はほとんどスターリニズムの呪縛と通底しています。それにしてもこれほどに、濃密で芸術性ある映画は日本では無理のように思います。文化の奥深さの差異を実感させられます。上京を機会に岩波ホールで鑑賞。ホールは2/3の入り。(2009/1/25 8:52)

原村政樹『いのち耕す人々』
 山形県高畠町の有機農業を志す農民のドキュメンタリー。都市消費者の問題意識と農村部耕作者の生き甲斐が重なって、有機農法が市民権を得る過程を淡々と描きます。農業がかけがえのない営みであることを証し、理念を越えた農村共同体の亀裂を恢復する希求に他ならないことを痛切に伝えています。株式会社方式による農業現代化戦略が、いかに日本農業の存在を損なうものであるかを如実に証明しています。営々とした小農民経営にのみ、生態系と環境をクリアーする日本農業の存立の条件があることを示しています。私の出自の農村の可能性を改めて教えられた思いがします。しかし原始的なノスタルジーへの逃避であるならば、リアルな経営指標によって冷酷に裏切られるものでもあります。都市消費者の援農の思想がホンモノであるかどうかが問われています。気休めのグリーンツーリズムを峻拒する厳しさがあるように思います。おそらく長期にわたって農村に滞留してルポを試みた撮影人に敬意を表する次第です。名古屋・シネマスコーレにて。意外と若い人がいるのに驚きました。(2009/1/16 19:59)

ロス・カウフマン&ザナ・ブリスキ『未来を写した子どもたち』
 米国の女流カメラマンがカルカッタの売春街で生きる子どもたちに、写真を通して希望をとりもどし、貧困から脱出させようと努力する苦闘を描いています。カルカッタの喧噪のカオスと、最底辺の売春街で生きる子どもたちの澄みきって強い光を放つ瞳と表情は素晴らしい。これは私がタイの小学校を訪問した時の印象とよく似ています。インドでは14才未満の義務教育と労働禁止を権利としていますが、実態は705万人の子どもが通学できず、1260万人の子どもたちが危険で有害な児童労働に従事し、30万人が性産業で働いています。カルカッタ(人口900万人)では、10万人が売春で生活し、その2−3割は未成年であり、インド性産業の中心都市になっています。
 そのうちの数人を助ける米国人の女性の行動をどう評価するかはおいて、少なくともどのような子どもも支援の条件が保障されれば、自ら成長していく希望を持つと云うことが確かに示されています。しかしこの映画では希望への脱出をアメリカ留学に求めているという致命的欠陥があり、オリエンタリズムのまなざしを克服しているとは云えません。南北問題における先進国の良心のあり方を深く考えさせられます。カルカッタといえば、インド有数の左翼政権下の州ですから、インド人から見れば複雑な印象を持たざるを得ないでしょう。或いは無邪気な強者の博愛主義を指摘する人もいるでしょう。アカデミー賞を受賞した背景もそんなところにあるのかも知れません。そのような垂直的なまなざしの関係を越えた支援のあり方を本格的に探していかなければと思います。販売されていた写真集は、8800円もしたので、残念ながら購入を諦めました。名古屋・シネマテーク。今日は映画女性デーであるのか、若い女性の観客が大勢いました。(2009/1/15 13:56)

ステイーブン・ソダーバーグ『チェ 28歳の革命』
 エルネスト・チェ・ゲバラがキューバ革命を成功に導く過程を描いています。グランマ号で上陸してから、シエラ・ネバダ山脈でのゲリラ活動を経て、都市制圧にいたり、ハバナ陥落までを描きます。劇画風の演出で、なぜ農民の支持を獲得したのか? 都市の労働運動とどのように結合したのか? コミュニストとの関係など革命勢力の主体形成は深くは描かれていません。ゲリラの英雄的な武力闘争に焦点を当て、民衆が主体的にどう参加していくのかは描かれていません。危うくすると革命の主要形態は武力闘争だということになりますが、当時の中南米に反体制運動の有効な形態であったのでしょう。従って指導者の英雄性が前面に出るわけですが、ゲバラ自身はそれほどに神格化してはいません。ドラマとしては面白いのですが、ロシア革命を描いた数々の名作に較べると、深さに欠けました。しかし世界大不況のなかで、こうした映画をつくるハリウッドの力を感じさせます。劇画風の演出は、日本の記者会見でプロレスラーを同席させることと結びついていますが、それは日本の興業側の問題であるかも知れません。なにしろ昨年年末にキューバ旅行をしたので、非常に興味を持って観たのですが、現代キューバとの連続性をそれほどに感じさせるものもありませんでした。おそらく監督は、革命そのものよりも、夢を実現しようとして献身する青春映画をつくりたかったのではないでしょうか。大劇場での上映は迫力がありましたが、会場はほとんど空席でした。名古屋・109シネマにて。(2009/1/11 15:59)

エンリケ・サンチェス=ランチ『帝国オーケストラ』
 ベルリン・フィルハーモニーとナチス政権の共犯関係を元団員の証言から明らかにします。長身のフルトベングラーがゲッペルス宣伝相のまえで一生懸命に指揮する姿は、まさに哀れを催すような芸術家の頽廃を感じましたが、当人と指揮者は政治とは無関係に純粋芸術のための献身と位置づけてるのが又哀れを催します。この芸術家の政治的無関心と非政治的姿勢の虚妄がは、ナチス政権下において、ナチスを讃美する演奏活動と戦後のNY公演での抗議活動によって白日の下にさらされますが、それでも自己反省できない音楽家のどうしようもない限界と非人間性を知らされることとなります。戦争芸術の責任問題は日本でも再審されなければなりませんが、ドイツでも免罪されている状況は救いがたいものがあります。但しこの映画自身は、ベルリン・フィルの戦争犯罪についての追求の姿勢はありません。ユダヤ人楽団員が追放されても、なんの抵抗もせず、鈎十字のもとで演奏した姿は救いがたいものがあります。ベルリン・フィルの演奏をこれから聴くことを忌避する気持ちが強くなりました。名古屋・シネマテークにて。会場満席。(20009/1/4 19:02)

ダニー・レヴィ『我が教え子、ヒトラー』
 ナチス末期の廃墟と化したベルリンで、最後の演説を試みるヒトラーの演説指導者として採用されたユダヤ人演劇専門家とヒトラーとの教授風景を喜劇タッチで描きながら、ナチス崩壊の最後をドラマテックに描写します。ヒトラーをこのように侮蔑的に描くドイツは、過去の決済に完全に成功しているように思えます。なぜなら日本で、天皇や東条英機を戯画的に描くことは生命の危険を覚悟するリスクが伴うからです。私は、ヒトラーとナチスは『地獄に堕ちた勇者ども』のようにシリアスに描いた映画に親しんできましたので、こうした漫画チックに描くことに戸惑いを覚えるほどです。こうした視点は『ライフ・イズ・ビューテイフル』以降の流れなのでしょうか。日本ではかっての戦争犯罪者を偶像化する潮流がむしろ強まっている点で、いかに日本がアナクロニズムの醜悪な状況に陥りつつあるかを実感します。名演小劇場。会場はほぼ満席。(2008/11/29 16:27)

ミカ・X・ペレド『女工哀歌』
 中国内陸部から沿岸部への出稼ぎ少女の実態を鋭くえぐるドキュメンタリー(?)です。沿岸部の開発特区のジーンズ縫製工場の少女労働は、日本の明治期の原始的蓄積期の繊維工場での少女労働を上回る苛酷なものであり、労働基準法もものかわ24時間の休憩なし労働もあります。けなげな少女達のまじめな労働力を極限まで搾取する労働は、もはや社会主義とは云えません。いったい市場経済型社会主義モデルの実験場として注目されている中国の開発経済は、資本主義初期の苦汗労働に過ぎません。少女達がそのなかでかすかな希望を失わず、必死で働く姿を見ると、社会主義中国の欺瞞性が鮮やかに浮かび上がります。市場経済型社会主義モデルの実相と理論分析を迫る力作です。名古屋・シネマテーク。観客10名弱。(20008/11/28 )

加藤健一事務所『詩人の恋』
 ウーンなかなかの本格演劇でした。零落した音楽教師とそこへ訪れた、壁にぶつかって模索する天才青年ピアニストが、シューマン「詩人の恋」の伴奏者と歌手のトレーニングを通して、しだいに互いの生きる証と音楽の魂を共振するに到る過程を感動的に、ユーモアを込めて展開する。音楽教師はナチ強制収容所から奇跡的に帰還した屈折したユダヤ人であり、青年は若いユダヤ系米国人としての出自が明らかとなる。この互いの苦悩と苦悩と歓喜が統合し合うところに、音楽の深奥が出現する。英国や日米に天才的音楽家が出現しないのは、彼らが侵略された体験を持たない国民であるからだー等とドキッとする台詞がでたり、韓国は偉大な音楽家が出現するだろうと云ったりする。ふたりのピアノ演奏が玄人のレベルにあるのは驚いた。観客を前にあれほどに演奏できるのは、よほどの特訓をしたのであろう。シューマンのピアノ曲の美とは、唯美主義の美しさではなく、人間が生きた哀しみと歓びの結節点に置いてなんだー絵を描いている私は絵画世界の美においても同じことを感じるのです。私の描画の方向が間違いではないことを確かめれた点で、この演劇はほんとうに貴重なものでした。
 それにしても加藤健一事務所の演劇は、いつも少数の役者で、長時間を濃密に緊迫した時間で引っ張り、すごいものだと思う。しかし加藤健一なしでこの劇団は成り立つのだろうか。一生一度も舞台に立てない多くの役者はどうするのだろうか。終了後にサインをしている加藤健一の所に行って、「あなたはほんとうにピアノを弾いているのか」と聞いたら、「そうだ」と答えた。名古屋市民会館中ホールにて。(2008/11/21 21:32)

木村威夫『夢のまにまに』
 日本を代表する映画美術監督の長編劇映画です。戦中派世代の自らの戦争体験をノスタルジアをこめて交錯しながら、新しい世代への継承を希求する想いが込められています。映像の美学とも云うべき木村監督の表現が圧倒的ですが、シナリオは綻びがあります。学生の戦没学生画への想いは、監督の体験的想いによって唐突であり、アメリカ崇拝と伝統の葛藤も実在的に掴まれていません。戦争体験の世代間継承への困難さに敗北しているようなシナリオです。戦中派世代の自己喪失感が未来へのメッセージとして伝えることの困難さを感じます。80歳を超えての映画製作のエネルギーには敬服の他ありません。結論的に云うと、日本は戦争の総括と世代間継承に失敗しているのです。岩波ホールにて。(2008/11/15 18:18)

青年座『マキノノゾミ3部作 赤シャツ』
 云うまでもなく夏目漱石『坊ちゃん』の翻案であり、山嵐、野だいこ、うらなり、マドンナ、狸、赤シャツが入り乱れて登場しますが、坊ちゃんはキヨに読みあげる手紙だけで登場しません。スポットライトは教頭の赤シャツに当てられ、中間派知識人の苦悩とでも云うのでしょうか、山嵐などのピュアーな正義派の行動に共感しつつも体制の中で生きざるを得ない良心を描きます。現代的には中間管理職の悲哀でもあるでしょうが、深読みすれば原理派左翼への批判ともなっています。しかしほんとうにこの悲哀を理解する人は少ないのではないかとも思います。青年座という劇団とマキノノゾミという脚本家の現代への視線をうかがわせますが、体制とのギリギリの接点で商業ベースに載せる現代演劇の哀れな実態を反映しているとも云えます。紀伊國屋ホールにて。満席。(2008/11/15 18:25)

レベッカ・ドレイフェス『消えたフェルメールを探して』
 フェルメールの絵は35点しかないが、私たちはそのうちの「合奏」をみることは今はできません。ボストンの美術館から盗まれてしまったからです。この映画は、驚いたことに盗作美術品を探す美術専門の探偵の探索ドキュメンタリーですが、それ以上ではありません。もっとフェルメールの作品に迫るシナリオであれば、芸術とスリラーが交錯する迫真的な描写があったかも知れませんが、いったい何をめざして制作したのか分からない駄作です。時には期待を裏切られる映画があるものです。名古屋・シネマテークにて。観客は美術愛好家なのか、意外と多い。(2008/11/1)

ブライアン・デ・パルマ『リダクテッド 真実の価値』
 イラク戦線に従軍したある中隊のおぞましい犯罪を告発するドキュメンタリー・タッチの映画です。フィクションとの断り書きがありますが、ほとんど真実に近いストリーでしょう。貧しく無知で卑猥なヤンキー達がイラク最前線で、イラク人をゴミ扱いして欲望のままに戦場で生きていきます。ハンド・ヴィデオによる戦場日記というスタイルが、戦場の狂気の日常をリアルに捉えています。もはやハリウッドさえこうした映画をつくり、映画祭に出品するのですから、イラク戦争の虚像が虚しいほどにさらされます。米国のイラク戦争への歴史的審判と米政府の謝罪と補償が今日的日程に上ってくるでしょう。まことに無知ゆえの罪の問題がクローズ・アップされますが、こんなことはすでに「ベトナム戦争で骨身に沁みて刻み込まれたはずのアメリカの醜悪な姿があります。BGMがなんとも迫力がありますが、それゆえに失敗しています。思わせぶりな演出も白々しさを催します。いったいハリウッドはこうした告発映画をいつまで作り続けるのでしょう。おそらくアメリカ帝国が滅亡するその時まで、ハリウッドは最大限利潤追求のための反戦映画をつくり続けるのでしょう。名古屋・名演小劇場にて。観客10名弱。(2008/10/18 17:46)

黒沢清『トウキョウソナタ』
 ウーン、なかなかのシリアス・ドラマではあります。中高年リストラの対象となってさまよう一家の主人、生きるめあてを失って米軍に入隊する長男、担任の理不尽と衝突して学級崩壊に導く次男、そしてその間を右往左往する妻・・・・・まさに今日的日本を凝縮する日常が繰りひろげられる小市民家庭の崩壊と再生を描いています。リアリズム映画ともいうべき映像が綴られます。電車の線路際にある一戸建ては、まさに高度成長期をくぐり抜けた大都会の庶民のかけがえのない風景であり、大都会の乾いた心性を凝縮しています。会社も学校も虚飾のない事実をリアルに提示しています。バラバラになって崩壊していく家族は、誰しも自分の身に引きつけて身につまされる部分があるでしょう。要するに云ってしまえば、市場原理主義に翻弄されて、人間の尊厳を奪われ、危うい限界状況に直面する現代日本を描いています。
 ところどころにシナリオの綻びがあります。中年の泥棒の逸話は不要でであり、前半の引きこまれるような緊迫感がヴァイオレンスに逆転してしまいましたが、それもなにか間延びして迫真力に欠けています。なぜ最後に救いの希望を持ってこなければならないのでしょうか。次男が天才的ピアニストとして登場するという、あまりに安易な救いのパターンは、かえってこの映画の真実を疎外したように思われます。家族がそれぞれの恢復の想いを込めて歩いていくといったシーンでよかったのではありませんか。ここに日本的映画の甘えがあります。逆に言えば、それほどの虚飾でカバーしなければ、希望が見えない現代日本の末期的惨状を示しているともいえます。名古屋・ミリオン座。会場は満席に近いので驚きました。(2008/10/17 18:28)

ケン・ローチ『この自由な世界で』
 イギリスの社会派監督によるイギリスにおけるネオ・リベラリズムの冷酷な実態を告発するドキュメンタリータッチの映画です。職業紹介会社を解雇されたシングラマザーの女性が、みずから不法移民対象の日雇い派遣会社を立ち上げ、追いつめられて不安におののく不法移民からあくどい中間搾取をおこなうにいたる。イギリスの労働規制の緩和と移民政策の残酷な実態が描かれる。自らも派遣先から裏切られて、移民から復讐を受けるが、最後はウクライナに乗り込んでなお不法就労斡旋をおこなう。告発に終始してケン・ローチ特有の人間的掘り下げが弱く、人間性を奪われ悪魔とも手を結ぶ市場原理主義への深い批判的表現となっていません。イギリスの労働社会の最前線と階級社会が隅々に顔を出します。それが残念ですが、英国の実態はこの日本とも本質的に共有しており、日本映画がこうした映画をつくれないのが日本映画の限界を示しています。名古屋シネマテークにて。会場はほぼ満席。(2008/10/4 17:25)

ミロス・フォアマン『宮廷画家ゴヤは見た』
 フォアマン監督はチェコ生まれで、両親をナチ強制収容所で殺されて孤児として成長し、プラハ大学入学以降に演劇活動に参加して映画に転じ、『アマデイウス』『カッコーの巣の上で』等の歴史劇で受賞しています。この映画は、18世紀末から19世紀初頭のスペインで宮廷画家として活躍したフランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンデスの目を通した時代の激動が描かれます。ゴヤは宮廷画家として王家や貴族、司祭の肖像画を描きながら、他方で重苦しい異端審問や戦争の犠牲者を版画化しています。特に処刑や虐殺、人肉食など人間の極限の野蛮を描いた作品は圧倒的な人間存在の悪を容赦なく暴露しています。ナポレオン遠征によるスペイン王家の崩壊から、英軍侵攻による王政の復活というドラステックな時代をバックに、主として異端審問の凄まじさは中世教会の野蛮を示してあまりあります。「アウト・デ・フェ」と称される絞首刑は、まるでお祭りのような雰囲気で執行され、処刑の後で民衆がダンスして愉しむのに衝撃を受けました。宮廷画家ゴヤが肖像画を描く時に、手を描くのは難しいのでカネを要求するのは、当時の芸術家の地位がある種のギルド的特権性をもっていたことが分かります。
 中世西欧の野蛮さはどうも日本の想像を超えた苛烈さがあり、文化の違いを感じます。処刑された遺体を馬車に乗せて運ぶ時に、子どもたちが歌を歌って囃したてるという凄いラストです。おそらく両親を収容所で殺された監督の想いが込められているように感じました。久しぶりに重厚な歴史映画をみました。日本で言えば黒沢明『乱』でしょうか。109シネマズ名古屋にて。観客20数名。(2008/10/4 23:58)

ジャン・ベッケル『画家と庭師とカンパーニュ』
 いかにも庶民的哀感溢れるフランス風の佳作です。こうしたしみじみとした人生の肯定を素朴に詠う癒しにフランス文化の誇りがうかがえます。それは声高には言いませんが、アメリカ型競争原理への静かな抗議となっているようです。しかも基底にはフランス労働者階級の矜持といった社会意識があります。「労働者階級への偉大な貢献」という弔辞のメッセージは最大のメッセージだそうですが、なにか『木を植えた男』を想い起こさせます。名古屋・名演小劇場。観客女性5名。(2008/9/27 9:17)

パウロ・モレッリ『シテイ・オビ・メン』
 ブラジル・リオデジャナイロのスラム街に巣くう少年ギャング集団の苛烈な内部闘争の日常から抜け出そうとする2人の少年を描く。このスラム街の凄まじさはまさに途上国の最底辺階級の実相が示されている。美しい海岸線からはるか離れた山の斜面に立つバラック軍は圧巻だ。おそらく相当の失業率を抱えているなかで、少年たちの希望のない焦燥感が暴力へと吸収され、それがまた世代間に継承されて犯罪は永遠に続くかのようだ。ピュアーで前向きの魂は傷つき、感受性は摩滅し、攻撃と防衛本能が剥きだしとなる。自動小銃で武装してまるで鬼ごっこのように戦う少年たちは、悲喜劇そのものである。ブラジルには約1200万人のストリートチルドレンがいる、6時間に1人の割合で路上で死んでいる、自力で貧困から抜け出せることは不可能だ。
 しかしこの映画には、スラムが形成されていく社会的な視角への描写は一切なく、ただスラムの内部が描かれるだけだ。だから階級固定の拡大を主導する新自由主義への批判的視点は一切なく、最近の革新系ルラ政権の誕生などの描かれない。スラムを超克する希望はない。あるのは脱出へのけなげな魂を守ろうとする少年2人であり、抗争に明け暮れるギャング少年たちの希望は描かれない。人口600万人のリオのうち、200万人がスラムで生活するという富と貧困のすさまじい非対称性を描かねばならない。
 総人口1億8千万人のブラジルでは、毎年4万7千人の殺人が起こっている。日本では毎年3万人が自殺している。これは途上国と先進国を越えた本質的におなじ現象ではないか。名古屋・シネマスコーレ。観客3人。私以外は若い女性であるのに驚いた。(2008/9/19 8:15)

俳優座プロデユース『東京原子核クラブ』
 久しぶりに面白い演劇をみた。東京・本郷にある下宿屋に住む人間模様を描きながら、核開発と科学者の良心というテーマを浮き彫りにする。下宿する若き日の朝永振一郎と師の仁科芳雄の研究をめぐる対峙や、日本の原爆開発のとりくみが描かれ、その周辺に戦時迫る庶民のそれぞれが必死に生きていく様相も味がある。日本も原爆開発を推進していたことが、広島・長崎を単純に抗議のシンボルとしている平和意識への鋭い批判となっている。ところどころシナリオと演出のほころびがあるのが惜しい。名古屋市民会館、会場満席。(2008/9/19 8:25)

ニキータ・ミハルコフ『12人の怒れる男』
 あまりにも有名なシドニー・ルメットの法廷ドラマのリメイク版というよりも、ロシア現代史を背景とする新作と云えるでしょう。ロシア的な人間への深い洞察と芸術性溢れる重厚な演出はハリウッドにはない、問題提起型作品となっています。出演している俳優もそれぞれが奥深い個性を刻印して、薄っぺらな日本映画にはない鍛えられた演技です。私は率直に言ってチェチェン紛争の本質を知らないのですが、被告となるチェチェン人少年を通して民族紛争のステイグマに触れ、さらにユダヤ人への差別意識、カフカス出身者へ差別など大ロシア主義の残滓がうかがえました。そしてソ連崩壊後のマフィア型市場原理主義による社会的頽廃もあり、なんだか現代ロシアの恥部が暴露されているようです。しかし登場人物に悪人がいないこと、すべて良心を抱えながら煩悶している人物として描かれ、監督のヒューマニズムへの確信があるように思いました。小鳥は希望を象徴しているように思われ、なんども登場する人間の腕を加えて歩く犬は、希望の対極にある現実の悲惨を象徴しているようで、ロシア文化の深みのある世界に彩られています。ラスト・シーンにルメットを越える現代への省察と救いが込められています。それにしてもミハルコフがプーチン讃美者であるのは驚きでした。裁判員制度が始まる日本ではまさに我が事になるのですが、私は人の生命を左右する裁判員になる気持ちがなぜか失せていくような気持ちになりました。名古屋・名演小劇場にて。ウイークデイにもかかわらず会場はほぼ満席。今日は9・11同時多発テロ7周年です。(2008/9/11)

坂田雅子『花はどこへいった』
 ベトナム戦争で米軍が対ゲリラ戦用に散布した枯葉剤作戦によって、エイジェント・オレンジ(ダイオキシン)を浴びた解放戦線兵士や村人の赤ちゃんに大量に発生した奇形児は、世代を超えて現代にまで及んでいます。記録写真家の夫も枯葉剤を浴びて癌で死亡した監督が、現在のベトナムを訪れて後遺症に苦しむ子どもたちを追跡するドキュメンタリーです。目を覆うばかりの奇形児が辻辻と登場し絶句します。途中で観客の母子が映画館を退席していくほどでした。しかしとうの奇形児たちは必死に生きようとし、家族たちもそれを支えています。すでに40年を過ぎて忘れられようとしているベトナム戦争の傷跡がいまもなお続いていることを突きつけられます。米政府と薬品会社の戦争犯罪はいまなお放擲されています。チクロンBによるホロコーストに並ぶ20世紀の最大の戦争犯罪が歴史に埋もれていきます。いたたまれない気持ちになりますが、私は欧米と日本の加害者側の人物が人道性を発揮するこうした映画に戸惑いを覚えます。無辜の子どもたちの命の尊厳とはなんでしょうか? そして戦争犯罪に加担した者の裁きとは? 加害の側にいる良心派の視線の問題は? つくづくと考えざるを得ません。名古屋シネマテークにて。観客10名弱。(2008/8/24 17:00)

阪本順治『闇の子どもたち』
 原作は梁石日です。なぜ在日朝鮮人の作家がこうしたテーマを取りあげたのか、興味があります。タイでの幼児買売春、人身売買、臓器移植のリアルな実態と、そこにむらがる欧米人や日本人の醜悪な姿がドキュメンタリーのように描かれます。良心的日本人の苦悩と献身が描かれるほど、じつは観客の罪の意識が浄化されるような逆説的効果をうみます。こうした日本人の「良心」の描き方が真実であればあるほど、より洗練された偽善を見せつけられているようでいたたまれなくなります。シナリオには大事なところでほころびが目立ちます。特に最後のシーンは観客には分かりにくいものとなっています。昨年タイを訪れて田舎の小学校を訪問した私には、あの輝くような、人なつっこい瞳をしたタイの子どもたちが浮かんできて、実態を知らないままにタイ旅行をした私の浅薄さに無知であることの罪を覚えました。もっともリアル感があったのは、タイ密売組織の運転手をしている下っ端ヤクザです。日本は人身売買に加担していることを世界から非難されていますが、それは闇の世界に閉ざされて、日常の生活では実感されません。人道に基づくNGO活動への参加意識も問われています。ジャーナリストの良心とNGOが対立的に描かれていますが、それほど単純ではないでしょう。すくなからずほころびがある映画ですが、正面から問題を問題として提起する原作者と映画監督に敬意を表します。普通は告発型ドキュメンタリーでマイナーな世界ですが、エンタテイメント劇映画として描くのですから。ほんとうの問題はこの映画の次にあります。こうした自国の恥部をオープンにする作品に全面協力するタイの人たちにも敬意を表します。音楽を桑田佳佳佑に依頼したのは完全にミスキャストです。彼の音楽はこういう世界とは無縁なのです。こうした重たい作品に会場が満席であるのも驚きでした。出演俳優の問題なのでしょうか。名古屋・ミリオン座にて。(2008/8/23 15:42)

藤本幸久『CRAZY AS USUAL アメリカばんざい』
 日本人監督が2年間かけて試みたイラク帰還兵へのインタビューです。ネオリベラリズムのもとで貧困と未来喪失にのたうつ最底辺の米国青年が、生活の糧と名誉への脱出を軍隊に求め、不正義の戦争に参加して、帰還後はPTSDと110jの恩給でホームレスになっていきます。米国の戦争が、貧困青年層を使い捨ての人的資本として消費し、廃棄していく構図が実写されます。一部は反戦運動のメンバーへと変貌していきますが、多くは裏切られた諦観のうちに過ごしているようです。これほど淡々とみずからの経歴を語る姿はしずかに胸に迫ってくるものがあります。おもえば米国の戦後は貧困からの脱出を虚栄の誇りに求めた若者たちが、打ち捨てられていくなかで、巨大な経済の繁栄を気づいてきたのです。今日も志願して訓練を受ける若者の姿を写して終わりますが、まさにCRAZY AS USUAL(いつもの狂気)に他なりません。それにしても日本人の制作者に対して、米国人が率直に自己の内面を披瀝していることは驚きです。中国人が製作したドキュメンタリー『靖国』と同じような視線で成功したドキュメンタリーのように思われます。
 問題は若者を傷つける米国の政策に加担している日本の現実にリアルな感覚がない日本の日常です。さらに日本でもおなじような若者の回路がじょじょに形づくられていることです。米兵と結婚して米国で暮らす日本女性が、「日本の米国と似てきているので、帰るのが不安だ」とつぶやいていました。ネットカフェの片隅で暮らす若者の排外主義と自衛隊指向が増えているような気がします。名古屋シネマテークにて。会場は若者と中年で満席。(2008/8/21 9:55)

ケビン・マグドナルド『敵こそ我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』
 すべて記録フィルムで構成されたドキュメンタリです。主人公はクラウス・バルビー、第2次大戦中の占領下フランス・リヨンで「リヨンの虐殺者」として多くのユダヤ人を強制収容所の送り、敗戦後は米陸軍スパイとして働き、次いで南米ボリビアで軍事政権を誕生させ、その後逮捕されて「人道上の罪」で終身刑を受けて獄死したナチス親衛隊員です。表情はあくまで温和で、ある程度の知性を讃えた普通のドイツ人に見えます。しかし本質は冷酷且つ残虐な独裁指向の忌まわしいサデイストに他なりません。こうした人格が形成される過程にとても関心を持つのですが、それは詳しくは描かれません。こうした人物は、自らの行為に対する罪の意識はなく、逆にある種の使命感を持って生きる確信犯でしかありません。「鬼子」としか云いようがありませんが、歴史はこうした人格を生み出すのです。ヤスパースは人間の罪を刑法上の罪、政治的罪、道徳的罪、形而上的罪の4種に区分し、その審判者をそれぞれ裁判所、戦勝国家、良心、神としていますが、バルビーにはもともと罪の意識がないのですから、こうした次元を越えたモンスターのような存在です。年老いたバルビーが淡々と自己の無罪を主張するシーンはおぞましいものがあります。良心の存在がない人物なのです。
 しかし映画の真の狙いは、こうした人物を道具のように使って国家利益を追求する国家の責任追及にあります。ユダヤ人追放に手を貸した占領下フランス政府、米国政府の国家的犯罪にこそ最大の問題があるのです。21世紀の現在に至っても、過去の戦争責任を追及するフランスに対して、過去の戦犯を復権させようとする日本の恥ずべき姿がよぎってきます。名古屋・ゴールド劇場にて。(2008/8/8 14:15)

アルベール・ラモリス『赤い風船』『白い馬』
 詩的で幻想的な伝説の映画が蘇って07年カンヌ映画祭で再上映され、絶賛を博した映画です。監督はシネマ・ポエムと評される映像作家だそうですが、私はいままでまったく知りませんでした。残念ながら、私は途中から眠たくなってしまい、眠気を払いながら見る状態でした。前席で小学生を連れた家族が見ていましたが、こうした映画を子どもにみせる親の文化をうらやましく思いました。残念ながらよほどに私の感性は錆び付いてしまったのでしょうか。「自分の感受性ぐらい」という詩が頭に浮かんで暗然とした気持ちになりました。名古屋・名演小劇場にて。(2008/8/8 14:53)

劇団・昴『アルジャーノンに花束を』
 何年か前に見た記憶があるのですが、初めて見たように思考を刺激されます。知恵遅れの青年が脳外科手術で天才の知能指数を手にれますが、逆に今まで気づかなかった人間の醜さを知ることになり、さらにいつか元の知恵遅れに戻らざるを得ない苦悩を描きます。劇評では、「ほんとうの幸せとは何か」「天才になることでほんとうに幸せは手に入るのか」を考えさせて、多くの人が涙したと書いていますが、終了後も釈然としない中途半端な気持ちが残ります。知能指数と人間的感情はパラレルでないという前提で、ダニエル・キースは考えているようですが、現代の発達心理学はむしろ知性と感性の総合的な発展可能性を探っているでしょう。元の知恵遅れにもどることによって、人間の自然性としての幸せを訴えているようですが、それほど楽天的でもありません。
 知性と感性は互いに補完しあいながら発展していくのだというメッセージであれば、より希望は深まったのではないかと思われます。ところどころにシナリオの乱れ(?)ないし演技の乱れがみられます。また「白痴」とか「ビッコ」などの現在では漢字変換を拒否する差別用語が堂々と登場しているのも驚かされます。要するに人間の発達とは何か? 発達との関連なしに幸福を考えることはできないのだーという21世紀の新しい「アルジャーノンに花束を」が書かれなければなりません。或いは視点を変えて、実験動物をめぐる問題に焦点を当てるなど、新しい展開が必要ではないでしょうか。しかしどうも最近の勤労者演劇の企画は平板なものか、リバイバルものが多い感じがします。なぜ現代のシリアスな問題に正面から切り込もうとしないのでしょう。名古屋演劇鑑賞会例会。名古屋市民会館にて(中京大学ホールとは云いません)。(2008/7/16 19:38)

リー・チーシアン『1978年、冬』
 監督は1962年生まれの北京電影学院卒の、いわゆる第6世代の若手監督ですが、そのあまりの古典的手法・絵画的映像に驚かされます。日本では小栗康平、ヘタをすれば小津安二郎までさかのぼれるような人間心理の哀しいまでの切なさを描きます。1978年とは文革終了直後のまだ混沌として不透明な田舎町の青年男女の恋と別れであり、多分に監督の自分史が描かれているように思います。工場労働になじめない青年、学校でいじめられる弟、北京から流れてきたアーテイスト風の娘とその家族の風景が、淡々と展開しますが、それは共同体への包摂から自立していこうとする個の煩悶と犠牲のはかなさでもあります。
 小栗も小津も滅びゆく日本的共同体への挽歌という哀切を描きますが、この中国人監督はプレ・モダンを脱却していく苦い希望のようなものを描ききます。田壮壮への謝辞が字幕に出ますので、北京電影学院のそうした伝統の流れにあるのでしょうか。しかしさらに哀しいことは、文革終了後の次にきたものは拝金主義的な市場原理に他なりません。『胡堂の理髪師』はまさに滅びゆく中国の地域共同体へのオマージュでしたが、この監督は市場主義を超えようとする意志を感じます。名古屋・シネマスコーレにて。観客10数名。

ポール・ハギス『告発のとき
 最後に掲揚される逆さにひるがえる星条旗が象徴的です。それは救援を求める合図だそうですが、米国のイラク戦争の欺瞞に深い傷を負った男が救援を求めているのですが、じつは米国そのものが世界に救援を求めている姿に他なりません。栄光を背負って退役した元米国軍人の父親は、イラク戦争で長男を戦死させ、次男も帰還後に惨たらしい切断死体となって発見されます。真相を求めて探索する父親が見いだしたものは、イラク戦線で理想と良心を失って互いに憎しみあう小隊の頽廃した姿に他なりません。そこにはイラク民主化の大義の対極にある米軍の犯罪行為に深く傷ついた兵士達の苦悩しかありません。無意味な殺し合いと麻薬に耽溺する息子たちの姿は、かって信じた星条旗の理想の虚偽でしかありません。この映画は慚愧の想いを込めてイラク戦争の欺瞞を告発する米国の良心が描かれていますが、しかしそれもじつは甘いのです。かってのベトナム戦争を告発する幾つかの映画を通じて、すでに米国市民は戦後の星条旗の下で戦われた戦争の欺瞞を知っていたはずですが、同じ悲劇がまたも繰り返されているのです。いったい米国はいつまでこうした欺瞞の戦争を続けていくのでしょうか。そうした欺瞞を暴く戦争映画をいつまでつくり続けていくのでしょうか。告発映画は、ハリウッド映画資本の論理に包摂されて、もはや利益を稼ぐ役割しか演じないのでしょうか。もう米国よ、いい加減にしてくれ、と云いたくなります。ただベトナム戦争時と違うのは、軍役が徴兵制か志願制かの大きな違いがあり、自ら望んで志願した現在の兵士の体験はかって以上に痛切であるのかも知れません。ベトナムを描いた映画が、戦場体験で歪んでいく米兵同士の殺戮までには到らなかったのに較べ、現代の米兵は戦友同士の無意味な殺し合い、或いは人間そのものへの殺意を描いている点で、アメリカの底知れぬ頽廃が深化していることを示しています。シナリオと演出、俳優の演技が素晴らしければ素晴らしいほど、もはや米国が世界にとって何の意味も持たない犯罪国家であることをまたもや確認することになります。名古屋・ピカデリー劇場にて。平日にしては多くの観客がいた。

Li YiNG『靖国 YASUKUNI
 歴史認識の最も熾烈な対峙点である靖国神社をめぐる社会的コンフリクトの核に迫ろうとする迫真的なドキュメンタリー映画です。何よりも驚いたのは、中国人映画監督の企画と編集水準の高度さであり、被害意識を越えた対象の真実に迫ろうとする姿勢とカメラワークです。靖国をめぐる直截な対峙の映像を冷静な視点から追いながら、これほどに靖国神社の本質に迫った作品を私は知りません。こうした映像作品を日本人自らがつくり得ない、日本的情況を痛ましく思います。この映画は政府与党の極右議員と右翼メデイアから激しい攻撃を浴びましたが、日本人の監督は最初からそれを恐れてタブーとしているからです。昭和天皇の戦後史を正面から描いたのも、ロシアのソクーロフでした。こうして現代日本は、過去史の決済を先延ばしにしたままで過ぎていこうとし、つねに中国や韓国から罪責の過去を鋭くえぐられるのです。過去を直視し得ない日本人がもはや未来への想像力を失いつつあるのではないかと恐れます。救いはこの映画に日本政府系の文化助成組織が助成を行ったということです。
 監督は南京事件をめぐる集会で、日の丸を掲げて南京に入場するシーンを観て拍手が起こる会場に衝撃を受け、靖国の撮影を決意したそうで、完成までに10年を費やしています。その方法論は、靖国の理念を象徴する日本刀の鍛冶師を縦糸に、8月15日の靖国神社の境内の事象を横糸にからませて、靖国神社の本質に迫るところにあります。ご神体である靖国刀と神社の菊は一心同体としてその理念を象徴してます。あたかも日本文化論を「菊と刀」という視点から論じたルース・ベネデイクトのように。しかし第2次大戦からすでに60数年を経て過去の戦争とその犠牲者を讃美する準国営施設があるのは世界で日本のみという異常性は、そのまま現代日本の混迷を浮き彫りにしています。アキバ事件でトラックに突っ込んだ若者と、靖国境内で異様な軍服を纏って最敬礼している老人たちはじつは、自分を受け入れない時代へのルサンチマンを煮えたぎらせている点で本質的に同じなのです。菊(=天皇制)と刀(殺人武器)を根元的礼拝の対象とする靖国神社が戦争神社であることの本質をこれほどに証した映画はありません。しかしその証しは直接的な表現ではなく、淡々と事実を提示しながら想像力の世界で深く自覚させるのです。これがこの監督の秀逸な歴史感覚と映像技術です。
 私は一度しか靖国神社を見た経験がありませんが、そこに展示されていた陸軍中尉の軍服を見て衝撃を受けました。それは私が尊敬する先輩の兄君であったからです。先輩は戦後民主主義の権化のような人でしたが、沖縄特攻で散華した兄の軍服を靖国神社に展示することにどのような感慨を抱いたのでしょうか。こうした親密圏との関連で靖国をみると、また違った複雑な感情が湧いて参ります。靖国は日本のアキレス腱なのでしょうか、それともなんでしょうか。韓国旅行で多くの現代史の記念館やモニュメントを観ましたが、いずれも自己の属する民族への尊厳の念が湧き起こってきます。日本では真に歴史を創り、悪と偽に抵抗した同胞への記憶と想起の事業は、少なくとも公的にはゼロなのです。なんと哀しい歴史を刻んでいるのでしょう、日本は。平日の第1回上映にもかかわらず、会場は補助椅子含めて満席で立ち見が出るほどの盛況でした。名古屋・シネマテークにて。(2008/7/1 16:48)

ビレ・アウグスト『マンデラの名もなき看守
 ハリウッド映画でないところが嬉しい。ネルソン・マンデラというあまりにも時代的な名称の背後にある、アパルトヘイトに疑問を覚える白人の存在を象徴するのがこの一介の出世志向であるが、良心と正義感を捨て切れない看守であるだろう。マンデラの投獄期間が27年間というのは想像を絶する時間であり、その間に彼が理性と健康を維持し得たというのも信じがたい。白人優越主義の権化であった看守がマンデラの影響を受けて思想が変貌していく過程は少々描写不足だが、それも仕方がないことかも知れない。マンデラの受難の英雄物語を描くのではなく、下積みの看守の成長物語として描いたのがこの映画の成功点だ。日本では、治安維持法下で長期虜囚となったコミュニスト(例えば宮本顕治の15年間)に対する国民的敬意はあまりに薄弱だった。むしろ吉本隆明のように、非転向政治囚を硬直した石頭と侮蔑する救いがたい潮流もある。やはり抵抗とは、数世代に渡る歴史の作業なのだ。いま日雇い派遣労働で苦しんでいる非正規労働者は、格子なき牢獄といえようが、別の意味でマンデラ以上のみじめな状況にあるといえよう。現代日本は現代化されたアパルトヘイトの情況にあるといえよう。それにしてもアパルトヘイト廃止後の南ア連邦の混迷をみていると、じつに複雑な感慨が起こってくるのだ。マンデラ夫人の頽廃などをみるとなんと悲しいことかと思う。差別撤廃の後にはじまる再建過程のほうが、むしろ野蛮さが克服された後の困難な事業なのだ。名古屋・名演小劇場にて。もはやこうした映画は大劇場では上映されなくなったのだろうか。あまりに悲しい日本映画市場の実態・・・。(20086/25 17:28)

カレン・シャフナザーロフ『蒼ざめた馬』(2004年)
 いうまでもなく原作はロープシン(本名ボリス・バザーロフ)『蒼ざめた馬を見よ』(他に『テロリスト群像』)です。ロマノフ王朝末期の社会革命党(エス・エル)の秘密暗殺組織・エスエル戦闘団の、宮廷高級官僚を対象とする暗殺行動を描きます。原作は陰惨でニヒルな印象を受けましたが、映画も原作をほぼ踏襲して、展望を持たない暗殺による革命をめざす心情がにじんでいます。原作者のロープシンは、ケレンスキー内閣の陸軍次官を務め、コルニロフ反乱に加担して敗北し、ロシア革命後は白衛軍に参加して反革命に走り、最後は逮捕され投身自殺します。彼が英国人であるというのも驚きです。マルクス主義革命理論が未成熟な時代にあって、ツアーリ独裁に反対する青年インテリゲンチャの思想と心理の混迷状態がうかがわれます。それにしてもソ連崩壊後の現代にあって、こうした映画を撮影する意図がよく分かりません。ひょっとしたらロシア市場原理主義=ツアーリズムという図式があるのでしょうか。それにしてもテロリズムを追いつめられた被抑圧者の最後の戦術とみなしたテロ観念は、9.11以降に一変してしまいました。紹介ではこの監督を「ロシアの名匠」としていますが、私は知りませんでした。映像は確かに帝政末期の街の風景を再現し、酒場のカンカン踊りの流行など面白く観ました。ウイークデイにもかかわらず、10数名が見に来ることは驚きだ。大学の知人女性に遭遇したことも。名古屋・シネマテークにて。(2008/6/24 17:35)

アレクサンドル・ソクーロフ『ヒトラーのためのソナタ』『モレク神
 『ヒトラーのためのソナタ』はナチスのドキュメンタリー・フィルムを再編集したに過ぎません。問題は『モレク神』です。モレク神とは古代セム族が子どもを神に捧げて祀る恐ろしい犠牲を意味する。ヒトラーがスイスの別荘で愛人と過ごす最後の日々を描く。ファッシズム独裁者の内面に迫り、ヒットラーの狂気を浮き彫りにします。沈鬱な描写が抑制された画面で繰りひろがられ、ファッシズムの呪縛された精神風景を活写します。ソクーロフの映像は重苦しい描画で、心情の本質に迫ろうとするローテンポの演技で、独裁者の本質に迫ります。こうした演出上の特質はおいて、監督はそうとうにヒトラーの足跡の事実を検証したのでしょう。こうした映像を見るにつけ、いったい第2次大戦は何であったのか、思いをはせることになります。ボルマンやゲッペルスの媚びへつらう側近も喜劇的な人物に見えますが、事実はその通りなのでしょう。私がもっとも驚いたのは、ヒトラーがアウシュヴィッツ収容所の存在を知らなかった(?)ということです。彼は最高指導者として、もっとも嫌悪すべき絶滅収容所の構築は知らされていなかったのでしょうか。ソクーロフはロシアのドストエフスキー型の伝統的文化系流の映像作家のように思えます。彼の映画は、人間の原罪をそのままに告示して、希望や未来といった言葉は無縁のように思われます。名古屋・シネマスコーレ。相変わらず若い人が多い。なぜなんだろうか。(2008/6/22 19:01)

アレクサンドル・ソクーロフ『牡牛座 レーニンの肖像
 抑制された後期印象派の絵のような映像が全編に流れます。リュボーフィ・アルクス編の解説書では、「20世紀末を生きるいのちのエレジー 悲しみが大きいほど、感情は奥深く秘められている」と帯にあり、ロシア芸術の子である彼の精神風景が浮かんできます。映画はハリウッドの対極にある静謐な精神性に満ちているようです。この映画はいまは地に落ちたロシア革命の英雄・レーニンの、いわば後期高齢者の介護を受ける姿を描いています。一義的な解釈をうちださず、さまざまの暗喩を駆使しながらレーニンの最後の姿を描きます。自尊心を踏みにじられて生きなければならない革命指導者のうめきが聞こえてきます。自分がもっとも忌み嫌ったスターリンに自死用の毒を頼むレーニンの惨めさは云うべき言葉がありません。
 パンフで最も注目した論説はロシア学者の下斗米伸夫氏の「レーニンと古儀式派」でした。これは私が知らなかったロシア革命の基盤を明らかにしています。この映画の宗教的な雰囲気の背後にあるものを探ろうとしています。レーニンの終焉の地であるレーニンスキー・ゴルキーという村は、ロシア正教会に抵抗した共同体主義の古儀式派の村であり、会議派を意味するソビエトが最初に出現したのは1905年の古儀式派の信徒が集住する繊維の街イワノボ・ボズネセンシクであり、無司祭派といわれる信徒の生産点の集会を意味した。1917年のロシア革命の権力基盤は、都市労働者とともに共同体農民の支持を受けた古儀式派信徒の民主化運動の側面があった。レーニンは共同体農民の土地社会化要求に応えて革命権力を樹立した。1917年革命は農民的な復古主義的色彩が強い革命であった。古儀式派の流れを汲む革命家は、ルイコフ、ノギン、モトロフ、キーロフ、スースロフなどだ。レーニンの葬儀には、政治警察とともに古儀式派も警護にあたった。レーニン未亡人のコックとなって仕えたのは、現プーチン首相の祖父であるスピドリン・プーチンであった。古儀式派について私は全く無知ですが、あのナロードニキの指向と重なっていたのでしょうか。いずれにしろ沈鬱なほどに抑制されたこの映画の映像の背後には、ロシア宗教文化の伝統があるようです。
 ハリウッド映画にならされて、古典派的な芸術風景を忘れている現代日本では、なにか異郷からきた映画のように見えるかも知れません。名古屋・シネマテークにて。それにしても若者が多く満席となったには驚きました。この若者たちにとって、レーニンへの独特の感慨はなく、おそらく前衛映画監督・ソクーロフの作品に関心があったのでしょう。昨年のロシア旅行でみたレーニン廟の蝋人形のようなレーニンを見て絶句したことを思い出しました。(2008/6/21 17:41)

乾 弘明『蘇る玉虫厨子 時空を越えた「技」の継承
 法隆寺の国宝・玉虫厨子の復刻版を伝統工芸士が総力を挙げて制作する過程をドラマ的に描いたドキュメンタリー。厨子とはもとは厨房で食品や食器を納める棚型の置物を意味したが、転じて仏像や舎利、経巻を安置する仏具です。法隆寺の国宝は、推古天皇、聖徳太子が礼拝した日本の仏教美術の典型です。当時の日本型仏教の思想がうかがわれる。この映画は、それを現代的に再生するプロジェクトの全過程を記録したドラマ仕立ての記録映画です。日本の伝統工芸士たちの最高水準の伝統的工芸技術を見ることができますが、もうすこし精細な工芸過程を精細に見たかった気がします。実際に実物をみないと映像ではその凄さが分かりません。名古屋・名演小劇場にて。中高年で満席。(2008/6/20 16:41)

篠原哲雄『山桜
 篠原哲雄氏の作品はほとんど記憶がありませんが、こんな凛とした気品の漂う作品をつくる人とは知りませんでした。藤沢周平作品はもっぱら山田洋次監督によって映画化されtきましたが、山田作品を凌駕するような品性がただよっています。主役2人の凛々しさはすばらしい。日本の品格はややもすれば、右翼的美学へ向かう場合があるのですが、藤沢作品はそこが異なるようだ。時代考証も綿密であり、下級武士の貧しい佇まいや家族の食事風景、帰宅した武士の着替えを手伝う妻、城下町の風景、当時の足袋の干し方から大根の吊し方に到るまで、丁寧なつくりです。藤沢文学は静謐な下流武士世界を描きながら、いまは失われてしまった日本の矜持のにじみ出るようなピュアーさを描いて、じつはリアルな革命のメッセージを含んでいるような気がします。日本の原風景を描いた美しさ、大名行列も素晴らしい。ピアノとバイオリンが交錯するBGMも情感がただよう。最後の主題歌は残念なが作品を壊したように思う。それにしても頽廃する権力者を切って捨てる主人公の行為は、なにかイスラム原理主義の自爆テロを連想させますが、忠臣蔵のように日本人は追いつめられた果ての爆発としてのテロが大好きなのです。市場原理主義の商業映画が氾濫する薄っぺらな日本映画界にあって、久しぶりに日本映画の健在を示した作品でした。名古屋・名演小劇場にて。ウイークデー第1回上映にもかかわらず、7割程度の入りには驚きました。(2008/6/18 16:05)

風間杜夫ひとり芝居『コーヒーをもう一杯』『霧のかなた』
 団塊のサラリーマンが仕事を懸命にやり、家族とのアレコレの日常を過ごしながら、フトしたことで記憶喪失となって放浪し、ふたたび家族のもとへ帰還するという日本版『ユリシーズ』です。戦後の高度成長期を生き抜いた世代の郷愁と哀愁が滲みてきますが、最後の拠点は家族の小さな幸せにあるのです。もはや喪われた日本的情緒は、幾つかの演歌やフォークでノスタルジックに奏でられますが、溢れでるような情愛の爆発はありません。こうした芝居を見に来た観客の世代にフィットはするでしょうが、率直に言って諦念のススメです。いまの中高年は実はもっと元気で、世の不正に怒り滾っているのです。これが風間演劇の限界でしょう。かっての労演はいまいずこ、こんな企画では先が思いやられます。会場は中高年女性で満員。(2008/6/11 16:29)

ジャン=ジャック・アノー『スターリングラード』
 ハリウッドによるスターリングラード攻防戦を描いた映画ですが、ナチスとソ連軍のスナイパーの息詰まる対決に焦点をあて、なかなか奥が深いものとなっています。おそらくソ連では製作が不可能なスターリン批判やフルシチョフの俗物性が浮き彫りとなり、またソ連内でのユダヤ人の複雑な立場がそれとなく示唆されています。ナチス高級将校のスナイパーは、単なるファッシストではなくプロの尊厳をかけた狙撃手として描かれ、またソ連側の戦意昂揚の手段となるスナイパーや彼を利用する政治委員、そして恋人もそれぞれが複雑な個性がにじみ出すように描かれ、この映画に深みを与えています。脚本家がそうとうにソ連現代史を勉強していることがうかがわれます。冷酷非情でありながら、なおかつ人間的共感をただよわせています。二重スパイを演じる少年が生き生きと精彩を放っています。第2次大戦の極限的悲惨を描きながら、なにか充足感が残るのもそうしたことによるのでしょうか。かなり前に観たことがあるのですが、TV放映で観てもまだまだ吸引力があります。(2008/6/10 15:30)

ニコラス・トウオッツオ『PROXIMA SALIDA  今夜、列車は走る』
 まるで日本の戦前期の不況期のプロレタリアを描いたリアリズム映画にみえ、いわば「誰が彼女をそうさせたか」という戦前期日本を想起させるが、実はそうではない。これはまさにIMF・世界銀行の融資を受け入れたアルゼンチンの新自由主義民営化路線による90年代の鉄道破綻の犠牲者を描いている。その点では日本の構造改革路線による国鉄民営化と同じだ。パンフのコメントは、どれもこれも感動の嵐なのだが、彼らの偽善が浮き彫りにされる。彼らの誰1人として、いま現にある日本の国鉄清算事業団の民営化に反対して苦闘している労働者に人間的讃歌を送った者はいない。これが日本の惨めなほどの感性なのだ。自らに直接関係ない、遠くのピュアーな物語に賛辞を送りながら、自らの足下に及べば無関心であり得る日本の文化の虚飾をこれほどに露わに示しているものはない。特に長屋美保という人のコメントはあまりにもおめでたく救いがたい。 
 来日した監督の発言が面白い。
 「渋谷では女の子がみんなおしゃれで、洋服が高いことにすごいな。タクシーの自動ドアに、センター街の大音響で流れている音、働いている人が頭が痛くならないのか、人と情報量の多さ、年間3万人も自殺すること、満員の電車・・・に驚いた。街が驚くほどきれいで、人がとても優しいこと、道を聞くとみんなが親切に教えてくれた」
 ウーンこのコメントはなにか現代日本を象徴しているようだ。
 アルゼンチンの鉄道は1857年に開通し、英国資本の運営で外資による民営鉄道だった。ペロン政権で国営化されポピュリズム政策が推進されたが、財政赤字で1980年代に民営化され、8万人が解雇された。この映画は新自由主義路線の破綻を象徴的に描いている。ただし、中南米特有のアナーキーなサンデイかリズム的抵抗に希望を見いだしている点が、日本の組織的抵抗とは本質的に異なる。国鉄清算事業団の人が観れば複雑な気持ちになるに違いない。いま中南米で吹き荒れている米国モデルから自立する政権の誕生の背景を理解することができる。アルゼンチンはむしろその動向からもっとも遅れている。シナリオは周到な作為がうかがわれ、アルゼンチン映画の水準がこれほどに高いとも思わなかった。それにしてもパンフの水準が年々衰弱している。対象に肉薄して本質をうがつ批評と解説がほとんどない。意外なことにウイークデイでありながら、観客が10名弱いた。名古屋・シネマテークにて。(2008/6/6 16:51)

ニール・バーガー『幻影師 アイゼンハイム』
 ひさしびりに本格的なエンタテイメント映画を観ました。原作はステーブン・ミルハウザーの同名作。19世紀末ウイーンの帝政末期の爛熟がうかがえます。帝政に対する民衆の反感がにじみ出ています。貴族性身分制度の崩壊と市民階級の台頭が背後にあります。世紀末文化は奇術の流行という幻想的な日常からの脱出を求めています。しかしなお貴族と市民は一個の人間としては対等であるというふるまいのありかたは日本と異なります。この映画にある王政への揶揄が現代日本の王政に対する感性的拒否を覚えるならば、私の望外の喜びです。これはハリウッド映画なのでしょうか、よくわかりません。会場は満席でおそらく手品への独特の吸引力があるのでしょう。その背後には現代日本の現実への絶望があります。エンタテイメントの高水準の映画ですが、日常のトラウマからの解放というカタストロフィーがありますが、それ以上でも以下でもありません。名古屋・伏見ミリオン座。(2008/5/31 18:42)

ジャック・リヴェット『ランジェ公爵夫人』
 原作はかの19世紀リアリズム文学の先駆と言われるバルザックですが、この作品はナポレオン帝政以降の上流階級のいわばピュアーな不倫・恋愛物語に過ぎません。こうしたバルザック本来の民衆世界とは違った貴族恋愛のピュアーな世界を重厚に描き得るのがフランス文化の世界でしょうか。大人の純愛が階級の疎外形態であるとは、おそらくホルクハイマー・アドルノ『啓蒙の弁証法』の論理でしょうが、確かに観ていても現代的感性からみれば、ピンと来ないピュアーさです。結局は貴族世界の制度的な慣習に侵された感性が、ピュアーさと出会って翻弄の果てに破局を迎えるのですが、死した恋人を目にして「もはや一編の詩にすぎなかった」とつぶやく将軍の冷酷とも云える物語の総括は、滅びゆく階級の述懐そのものであったでしょう。しかしリベットの描画はそうした世界の虚妄への鋭い分析はなく、純愛のはかない悲劇性を描いて終わっているかに見えます。おそらくこれが19世紀リアリズム文学の歴史的規定であったのでしょう。要するにこの映画は、もはや過去のものとなった歴史的感性の限界で、精一杯に自分自身としての人間であろうとした近代初期の精神なのです。名古屋・伏見ミリオン座にて。中高年女性が多く、男性は私を入れて2人のみ。(2008/5/26 17:53)

イム・サンス『なつかしの庭』
 監督は韓国の大島渚といわれるそうですが、それでは監督が可哀相です。大島渚なんて左翼批判で身を売ったに過ぎませんから。原作は韓国を代表する小説家ファン・ソギョンの同名の小説だそうですが、寡聞にして私は知りませんでした。『光州5・18』が光州事件を正面から描いた叙事詩であるとすれば、この映画はそれに参加して投獄された学生を主人公とするラブ・ロマンスともいえましょう。運動に参加していった学生たちの内部が少しですが描かれており、指導層が学生コミュニストであったことが分かります。主人公は獄中10数年を経て釈放され、逃亡生活がカットバックで描かれるのですが、少々わかりにくい場面もあります。現代の労働運動につなげている点で、決してこれはいわゆる傷跡文学ではありません。労働運動の若い女性リーダーが焼身抗議を試みるのには驚きました。転向者は批判的に描かれ、ピュアーなこころざしの良心が次世代に継承される暗示は現代韓国の民主主義の確たる成長をうかがわせます。私が韓国旅行したときの光州市の犠牲者記念墓地が映っていたので懐かしく思い出しました。韓国の劇的な近現代史の重みと蓄積を背後に感じさせ、侵略の文化に汚染されている日本現代史の薄っぺらさをまたも味あわされました。中高年女性が多かったのは、主人公を演じた男優が『宮廷女官チャングムの誓い』の俳優であったからでしょうか。『光州5・18』よりもこちらのほうが、個の視点から描いているがゆえに、ラブ・ロマンスを越えた深さがあるように思います。名古屋・シネマスコーレにて。(2008/5/24 16:52)

広河隆一『パレスチナ1948 NAKBA』
 1948年5月14日にイスラエルが建国され、パレスチナのアラブ人は難民となってデイアスポラの民となった。これがパレスチナ民族にとってNAKBA(大惨事)と呼ばれる受難を意味する日です。広河は23才の1967年にイスラエルに渡ってキブツ生活を経験している。そうなのだ・・・想い起こすと1960年代ではイスラエルのキブツは、社会主義共同体の農村としてある左翼の注目を浴びていた実験村だった。キブツへなにかを求めて往く日本の若者もいた気がするが、広河もその一人だったのだろうか。その頃はイスラエルによるパレスチナ迫害はそれほどに日本で注目されてはいなかった。広河はキブツ生活を通じて、ユダヤ人がパレスチナ人を追放してみずからの農村部を手に入れたことを知る。ここから広河の取材はパレスチナの歴史に転換し、現在に至る苦難をカメラに納めることとなる。この映画は、そうした自分の原体験を媒介とするパレスチナ現代史のドキュメンタリーです。
 私がいつも思うのは、ナチスのホロコーストを身に滲みて民族のNAKBAとしたユダヤ民族が、同じ行為をパレスチナ人に繰り返すユダヤ民族の究極の愚かさとも云える行為です。しかしこのドキュメンタリーでは、イスラエルのパレスチナ占領に反対してアラブ人との共生を求める少数のイスラエル人が登場するところに救いがあります。彼らはイスラエル共産党またはそこから脱党したグループです。彼らへの共感を隠さない広河のスタンスの誠実さが表れています。名古屋・シネマテークにて。この映画館は右翼の脅迫に屈して、映画『靖国』の上映を中止した映画館ですが、要するにこの事態はNAKBAの日本版の事例といえるでしょう。(2008/5/18 16:14)

劇団俳優座『足摺岬』
 ウーン、田宮虎彦の作品は読んだことがないので、こんなシリアスなものとは知りませんでした。それにしてもなぜ俳優座はこの作品を選んだのだろう。昭和初期の大不況期の不安な時代と現在がよく似ていて、それを越えていく希望を描きたかったのだろうか。「死ぬ理由はいろいろつけたがるが、生きる理由は一つあれば充分だ」・・・そのたったひとつの理由を奪われた人間はどうすればいいのだろう。小さな公園をつくって逝った「生きる」の主人公と同じですね。しみじみと滲みとおるような共感を覚えるけれども、なにか現代にフィットする鋭さがありません。危うくすると浪速人情演劇に近づいてしまいます。要するにすべてが予定調和の世界で自己完結することがミエミエの世界です。現代の不安は、もっと乾いた寒々しい風景のような気がします。いったいほんとうに不安にある人が、こうしたドラマで救われるでしょうか。なにか俳優座は先輩が切り開いた理性のレベルを伝統的に固執しているかのようです。名古屋市民会館中ホールにて。昼席は中高年おばさんで満席。(2008/5/16 16:51)

キム・ジフン『光州5・18』
 何十年ぶりだろう、上映終了後に館内で拍手が起こったのは! 館内の後ろの方からパラパラと拍手が起こったのです。おそらく在日の方ではないでしょうか、日本人は拍手はしないだろうと思います。この映画をみて、数年前に韓国抵抗の旅と称するツアーで、済州島から光州、太白山脈(智異山)などの韓国抵抗運動の地をめぐったことを思い出します。光州では大学で運動に参加した教授の話を聞き、犠牲者の追悼施設で花を捧げました。スピーカーから荘厳な鎮魂曲が鳴り渡り、記念館に陳列されている犠牲者となった若者たちの写真を見て粛然とした気持ちになりました。我が日本では特攻記念館のような雰囲気でしたが、犠牲の内容が180度違います。日本では民主を求めた抵抗運動、反戦の市民運動含めて、このような市街戦に等しいような歴史は皆無であったのです(ただ一つ自由民権運動を除いては)。韓国近現代史をみると、そこに溢れる犠牲の姿に圧倒され、我が日本の近現代史が基本的に侵略民族史であったことを痛感するのです。
 映画自身は抵抗者をヒロイックにうたいあげ、歴史的背景もほとんどカットされていますので、残念ながらメキシコ映画によく出る英雄物語に近いですが、無名の市民たちが中心となっている点が基本的に違います。揶揄される弾圧軍兵士の苦笑いなどの描写はありますが、なぜこれほどの武装抵抗をえらばざるを得なかったのか−という”恨”の背景に突っ込んだ描写があれば、感動はより深まったでしょう。情感を動員する手法をより抑制していれば−と少し残念な気もしますが、韓国デモクラシーのゆらぎない大衆的基盤を実感させます。チマチマした小市民映画しかつくれない日本映画の背後には、もはや大きな物語を創造し得ない市民社会の疲弊があるのです。名古屋・シルバー劇場にて。(20085/5/13 17:04)

篠田正浩『スパイ・ゾルゲ』
 フトTVをつけると上映していました。封切り時にすでに見たのですが、記憶は薄れ、初見するような感じで引きこまれていきました。丁寧につくられた重厚な作品であり、人物の彫像も深く人間を浮き彫りにしています。処刑と同時に流れるソ連崩壊時の引き倒されるレーニン像が痛ましく、ゾルゲ・グループが身を捧げようとした理念との乖離が突き刺さってきますが、その後に流れる「イマジン」はまさにゾルゲの遺志が現代に引き継がれていることを暗示し、篠田監督の掘り下げられたイデーのようなものがうかがわれます。おそらく日本ではこのような現代史の焦点と向き合う本格的な映画はつくられないでしょう。篠田監督の作品は『瀬戸内少年野球団』『少年時代』にみられるリリシズム溢れるものがありますが、『スパイ・ゾルゲ』はまさに彼が全力投球した警世的作品ではないでしょうか。ただ天皇の最高責任者としての描き方は、軍部にすべての責任を問うて免罪するような描写ですが、これは大作をつくるためのやむを得ざる限界でしょうか。さらにこの映画は、日本の権力上層の軋轢に焦点を絞っていますが、現実に歴史に参画した民衆像をも挿入するならば、さらに深みが増したでしょう。(2008/4/26 20:32)

山本保博『陸に上がった軍艦』
 あいち平和映画祭企画の第1部。他の作品『夕凪の街 桜の国』『トンマッコルへようこそ』は封切り時に見たので、この作品のみを見た。脚本は新藤兼人で、証言者としても登場し、新藤監督が自らの予科練体験を語りながら、同時にドラマとして進行するという独創的な作画となっています。海軍でありながらすでに艦船不足で陸で戦う海軍兵です。ごく普通の庶民が徴兵され味わう苛酷な軍隊内暴力と、敗戦末期の日本軍の貧弱な装備とマンガのような訓練が描かれます。米海兵隊と同じように、人間的なモラルを暴力によって粉砕し、命令に対する絶対の忠誠と殺人マシンと化していく過程が描かれ、また特攻や肉弾攻撃などの、今から見ると茶番のような訓練が真剣に繰り広げられますが、会場からは苦笑が漏れるような幼稚なものです。もはや狂気と化した旧日本軍の精神構造が浮き彫りとなります。しかし新藤氏が入隊時の100名の大半は戦死し、生き残ったのはわずか6名という奇跡的な生還を氏は果たすのですが、それもくじ引きで偶然に生き残ったものでしかありません。静かで強烈な反軍、反戦映画となっています。敗戦時にサッサと逃亡する将校をいただいた日本軍の偽善も描かれています。新藤監督の語りは、まさに原体験を持った者の語りうる尊厳に満ちた迫力があります。山本氏のような監督が存在しているのが貴重に思われるほどに、現代日本映画の頽廃が浮かんで参ります。(2008/4/26 15:00)

ロバート・レッドフォード『大いなる陰謀』
 対テロ・アフガン戦争をテーマとしているので、ある期待を持ってみたのですが、ハリウッドの限界が暴露された映画。アフガン戦線の特殊作戦を次期大統領選に利用しようとする議員とその情報をリークされるメデイア、大学でアメリカ現代政治の虚妄を論じる教授、正義感によって前線に志願する学生のそれぞれが共時的に展開するストーリーですが、それぞれに浅はかなふるまいを演じる。おそらくこれが現代アメリカの戦争に対する日常的な感覚なのでしょう。こんなレベルで米国の対外戦争が戦われているのだと言うことが分かる。これでは戦場となっているアフガンやイラクの無辜の市民の犠牲の意味がないことが痛切に浮かび上がる。監督や出演者含めて、無辜の犠牲に対する想像力の貧困をこれほどに暴露した映画もないであろう。現代アメリカの知性の貧困をさらけだしている。第2次大戦後のアメリカの対外戦争の本質がうかがわれますが、結局のところアメリカの良心のレベルはこんなところなのでしょう。無意味な資本が投下された巧妙なアメリカン・デモクラシーの虚妄を暴露され、入場料を返せと言いたい哀れな映画。他にこれはというものがないので仕方なく見たが、予想通りの駄作。ただアメリカが混迷状態にあることは分かる。それにしても最近の映画は不作だ。名古屋109シネマ。しかしウイークデイにしては30数名の観客。有名俳優めあてであろうか。(2008/4/23 22:27)

セルゲイ・ボドロフ『モンゴル』
 チンギス・ハーン(ジンギスカン)のモンゴル民族統一過程を描く歴史スペクトルです。部族社会の覇権闘争がメーンとなっていますが、生活と戦闘のモンゴルの生活と民俗がうかがえて面白い。テムジンの波乱の半生を通じた英雄物語ですが、それ以上ではありません。馬と羊の遊牧を基礎とした部族間の覇権闘争という歴史が描かれ、部族の内部矛盾を越える民族統一の背景は描かれていません。部族間の個人的な軋轢をめぐるルールなき死闘を越える普遍的な民族統合理念を打ち出したテムジンの歴史的意義は深まりません。しかし英雄物語のドラマとしては面白く、また大草原の映像も素晴らしいのですが、それ以上ではありません。自給自足の部族経済を越える統一市場圏の要求がおそらく民族統一の背景にあるのでしょうが、それも描かれません。いったいロシア映画は、ピョートル大帝やジンギス汗などの英雄物語を描く傾向がいちだんと強まって、ハリウッド市場を狙う傾向があり、市場経済下のロシアの混迷を思わせます。これではスターリンを描いた旧ソ連映画のナショナリズムと変わりがない娯楽大作に過ぎません。シネマズ名古屋にて。観客6名。(2008/4/10)

チョ・グンシク『Once in a Summer(『夏物語』) 』
 何の気なしにNHK・BSにチャンネルを回したら、この映画を放映していました。そうだ、たしか去年に観た懐かしい映画だ。ソウルの大学生が夏のボランテイアで農村に行き、そこで美しい娘と出会い、初々しく気高い純愛が始まる。韓国の純愛映画のピュアーさが日本と違うのは、日本はおおよそ不治の病の死によって引き裂かれるストーリーが多いですが、韓国の純愛映画は相当に骨太の社会的葛藤を背景に描くことによって、すさまじい真実に裏打ちされたピュアーさが浮き彫りになるのだ。娘の両親は北朝鮮へいったコミュニストであり、娘はアカの子としてスパイの汚名を着て一生を生きる。村人は娘を迫害するが、ほんとうは村のために図書館を建てた両親を尊敬しているのだ。ここには当時のコミュニストの誠実な献身の遺産が深く民衆の生活をとらえた記憶がある。大学生は軍事独裁反対の学生運動の渦中を生きる。両者の純愛が試されるのは、KCIA権力の烈しい拷問の過程を通してである。大学生は、拷問によって彼女を捨て、彼女は彼を知らないということによって彼を救う。ここには純愛の本質がある。それはどのような純愛であれ、自分を捨てて相手の生命を救うほとばしるような愛があり、ふたりを切り裂く試練に耐え得る希望がある。そして権力に屈服した果てになお、互いを許すホンモノの愛のあかしがある。社会的テーマに無知でしかなかった裕福な学生は、結局のところ娘の犠牲によって眼を開くのだ。しかし娘は自らを犠牲にすることによって、実は男と時代を前に進めることになるのだ。
 私が哀しいのは、このような正面から人間の真実を描く映画が日本ではどうしてもつくれないことだ。なぜだろうか。韓国のような苛烈な同時代を共有し得ない歴史的条件の違いだろうか。それともなにか日本には、真実と正義の単純性に対するシニカルなまなざしを向ける頽廃の成熟があるのだろうか。多分そうだろう。日本はもはや歴史をリードする尊厳ある矜持を喪失しつつあるのだ。無念である。トップ俳優がこうした社会性ある映画に参画することに、韓国映画界の強固な良心を感じる。(2008/4/4 20:28)

ミハエル・カラトーゾフ『鶴は翔んでいく』
 第2次大戦によって断ち切られた若者の恋愛を描くリリックな抒情と矜持が美しい。スターリン批判を経た旧ソ連映画界の新たな再編を示すカンヌ・グランプリ受賞作。いわゆる社会主義リアリズムの典型的状況における典型的形象が完全主義型人間を描いたのに対し、はじめて人間の弱さや醜い面から眼をそらさずに、しかも戦争の哀しみをみつめた旧ソ連映画です。私はここに、旧ソ連時代のもっとも良質のヒューマニズムを感じます。第2次大戦を描いた旧ソ連映画で想い起こすのは、『誓いの休暇』『僕の村は戦場だった』などですが、『鶴は翔んでいく』は戦場ではなく銃後の兵役逃れを含む汚い面をみせながら、あくまでピュアーに生きようとする女性を描きます。日本初公開時の題名は『戦争と貞操』となっていましたが、その当時の日本の戦争観を彷彿とさせますね。いまみればこの映画のメインテーマは「貞操」というよりも、「尊厳」にあるような気がします。それにしてもこうした可憐でピュアーな尊厳ある旧ソ連をみていると、なんで野蛮なスターリン主義によって蹂躙されたのかと思います。逆に反スターリン主義と市場原理主義が結合して、めざされた(あるいはありえたはずの)社会主義的結合の途が押しながされてしまったソ連現代史の悲劇を思います。DVD版。(2008/3/31)
 
王全安『トウヤーの結婚』
 私たちはプレ・モダンの共同体に生きる民の尊厳にあふれる表情を知っている。この映画は、そのような尊厳が市場経済の開発に嵐にあって、挫折の運命にあることを描いているーといってよい。そこにあるのは滅びゆく、敗れていく者の美であって、私たちはその哀切に共感する。私はこの映画を観て、私の祖母を想い起こした。背中に汗を滲ませて、百姓の生活を自らは自覚することなく誠実にやり抜いた祖母は、最後は自ら小川に身を投げて果てた。祖母の生涯に何の意味があったのか・・・と想う。同じようにこの映画の主人公の再婚に何の意味があるのかと暗然となる。同じように無名のうちに歴史に埋もれていった生でしかない。しかしなぜそうした人に照明をあてて映画をつくるのか? そこにはある普遍的な意味を持つ生があるのではないか? 我らは讃えるべきである・・・このように無名のうちに営々と耕し、牧畜し、世界を再生産し、なんら報われなかった人間の存在があったことを・・・・。それにしてもこうした作品にグラン・プリを贈るベルリン国際映画祭はやはり大したものだ。名古屋・シネマスコーレにて。観客4名。(2008/3/31 15:38)

クリステイアン・ムンジウ『4ヶ月、3週と2日』
 ルーマニア映画ってかって観たことがあるだろうか。どうも覚えがない。この映画は相当な前評判だった。テーマは女子大生が闇で中絶するという、日本ではごくありふれた話で映画にもならない。しかしこの映画の内面に迫る描写と、BGMを一切使わないリアリズム演出は凄い。この映画はチャウシェスク独裁政権が崩壊する直前を舞台にしている。寮で生活する女子大生が闇で中絶する24時間を息もつかせぬ同時進行で追う。社会主義国特有の街灯の暗い無機質な街、無愛想な公務員、そして何かよそよそしい人間関係・・・。旧社会主義国って、ほんとうにこうした寒々しい風景がひろがっていたんだろうな。特徴はスエーデン映画に観るような、表情を変化させないで内面を表現する抑制された演技と演出だ。すべてが終わった2人が、ホテルのレストランで食事するシーンで、突然に切るように映画は終わる。観客はアッと思って考え込まされる。
 この映画の背景には、政府の出産奨励の政令770号がある。労働力人口を急増させるための女性の出産奨励政策であり、女性は3人の出産が義務づけられ、45才未満で4人産むまでは中絶は禁止され、14才からの中学生の出産も奨励される。こうして映画にあるような学生間の性交渉が常態化したのだ。だからこの映画では、投獄を覚悟して中絶を選ぶ女性の行動は、自らの尊厳を守る行動そのものなのだ。このあたりを理解していないと、中絶に向けてあらゆる努力を傾ける女子大生2人の意志の意味がよく分からない。この映画は声高に男性の性的権威主義を批判はしないが、男性の無責任な性行動と軍隊の賛美或いは軍隊=無知という偏見の社会構造をも射程に納めているといえよう。最後のエンデイングで流れる恋愛歌がむなしく響き渡る。名演小劇場にて。観客10名弱。女性多し。(2008/3/28 15:38)

劇団NLT『嫁も姑も皆幽霊』
 NLTってなんだろうと思ったら、文学座を脱退したメンバー(賀原夏子など)がつくった新たな劇団で、三島由紀夫作品や海外喜劇中心に興行してきたそうだ。この作品はある老舗の和菓子屋の人情喜劇ドラマであり、それ以上でも以下でもない予定調和の劇だ。シナリオは抜群にうまくできているので、その限りにおいて無条件に楽しめるが、いわゆる新劇的な問題性はない。観客もこうした癒しいっぱいの考えない舞台が楽しいのか、ひさしぶりに拍手が多かった。名演がこうした企画を取り上げるのは、時代も変わったと言うべきだろう。名古屋市民会館中ホール。ほぼ満席。(2008/3/28 15:54)

ケヴィン・コスナー『ダンス ウイズ ウルフス』
 TVをかけたらちょうどやっていました。実に懐かしいはるか前にみた映画ですね。1991年に初公開された181分の超大作ですが、時間を忘れます。南北戦争後の西部の辺境の砦に派遣された兵士がスー族と触れあうなかで、白人を捨ててインデアンの生活に入っていきます。白人が西部開拓の過程のなかで、先住民族を虐殺して支配していく歴史を主人公を通して自己批判的に描きます。白人からみた未開の民が、実は部族共同体の尊厳ある人間性を持っていることを、偏見なく描きます。おそらくアメリカ映画史上で、インデアンの文化に内在してえがいた最初の映画ではないでしょうか。しかしやはり、ケヴィン・コスナーという白人が先住民に融和していくというストーリーの限界は感じます。滅びゆく者へのレクイエムのような悲哀が漂います。アメリカ史はやはり書き換えなければなりませんね。ハリウッドももはやこうした良心的な大作をつくることはできなくなったことを、つくづくと実感致します。この映画がつくられてから10年後に、イラク侵攻がおこなわれるのです。いまではイラク反戦映画のような趣があります。アメリカ史は帝国の歴史とともに、かっては民主主義と進歩の歴史があり、そのせめぎ合いのなかで推移していることが分かります。(2008/3/16 20:17)

Aborfazl Jalili『ハーフェズ ペルシャの歌』
 ペルシャの古典詩人hafez Shirazi(Shams al-Din Muhammad ibn Muhammad(1326-90年頃  日本訳ハーフィズ)と現代イランをクロスさせながら、イスラム国における純愛を描いた久しぶりのイラン映画です。パンフの解説を読むと、またぞろ絶賛の嵐であり、日本の映画評論の没主体性が浮き彫りとなっています。私はむしろ、イスラム教原理主義の戒律のもとで、人間的な愛が状況的に被る壁とそれを越えようとする人間的苦闘の表現があると思いました。ハーフェズとは、コーランを美声で暗唱する者へ教団が認定した尊称なのですが、古典詩人の個人人称名詞でもあります。
 私がこの映画で興味を持ったのは、社会生活の全体をコントロールするイスラム教の独自の統制体系です。教団においても2派が分立して、互いに統制をかけようとし、警察は戒律違反を取り締まる宗教警察であり、また裁判所も宗教裁判所として存在していることです。これが現代イランをどこまで反映しているのか分かりませんが、公衆の面前で加える鞭打ち刑は、中世キリスト教会の異端裁判を想像させます。さらに病者への治療法は、近代的医療がアニミズム的療法と同列で繰り広げられるスピルチャルなものです。
 歴史上の古典詩人ハーフェイズは、原理主義の偽善と欺瞞を嘲笑して民衆への警告をおこなったようですが、映画ではそのような教団批判はありません。これは現代イランの文化統制の限界なのでしょう。とにもかくにも、あらゆる状況を越えた普遍的愛を歌い上げるというような(監督自身も言っていますが)映画と見るのは惜しい気がします。殺伐した単純な日干し煉瓦の建物と荒涼たる裁くという独特の風土がバックにあり、イスラム文化の本質をオリエンタリズムで眺める視点を警戒しなければならないと思いました。名古屋・シネマテークにて。観客10名弱でウイークデイの午前中にしては意外と多いので驚きました。(2008/3/13 16:38)

ハス・チョロー『胡同の理髪師』
 ウーン現代中国の目を剥くような開発経済による現代化と姿を消していく伝統文化の相剋を、ひとりの年老いた実在の理髪師(93才)を通してドキュメンタリックに描きます。そそり立つ北京の高層ビル群と再開発で取りこわされる胡堂の家並みが鮮やかに対比されます。それは同時に活動する若者が主役であり、老人は静かに姿を消していくしかないのだという諦念でもあります。老人は迫り来る死を自覚して死出の用意をしますが、それは同時に家族を含む共同体の衰弱をも象徴しています。敢えて言えば滅びゆく者の美学のでしょうか、淡々と静謐な映像が最初から最後まで続きます。この映画はただそれを肯定も否定もせず描きますが、はたして現代化の先にどのような人間の生活が待っているのかを提示はしません。それは観客に問いかけているようです。ただひとり若い画学生が老人の肖像画を描く過程を通して人間とはなんだろう・・・への答えを準備しているようです。
 中国映画の製作的感性と技術水準はもはや欧米と比肩しうる水準に達していることを、この作品は告げています。BGMに替えて流れる古時計のチクタクという音と、主人公を見つめる黒猫のまなざしが異様な効果を挙げています。エンデイングで流れるBGMが素晴らしい。名古屋・名演小劇場にて。驚いたことに中年女性で満席でした。(2008/3/6 16:35)

マーク・フォースター『君のためなら千回でも
 私はこういう映画をみるとほんとうに哀しくなるのです。
 映画はアフガニスタンの現代史を背景に、アフガンを脱出してアメリカに難民として亡命する家族と、アフガンにとどまった人たちの再会を、少年2人の友情と裏切り、悔恨を通して描いています。社会主義革命とその挫折、ソ連侵攻とタリバン政権の樹立というアフガン現代史の激動がうかがえます。カルマル社会主義政権時は近代化志向の改革がうかがえますが、タリバン政権にいたってイスラム原理主義の強制が浸透し、象徴的に凧揚げが禁止されたり、不倫が石投げの処刑といった残虐な場面も現れます。部族間の対立も露わであり、パシュトン人のハザラ人への差別も露骨に描かれます。
 さて私がなぜ哀しくなったかを説明したいと思います。少年2人は大地主の息子とその召使いの息子という関係ですが、そうした主従関係を越えた友情が果たして成り立つのかをリアルに問うています。米国に逃亡できるのは、大地主家族であり、他は残留します。大地主の父は、イスラム的尊厳を遵守しつつ、反ソ連と反タリバンの憎悪感を披瀝します。米国的価値観にフィットできたからこそ彼らは米国に亡命できたのであり、米国的な似非ヒューマニズムの絶好の対象になったのです。アフガンの救いがここでは米国亡命しかありません。
 劇中ではカブールの孤児院の院長が、烈しく米国亡命者を批判しますが、私はこの孤児院院長の姿勢に最も共感します。残念なことに、朝鮮戦争、ベトナム戦争、文化大革命・・・とアジアの激動の中で多くのアジア人が米国に亡命して、赤裸々に自己の真実の体験を語って米国人の共感を得ました。私はここに米国人の偽善を感じるのです。自らが侵した侵略の過ちによって生まれた現地の犠牲者のエリート部分を自国に亡命者として引き受け、米国的価値観にフィットする作品を書かせて絶賛するという亡命者文学のパターンがあります。
 この映画の監督がどこまでそうしたことを見抜いているのか知りませんが、ヒューマンな描写の裏で決して救われない無数の犠牲者がこの世を去っていることに疑問を感じないのでしょうか。率直に言って描写がヒューマンであればあるほど、その犯罪性は深刻であるのです。名古屋駅裏・シルバー劇場にて。観客10数名。(2008/3/3 19:41)

イム・サンス『ユゴ 大統領有故』
 1979年に起こった韓国大統領暗殺事件の24時間を描く。軍部クーデターによって独裁政権を樹立した朴正き(パク・チョンヒ)は、徹底した民主化闘争弾圧と開発経済路線を歩み、金と引き替えに日韓条約を締結して日本との国交を回復した。旧日本陸軍士官学校出身で高木正雄という日本名をもつ朴は、一部経済界と軍部の支持を得つつ、恐怖政治によって民衆を弾圧したから民衆のルサンチマンも昂じていた。国歌演奏時には全市民は直立不動で敬礼する義務があるが、若者たちは平然と無視して学校へのバスに乗るのがエピソードとして象徴的だし、この映画では描かれないが大統領夫人暗殺事件はすこし前に起こっている。独裁は内部から腐敗するが、大統領の側近3人グループの権力闘争が頂点に達し、宴会の席で中央情報部長・金載圭は大統領秘書室長と大統領自身を射殺する。これが大統領暗殺事件であり、事件の本質は民衆との矛盾を打開する方法をめぐる権力内部の衝突に過ぎない。情報部長の「民主主義のため」というのはいかにも虚しい。
 この映画の素晴らしい点は、大統領と政権中枢部を徹底的に揶揄し、その頽廃を赤裸々に描いていることだ。当時は日本の演歌は禁止されていたが、大統領の宴席で堂々と日本語で歌手に「北の宿」を歌わせる。さらに大統領グループが日本語で会話するのには驚いた。権力に対する揶揄と戯画化はいいのですが、単なるエンタテイメントに終わる深みのないシナリオに問題があった。民主化や運動に対する弾圧はあまり描かれず、民衆との矛盾の本質に迫らないので、権力の腐敗と内部闘争をハラハラ見せるだけで終わる。ケネデイ暗殺を描いたハリウッド映画や『皇帝のいない8月』とほとんど変わらない。
 しかしこの映画の上映に対して、現代でも根強い支持を受ける朴派から強硬な反対があったそうだが(実娘は大統領候補のいまや有力者だ)、確かに大統領の全裸遺体を映すなんてことは、日本ではとてもできないだろう。それを蹴って上映するのは、そうした独裁の権威がほとんど崩壊している現状を示していて面白い。この映画はほとんどタブーをなくした韓国民主主義の定着を示している。ひるがえって日本には菊や鶴などの幾つかのタブーがあり、映画界でこれに挑戦する人はいない。命が危ないか企業であれば倒産するからだ。名古屋・ゴールド劇場にて。中高年中心に30名弱。(2008/2/25 16:38)

ピーター・グリーナウエイ『レンブラント 夜警』
 まるで演劇の室内劇の舞台を映していくような光と影の交錯する映像が展開する。若くして美術界の頂点に駆け上ったレンブラントが、なぜ「夜警」という1枚の絵によって没落していくのか。映画では政敵によって両眼を潰されてしまったが、これは事実なのか。3時間近い大作で最初は冗長でわかりにくいストリー展開なのですが、中盤以降はサスペンス風に展開します。映像が玄人風に凝っていますので、それを見るだけで感嘆のため息が漏れるのですが、ストーリー自体は大したことはありません。要するに「夜警」というアムステルダム市警のチームを描いた彼の代表作は、実は市警の頽廃と殺人事件を秘かに暴き告発する絵であったのだということなのです。いわば「ダ・ヴィンチコード」のレンブラント版といったらよいでしょうか。映像のすばらしさに比較して感動がないのは、レンブラントを時代背景において社会的視野でとらえず、単に妻や家政婦との愛欲においてとらえたからです。彼の絵がなぜある時代の心をとらえたのかという時代精神を描けないからです。
 いわば純粋芸術ないし唯美主義の道を行く監督の限界でありましょう。これは監督の史的解釈によるレンブラント評価であり、ほんとうのレンブラントは別の場所にいるかも知れません。しかし監督自身は画家でもあるというのは驚きです。名古屋・名演小劇場にて。観客は中高年中心に10数名。(2008/2/16 16:14)

神山征二郎『北辰斜めにさすところ』
 リリックなデビュー作『鯉のいる村』から始まって、『月光の夏』・『郡上一揆』・『草の乱』と社会派的テーマを連発して健闘してきた神山氏であり、また題名が格好いいのでこれは見逃せないと思って勇んでいきましたら、なんだか期待は大きく裏切られました。戦前の旧制高校の青春を無条件に賛美し、強いられて戦場に散った旧軍兵士の死を靖国の殉死思想に近い美化がなにか危うい感じです。旧制高校の伸びやかなスタイルは、現代の教育の問題を照射するところもありますが、旧帝国の指導層を養成して帝国主義的侵略の先兵となったことはまぎれもない事実です。それはあたかも大英帝国のグラマー・スクールと同じです。神山氏には旧制高校の制度的限界を鋭く指摘する思想的鋭敏さはないのでしょうか。或いは学徒出陣で「散華」する青年兵士の死の裏にある、侵略軍の本質をみないのでしょうか? というわけでノスタルジックに旧制高校のスクール・ライフを無条件に賛美して、じつはこの映画は恐ろしくヒューマンなタッチで戦前期階級制と戦争責任を隠蔽する効果を持ったのではないでしょうか? これが神山氏の意図に反してのことと信じたいものです。名古屋・名演小劇場にて。(2008/2/3 16:00)

山田洋次『母べえ』
 原作は黒沢明監督のチームにいた野上照代さんの幼少期のノンフィクション「父へのレクイエム」です。ドイツ文学者(野上巌 ペンネーム新島繁)である父が治安維持法で逮捕され、獄死する中を生き抜いた家族の物語です。大仰な演技や派手なBGMもなく、抑えた色調で淡々と展開する丁寧な映画づくりはやはり山田監督のものです。改めてかっての戦争への道を進んでいった日本の庶民の日常がリアルに描写され、ファナテックな狂気の世界に巻き込まれていく時代の雰囲気を実感します。おそらくこうした映画は、山田洋次の名声なしにメジャーでは撮影されないでしょう。単なる鎮魂のレクイエムではなく、現代の時代風潮と酷似しているという実感を誰しも持つのではないでしょうか。この映画製作を決意した山田監督の静かな現代日本への警告としてのメッセージが伝わってきます。マクロな大状況ではなく、国賊と迫害された無実の家族の日常の営みに焦点をあてて、かえって現代への危機感が浮き彫りとなってきます。昭和天皇と皇后の写真がかざされ、教育勅語のふくさが大写しになる講堂のなかで、健やかに響く子どもたちの讃歌の歌声は、なにか痛切な天皇制批判ないし、戦争責任の追及に聞こえて参ります。わたしはいつも、こうした子どもたちの合唱に弱く、すぐに涙腺がゆるむのですが、じつに山田洋次という現代日本史を生き抜く感性に共感を覚えるのです。山田監督は、日本の茶の間に円形のちゃぶ台が入って、家父長制がゆらいで絆が強まったが、現代日本はまた四角いテーブルに戻り、じょじょに家族関係は解体したと言っていますが、そうした家族論としても失われていく日本的情緒の良さを思い浮かべることができます。109シネマズ名古屋にて。観客10数名。(2008/1/31 16:24)

ステファン・ルツオヴィッキー『ヒトラーの贋札』
 第2次大戦中のナチス・ドイツは英国経済の混乱を狙った大量のポンド贋札の密造をおこなった。捏造集団は強制収容所に収容されたユダヤ人の印刷技師や画家などであり、当然に彼らは命令に協力して延命を図るか、ナチスに加担するかという良心の選択を迫られた。生命の限界状況に臨んでの究極の選択という問題は、特にナチス迫害下のユダヤ人に迫られた状況だった(『ソフィーの選択』などナチスを主題とした映画に多い)。原作は実在の印刷技師であるアドルフ・ブルガー『ジトラーの贋札 悪魔の仕事場』であり、氏は90才を超えて高齢にもかかわらず、映画上映を記念して来日して講演を各地で行っている。「毎日自分のベッドに帰った時、自分はいずれ死ぬと考えていた。自分はすでに死んでいてただ死者になる前のバカンスが与えられているのだと考えた。あなたたちはこのような事実を知って罪悪感を持つ必要はありません。しかしもしあなたがネオ・ナチに入ってしまったら、それはナチスやアルカイダと同じただの殺人者になってしまう」と訴える。
 映画は凄まじい収容所の情景と贋札作りをめぐる囚人内の葛藤を描いて迫真性がありますが、ラストの娼婦とダンスして終わるシーンには救いはありません。それほどに収容生活からの生還者の神経は私たちの想像を超えた傷があるのです。囚人の仲間で、結核になって感染を恐れて射殺される若い画家がいますが、「表現主義と前衛派のためにがんばろう」(?)と確か言ったような気がするのですが、表現主義前衛派は弾圧の対象であったことが分かります。
 驚いたことに日本の映画批評家の一部に、本作品をハリウッドを越えるエンタテイメント娯楽作として称讃しているのをみて、何と度し難い無知と恥を覚えぬ感性の持ち主かとため息が出るような絶望を覚えました。ここまで日本の映画批評の水準は頽廃しているのです。
 ただしわたしはどうしても考えるのです。ナチスのユダヤ人迫害と強制収容所の悲惨をテーマに作品をつくる傾向が依然として続いていますが、ナチを悪の権化として責任をすべて押しつける傾向が生まれてはいませんか? ナチスに協力した無垢の民衆の責任をも裁かなければならない時代になっているのではないでしょうか? なぜ私がこうした言い方をするかは、どうしてもホロコーストを理由にイスラエルのパレスチナでの蛮行を見逃す状況を生んでいるのでないかと思うからです。そしてなぜあれほどの悲惨を体験した民族が、同じような犯罪行為をアラブ人に向けて情け容赦なくおこなうのか、このめくるめくようなパラドックスに私は戸惑うばかりなのです。名古屋・ゴールで劇場にて。観客10名弱。(2008/1/29 16:46)

文化座『天国までの100マイル』(名古屋演劇鑑賞会例会)
 原作:浅田次郎、脚本:八木柊一郎。なるほど浅田次郎とはこういう作品を書くのか、八木の生き生きとした場面転換を含む脚本が素晴らしい。観衆は舞台に集中し、ところどころ鼻を啜る音が聞こえる典型的な庶民の人情ドラマ。文化座は「荷車の歌」いらいこのようなヒューマンで温かい作品を上演してきた。現代の殺伐とした世相にあっては、奇跡に近いような癒しのドラマです。山本周五郎の世界に近いと云えようか。下層の庶民のルサンチマンをただよわせる藤沢周平とはすこし違うような気がする。劇場を出る時に、観衆はホッとした温かい気持ちに包まれて家路につくだろうが、ほんとうに殺伐とした世相を鋭く見抜いて対峙していくエネルギーに転化するかどうかは疑問なしとしない。そうした微妙な庶民と民衆のはざまに流れる心情を表現しようとしているのが、文化座であり、またそこに限界がある。名古屋市民会館(○○大学ナントカホールの言葉は拒否します)にて。会場ほぼ満席。(2008/1/24 9:44)

Alastair fothergill,Mark linfield『EARTH』
 46億年の地球という惑星が営んできた生命の循環がいま絶たれようとしています。この映画は最先端の撮影機機を駆使して、この惑星の生き物たちの生命の輝きと崩壊のドラマを迫真的に記録したドキュメンタリーです。北極から南極に到るクマ、ゾウ、クジラの追いつめられた生態を実写します。だれが追いつめたのか、いうまでもなくこの惑星の最高に進化したと自負する人間の活動です。いっさいのCG技術を使わない実写では、日本の吉野桜の開花過程も精細に記録され、生命の崇高な世界に息を呑みます。このような奇跡的な惑星のうえで、人間たちは互いに憎しみ合ったり、いじめ合ったり、殺し合ったりしながら、自分の人生を終えています。これは食物連鎖の生態系と同じように見えますが、人間の行為は自分たちだけではなく惑星に生きる生命そのものを殺し、いじめつつあります。おそらくこの惑星は崩壊し滅びに到るでしょう。まさに世紀末の黙示録の現前であり、イエスの2度の復活を待っているわけには生きません。名古屋109シネマにて。観客10名弱。(2008/1/24 8:41)

Julie GAVRAS『La faute a Fidel ぜんぶ、フィデルのせい』
 ジュリー・ガウラスはフランス社会派コスタ=ガウラスの娘だそうです。この映画は、フランス反体制運動のなかで変容し、成長するある家族を描いています。チリのアジェンデ民主政権の誕生と崩壊、中絶自由化を主張するフランス・フェミニズム運動の渦中を生きる両親の「キョーサン主義」への変貌によって一変する家庭生活の中で、しっかりと周りと自分を見つめながら、成長していく少女の視線は鋭く誇りに満ちています。またフランスでのカソリシズムの影響力の強さをもうかがわせます。1970年代という変革の時代を、21世紀の初頭で単なるノスタルジアではなく、自己成長の過程として描く映画が撮影でき、また世界配給できるフランス文化をうらやましく思います。みごとな世代間の文化継承と子どもの発達を描いた佳作です。なぜこうした映画がいま撮影されるかと云えば、グローバリゼーションの中でアメリカ・モデルが全世界に蔓延していくなかで、営々と構築してきた社会的連帯のフランス文化への危機意識があるからでしょう。ハリウッド的な大作主義もいいですが、こうしたヒューモアあふれるフランスの佳作主義もいいですね。 名古屋シルバー劇場にて。観客10数名。(2008/1/21 16:39)

ライナー・ホルツマー『マグナム・フォト 世界を変える写真家たち』
 世界の諸事象の最前線で、その決定的瞬間を撮影して真実を伝えようとした報道写真家集団マグナムの創立60周年を記念したドキュメンタリーです。創立の第1世代であるキャパ、ロジャー、シーモア、カルテイ=ブレッソンなどはあまりにも有名ですが、このドキュメンタリーはその後のマグナムを担う第2世代の写真家たちの撮影現場とインタビュー、総会での新メンバー選任などからなっています。残念ながら創立期マグナムの印象があまりに強いからか、この第2世代のドキュメンタリーは全く迫力がありませんでした。おそらくマグナム自身が新たな発展への模索の時期か、あるいはこのままにメジャー集団として成熟期を終え、消えていく運命にあるのかとも想います。そのあたりの突っ込んだ取材というのが、このドキュメンタリーにはほとんどありません。観客は愚痴を聞かされて辟易して終わりです。やはり芸術集団の継承というのは、ほんとうに難しいことであるか、不可能なことではとも考えてしまいます。名古屋シネマテークにて。満席。(2008/1/19 19:08) 

ジャスミン・デラル『ジプシー・キャラバン』
 昨日観た映画で気が滅入りかけていた私は、またこの映画で息を吹き返すことができました。私は日本国籍を持ち、旅行ではいつでもパスポートが簡単に入手できます。しかし世界ではみずからの出自がゆえに祖国がなく、またパスポートも自分の民族とは無関係の他国籍で移動しなければならない人たちがいます。20世紀初頭までは、そのように世界を流浪するデイアスポラの民として、ユダヤ人とシンテイ・ロマ(ジプシー)がいました。彼らはどこの地でも差別と迫害の対象となり、ナチスのホロコーストの犠牲となりました。ユダヤ民族は第2次大戦後に無理矢理にパレスチナにイスラエルという国をつくりましたが(その是非はおいて)、ロマ民族はおそらく永遠に世界を流浪する民族として将来も離散して生きる民族でしょう。全世界の人間と称する生き物のなかで、もっとも差別され、侮蔑を一身に浴びて生きてきたのが北インド出自のロマ民族でありましょう。彼らの歴史には、想像を超えた哀しみ、恨みが刻印されています。彼らの生きる道は人類の底辺労働を担うか、フォークロアの世界でしかありませんでした。それはちょうど朝鮮半島の白丁のパンソリを思い浮かべさせます。こうしてジプシー音楽が誕生し、スペイン・フラメンコの源流ともなりました。ジプシー音楽の最大の特徴は(私のみる限り)、中途半端を捨てた底抜けの楽しさか、或いはうめきに近い哀しみの両極の音楽だと思います。
 この映画は21世紀初頭のロマ出身の音楽家たちが国籍を超えて集まり、北米大陸での合同演奏ツアーを敢行した過程を撮影したドキュメンタリーです。アーテイストして成功している彼らの日常は、スペインや東欧でのロマの貧しい農村生活ですが、ひとたびステージに立った時の彼らは満場を圧する音楽を伝えています。それは排除と差別、迫害と虐殺の悲劇をこの身に滲みて体験してきた張り裂けるような絶叫と歓喜の声ではあります。それが私たちの胸を撃ち、生きるパワーを逆に与えるのです。名古屋シネマテークにて。会場ほぼ満席。(2008/1/12 15:53)

若松孝二『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』
 連合赤軍とは、1971年から72年にかけて活動した日本の極左武装集団をいいます。彼らは武装革命を主張して2つの事件を惹起し崩壊していきました。それは革命意識を高めると称する「総括」という名の凄惨なリンチによる仲間12名の虐殺と、追いつめられた山荘での機動隊との銃撃戦です。この時代は世界的な反体制運動の高揚期であり、それに参画していった少年や青年の一部に左翼小児病的な街頭での暴力行為の過激さを競う心理が醸成されました。彼らは既成左翼をスターリン主義として全否定しましたが、みずからが最も羞悪なリンチ殺人の泥沼におちいったスターリン主義の極地に頽廃していきました。映画にもあるように、反ヒューマンな行為に異議申し立てをする勇気を奪うほどに、狂気のスパイラルが地獄へとのめり込んでいったのです。この映画は執拗にリンチの過程を描写し、最後の山荘立てこもりを描きますが、なぜこのような凄惨で羞悪な行為が誘発されたのかーという集団力学と社会的背景と心理には迫りません。この映画が云いたいことは、リンチ行為を批判しつつも彼らのピュアーな動機そのものは肯定するというところにありそうです。しかしそれはほとんど三島由紀夫のハラキリ事件への心情的共感と同じような質を持っているような気がします。ネオ・リベラリズムが席巻する現代にあって、なぜ連合赤軍を描くのかという意図がほとんど伝わってきません。ヘタをすればサデイズムの心理でこの映画を観る人もいるかも知れません。こうした映画を諸手をあげて賛美する宮台真二氏などの評論の罪は深いと思います。
 *連合赤軍服務規律 第17章5
 処罰は3段階ある。イ自己点検・自己総括 ロ権利停止 ハ除名(除名においては死、党外放逐がある

 政治言語が散りばめられていますが、本質的にはマフィアの内部闘争による自滅の過程を描いたヴァイオレンス映画と変わりはありません。それにしても、白髪の高齢者だけがこうした映画を食いるように見つめている姿は哀れを感じさせます。映画館を出ると、すぐ前には超高層ビルがそびえ立ち、人びとが死んだような瞳をして行き交っています。こうした1970年代へのノスタルジアがほとんど戯画的になる時代の変容があります。映画技術としてはバック音楽が失敗でした。名古屋シネマスコーレにて。観客は男性高齢者がほとんどなのに驚きました。(2008/1/11 16:52)

オタール・イオセリアーニ『ここに幸あり』
 フランスの市井の雰囲気が満ちあふれています。政府の大臣があっというまに更迭されて、公園の清掃人として生活していきます。フランス社会の権力と市民の双方向性をごく身近に感じさせ、サルコジ大統領の愛人ストーリーの可愛さを連想させます。帰するところ、人間のほんとうの幸せはごく身近に酒を酌み交わしながら、或いは音楽を聴いて踊りながら、そして歳はとっても恋の物語に運ばれつつ、なにかヒューモアとペーソスに溢れた日常性にあるのでないかーというメッセージ映画です。おそらくこうした映画はフランス以外では撮影と上映の機会がないでしょう。グルジア出身の監督がなぜこのような作品の資金を得たのかは疑問ですが。しかし残念ながら、この幸せイメージはフランス国内で自己完結した物語であり、うらやましいですが世界的な普遍は獲得できないでしょう。こうした豊尭な日常が営まれるフランス社会に憧憬は抱きつつも、なぜか貧困のアジア・アフリカを思い浮かべ、なお且つアメリカ・モデルに毒されて漂流する日本をふり返るのです。名古屋シネマテークにて。意外と中高年婦人が多く驚きました。
 最後に監督の来日インタビューから一部を紹介します。「この地上で幸福な人に1人でもいいから会ってみたい。貧しい人は不幸だ。商売をしている人や企業を経営している人も同じように不安にさらされていて、いつも不幸だ。お金持ちも不幸。なぜならカネや権力を持っている人には友だちはいない。忠実な人は1人もおらず、裏切られるのではないかとたえず心配しなければならないからだ。僕は地上に生きるすべての人を不幸だと思っている。しばしの間幸福でいられることは可能だけど、長い間幸福であることは不可能だ」。(2008/1/10 18:42)

Chris Kraus『4minutes 4分間のピアニスト』
 ウーン・・・久しぶりに本格的な映画を観ました。こうした濃密で実存的な映画はさすが欧州文化の奥深さを感じます。「使命」といった言葉が鍵概念になっているのはドイツ文化の特質を感じますが。重厚で切れ味鋭いドイツ映画の片鱗がうかがわれました。それにしても、シューベルト「即興曲第2番変イ長調D935」の哀しみとも怒りとも入り交じったピアノ曲は胸をうつものがあります。私はこの映画で初めてシューベルトのピアノ曲の凄さを教えられました。この映画は、マクロな時代の激動(共産主義者と同性愛者という異端に対するナチの迫害に屈した裏切りの原罪)をくぐり抜けた老女性ピアニストと、屈折した青春期の果てに殺人犯として獄中にいる天才女性ピアニストの再生の物語です。異常な極限状況の地獄においていかに「人間は人間であり得るか」、果たして人間は救われるかー描いているのでしょうか? 一見平凡に過ぎていく私たちの日常は実はこのような迫真状況とそれほどに違いはないのです。ドラマテックな展開とは無縁であっても、人間はやっぱり同じ問いを投げかけられて生きているのです。私は改めてぶ厚い欧州文化の堆積を覚えさせられました。こうした映画は日本ではつくり得ないでしょう。どうしようもなく歴史的に刻印された感性の差異なのです。名古屋・名演小劇場。観客10数名。(2007/12/14 18:33)

レニングラード国立歌劇場オペラ『カルメン』
 私は初めて外国の本格的なオペラを観た。生のオーケストラの残響音、壮大且つ前衛的な舞台装置、訓練された俳優の歌と踊りはさすがに100年を超える歴史を持つ劇場だ。強調されたテーマは「自由」であり、旧ソ連崩壊過程に込められた芸術界の思念が込められている。オペラがじつに堪能できるものだと知った。それにしてもこの劇場は、レニングラードの名前を改称してペテルスブルグにしないのだろうか。レニングラード交響楽団はどうなったのだろうか。
 しかし名古屋の観客はおとなしい。黙って舞台を与えられているかのようで参加意識がない。熱狂的な拍手もない。中高年おばさんと音楽学校の学生ばかりだからだろうか。うしろにかなり空席があるのは、不況のせいか。いつきてもこのホールは命名権ビジネスである大学の名前を冠し、開演の前から不快な気持ちになる。(2007/12/5 7:55)

キャサリン・ハードウイック『マリア』
 最近、イエスの誕生から処刑に到る原始キリスト教を描く映画が多いのはなぜだろうか。この映画は実は気が進みませんでしたが、他にこれといったのがないので観た次第です。私の関心は当時のローマ帝国が支配するパレスチナの地の風土と民俗性がどのように描かれているのか、そして紀元前後期に生きた当時の人びとの社会的諸関係の描写にあったのです。この映画はマリアの処女懐胎とイエス誕生に到る新約聖書の冒頭が主舞台ですが、マリア・ヨセフの関係に焦点を当てていますが、社会的諸関係の描写にもっと力を注ぐと深みが出たと思います。聖母マリアが人間マリアとして描かれているところが、この映画の最大の特徴であり、それは『パッション』と同じ手法です。
 なぜハリウッドはこれほどに原始キリスト教映画にのめり込んでいるのでしょうか。それは宗教改革運動が起こった時と同じように、21世紀のキリスト教があまりに世俗化・制度化してピュアーさを
失って時代の要請に答えられなくなったところにあるのでしょう。イエスがなぜ最貧の馬小屋で誕生し、飼い葉桶で育てられたかーここに現代キリスト教はもう一度思いを致さなければならないでしょう。名古屋伏見ミリオン座にて。観客30名弱、意外と多いので驚いた。(2007/12/3 16:14)

マイケル・ウインターボトム『マイテイ・ハート 愛と絆』
 非常に巧妙にできた米国の反テロ映画です。製作は原作に感動したブラッド・ビットとかいうハリウッド俳優だそうですが、何れにしてもハリウッドの世界とテロ認識の水準がもろくも露呈されています。アルカイダ系テロリスト(?)に誘拐された米国人ジャーナリストの殺害に到る過程を救出に全力を注ぐ妻の視点から描いていますから、平凡に見ているとその愛情と悲劇を乗り切る妻の姿に感動し、そしていつのまにかテロリストと戦う星条旗の崇高さに引き入れられていく仕掛けになっています。おそらくブラッド・ビット自身はそのような意図で製作したのではないでしょうが、なんとも無知ゆえの無意識の偽善を暴露しています。
 最大の問題は、パキスタンやアフガンの貧困はチラリと映し出されますが、テロの基盤を鮮やかに写すことはなく、もっぱらイスラム原理主義の文明間闘争として描いているところにあります。さらにはアメリカが対ソ戦略として散々に利用してきたアルカイダ支援の経過には全く触れていません。誘拐犯の一人がグアンタナモに収容されているとバックに流して、グアンタナモ収容所を間接に擁護したり、FBIがパキスタン治安機関と協力して捜査に当たるなど、ムシャラフ政権とホワイトハウスの麗しい同盟関係を賛美しています。さすがに『キングダム』とは違ってFBIが直接操作の指揮を執ることはありませんが、ここには米国中心の反テロ国際戦略が透けて見えます。といったことで、この映画は手の込んだ政治的効果をもたらすA級娯楽映画(?)にすぎません。朝日新聞の品田雄吉氏の映画評はみるも無惨な米国賛美になっています。名古屋・ゴールド劇場にて。観客6名。(2007/11/30)

ニンツアイ(寧才)『季風中的馬(白い馬の季節)』
 私は初めてモンゴル映画を観たような気がします。外国人監督が撮ったモンゴル映画はあったでしょうが、モンゴル人自身によるモンゴル映画は初めてです。この映画は、遊牧民の家族が遊牧を捨てて都市に移住する話ですが、背後にはグローバルな市場経済と地球温暖化に飲みこまれる遊牧文化の崩壊があります。前近代的といえる遊牧文化の独自の威厳と尊厳が、自然生態系の循環の中での人間と自然の共存によってもたらされていることを痛感します。遊牧の土地所有権が国家に帰属するが、しかし遊牧民にとっては入会権に近い使用権であったこともまざまざとしることができます。私たちはこうした遊牧文化を前近代の伝統として、ノスタルジックに見ることは許されません。なぜなら市場原理主義による地球環境破壊は、ただ単に遊牧を駆逐するだけでなく、人間の生存環境を消失させつつあるからです。日本の高度成長がモンゴル遊牧文化を消滅に導いているのです。日本の映画評論家は、そうしたみずからの罪の痛みの無自覚なままに、滅亡していく遊牧文化を賛美しています。何たる増長の極みか! 名古屋・シネマスコーレにて。観客7名。(2007/11/24 19:02)

田壮壮『呉清源 極みの棋譜』
 日本の囲碁界を戦前から戦後にわたって席巻した呉清玄の生涯を自著をもとに映画化しています。監督は中国映画界の泰とうである田監督ですから、碁キチには堪えられない映画であり、会場には中高年の囲碁ファンが多いように思われました。しかし残念ながら期待は裏切られました。最大の要因は、新興宗教に狂った呉清玄に焦点を当てた脚本にあります。田監督の演出とカメラは、さすがに東洋風の雰囲気と碁の世界の幽玄をただよわせていましたが、如何せん脚本のストーリーとメッセージが方向違いであり内容的な深みを失っています。自著に忠実なのかどうか分かりませんが、日本側の脚本参加があってよかったのではないでしょうか。韓国の「達磨はなぜ東にいったか」のような内容の深みが求められます。(2007/11/23)

クリステイナ・ゴダ『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー 1956
 いまは過去となってしまったハンガリー事件を渦中に参加した男女学生を中心に描いています。ハンガリー事件は、ポーランド・ポズナニ暴動と並んで戦後の「輝かしい」ソ連社会主義のイメージを痛く傷つけた事件でした。当時の左翼の主流は、これらの事件を冷戦下において米国自由陣営の工作による反革命事件ととらえ、ソ連軍の介入も社会主義共同体を防衛する正義の行為と正当化しました。第2次大戦後の米国の帝国主義戦略を批判する左翼民主派の多くは、この見解を支持し、ソ連派を批判し暴動を支持した人たちは反革命の汚名を免れませんでした。時代は幾星霜を経てこれら事件の真相が明らかになってきました。そこには恐るべき秘密警察による中世的な弾圧を手段とするソ連型社会主義の強制があったのです。当時の左翼理論は、プロレタリア独裁による反革命の粉砕という強行的方法を革命権力の不可避の手段と見なしました。実際にCIAを中心とする謀略組織による反革命の組織的陰謀もあったでしょうが(キューバ事件、トンキン湾事件のように)、他方には市民の一般民主主義を求める厚いパッションもあったでしょう。それは当時のハンガリー革命党の内部の権力闘争に発展し、ソ連からの自立を求めるイムレ・ナジ政権の成立が示しています。こうしてハンガリー事件の基本的な性格は、ソ連型社会主義からの離脱によるユーゴ型自主社会主義を求める広範な市民運動であったことが、現在の歴史的認識となっています。
 こうした点を踏まえてこの映画をどのようにみるべきでしょうか。「アカ!」「豚のロシア人!」などと罵倒するハンガリー人の一部には、おそらくCIAと通じた反革命の潮流がいたことを示します。それは蜂起の時に「米軍が助けに来る」と信じていたメンバーがいたことで分かります。総じてこうしたメンバーのスローガンは「自由!」です。この時代での「自由!」がまだ米国の輝かしいイメージであったことが分かります。
 しかしいまなぜこの映画が製作されたのでしょうか。ハンガリー人である(であった?)女流監督・ゴダは、ハリウッドやロンドンで映画を学び、米英の価値観を身につけ、ハンガリーに凱旋したかのようですが、この映画にはアメリカ的「自由」の虚妄に対する批判は一切ありません。アメリカ帝国は自由の守護者と見なされ、ソ連帝国は悪の権化と見なされています。これはハンガリー民主化運動を美しく讃えるためにつくられた映画ではありますが、残念ながら現在のアメリカ帝国の「不朽の自由」作戦を弁護する役割を客観的に果たすかも知れません。日本のあまたの映画評論家は絶賛の嵐を送っていますが、これは無意識の偽善アンコンシャス・ヒポクラシーと言っていいのでしょうか。名古屋伏見・ミリオン座にて。観客30名弱。(2007/11/19 8:25)

アンドレイ・クラフチューク『この道は母へと続く』
 久しぶりのロシア映画ですが期待したほどではありません。市場経済移行後のロシアの断面を象徴的に示しています。離婚の激増と親の子捨てによる孤児の激増です。この映画は孤児院に収容されている孤児たちが、富裕な欧州からの養子縁組による孤児院脱出を夢みながら希望なき毎日を送っている表情を描きます。市場化による孤児院経営の民営化によって、社会保障が削減され、経営者は孤児提供による多額の収入を期待しています。孤児たちの臓器移植をねらった孤児の人身売買ビジネスも登場します。映画では、生みの母を求めて脱走した孤児がついに母との再会に到るドラマであり、その途中のハラハラドキドキを描きます。しかしこの映画はロシアの現状に対する告発はありません。孤児の個人的な努力によって道は開けるとでも言っているようです。日本の評論家でこの映画を絶賛する人がいますが、その社会認識の低さを露呈しています。ロシア映画がこの程度のレベルに堕してしまったのか、つくづくと市場経済移行後の闇の世界を知りますが、果たして監督はその現状をどうみているのでしょうか。ラストは子どもの笑顔をもって終わりますが、子どもは裏切りによって最後の希望を絶たれ、自暴自棄へと転落していくのではないでしょうか。名古屋・伏見ミリオン座にて。観客10名弱。(2007/11/18 9:57)

イッツ・フォーリーズ『おれたちは天使じゃない』
 作・矢代静一、作曲・いずみたく、美術・朝倉摂と並べば、戦後日本の民衆派芸術をリードした輝かしいメンバーではないか。しかしいずむたくが創立したミュージカル劇団が現在もなお活動を続けているとは驚いた。1960年代の作品は現代でも鮮やかによみがえり、ナイーブでピュアーな暖かさと勇気を伝える。それにしてもやっぱり、底抜けに健康であった60年代のいずむたくの歌だナーとしみじみと思う。21世紀に上演するのは少し原作をいじってもいいのではないかなと思った。久しぶりに元気が出る楽しいミュージカルだった。ぜひ非正規労働で苛酷な毎日を送っている人に見て欲しいが・・・チケット代ももったいないだろう。だからこのミュージカルはほんとは街頭で上演されるべきだ。名古屋市民文化会館にて。(2007/11/15 19:13)

ピーター・バーグ『キングダム 見えざる敵』
 アメリカ帝国のイラク戦略を賛美する手の込んだ作りとなっており、米国と中東の麗しい反テロをめぐる友情と連帯に見える人もいるだろう。舞台はイラクではなく、サウジの外国人居住地での無差別テロ犯を追求するFBI捜査官と現地サウジ警察の厚い友情によって、テロ犯が壊滅するストーリーです。私がこの映画から得たことは、石油利権を独占するサウジ王侯貴族の栄華を、大邸宅と街並みからうかがえたことに過ぎません。そもそもFBIという米国内の捜査権しかない警察が、なぜサウジという外国に行って犯罪捜査するのかという、ごく初歩的な違法行為に、何らの疑問も挟まないところが奇怪極まります。双方が手を組んで「テロリスト」の捜査に向かうのですが、最初からサウジ警察の捜査能力は軽蔑され、FBIがいないと捜査さえ充分にできないという、まるで米国の中東支配を合理化する描写となっています。この映画は、巧妙につくられた米国のイラク戦略の賛美に他なりません。米軍と現地傀儡政府が連帯してテロに立ち向かうという図式は、まさに現在のイラクそのものです。ハリウッドは米帝国の戦略を合理化する手の込んだ手法で、中東を描くしかなくなったということを逆に証明しています。哀しいことに日本の左翼の一部にこのハリウッド映画を評価し、賛美するかのような映画評論があることです。世界はそれほどに醜悪で卑劣な状況に落ち込んでいるのです。名古屋・109シネマにて。観客6名。(2007/10/26 19:34)

無名塾『ドン・キ・ホーテ』
 舞台は荘重な中世スペインをシックに表現している。喜劇風のドラマが展開するが、主演・仲代達矢の日頃のシリアスなイメージが強く残っているせいか、開けっぴろげに楽しめる雰囲気ではない。いまなぜセルバンテスなのか、いまいち伝わってこない。最後の決闘から死に至る大団円の独白に込められたメッセージも、それほど身にしみて伝わってこない。これは私の感性の衰えであろうか、それともいま新劇界自体がある模索のなかにあるからなのだろうか。確かにドン・キ・ホーテは、「自由」の象徴であるが、現代の抑圧は単に「自由」の独白では越えられない感性の浸潤があるのだ。それにしても、仲代達矢の衰えは覆いがたい。それほどに役に没入しているとも云えるが、動作自体にメリハリがなくなっているような気がする。無名塾はいったいどうなるのか。若手俳優の自立が望まれる。サンチョ・パンサの山谷初男は好演だった。名古屋市民会館中ホールにて。この会館は命名権ビジネスである大学の名前が付いているが、汚らわしいので呼ばない。(2007/10/25 17:03)

Guillermo del Toro『Pan`s Labyrinth パンズ&ラビリンス』(2006年 スペイン・メキシコ)
 久しぶりに文句なく面白い映画を観ました。同じスペイン内戦を描いても、「サルバドールの朝」のお目出度さをはるかに超えています。スペイン内戦と少女ファンタジーを組み合わせるという異色のシナリオは、リアルと夢が交錯して類い希なる相乗効果をもたらします。私はファンタジー映画は宮崎峻や高畑作品以外はあまりみたこともありません。ハリー・ポッターやハリウッド系のファンタジーは最初からみる気になりませんし、ファンタジー文学としては『ゲド戦記』(これは最高に面白かった!)以外読んだことがない私は、初めて本格的なファンタジー映画にふれた想いです。それは何よりも、スペイン内戦という現代史の重い歴史的事実と同時展開するシナリオとなっているからです。確かに少女の苦難を乗り越えて救いに到るというイニシエーションのようなファンタジーですが、やはり少女物語を含め、ファッシズムへの深い憎悪と犠牲者に対する記憶の物語だと思います。
 第2はファンタジー映画にあってはならない、目をそむけるような残酷な拷問や処刑のシーンを描いていることです。おそらくこれは内戦の修羅の最中に繰り広げられた悪魔的な行為を忠実に描いたのでしょう。戦争や革命の過程に伴う醜悪な非人間的行為をそのままリアルに描くことを通じて、人間世界の悪魔的部分から逃げることを許さない監督の思想がうかがわれます。子どもに対してさえも。こうしたファンタジー形式で記憶を伝える欧州文化の底深い歴史感覚を実感させます。ここには安易な日本型の甘えや赦しは露ほどもありません。日本型文化の底の浅さはそのまま過去の記憶を洗い流して悪の反復をもたらすという手痛い事実を示しています。こうした思想的なレベル抜きにも、最高のエンタテイメントとして深い印象を残します。欧州のキリスト教の民俗文化に造詣があればさらに面白いでしょう。監督がスペイン人ではなく、メキシコ人であることも驚きでした。名古屋・ミリオン座にて。観客女性客多し。終わっても寂として声なく、誰も席を立たなかったエンデイングも久しぶりでした。(2007/10/23 16:54)

MANUEL・HUERGA『SALVADOR(サルバドールの朝)』
 この映画の特異性は、9.11以降の全世界的な対テロ戦争の最中にあって、アナーキストの銀行強盗を含むテロを共感的に描いているところにある。時代は1970年代のフランコ独裁政権の末期に、政権打倒とアナキズム革命をめざす極左集団に参加していく青年の銀行強盗から処刑に到る過程を描く。フランコ政権崩壊に到る時代は、まさに私の青年期と重なり、労働者委員会・労働総同盟とスペイン左翼を主体とする民主化運動は、ポルトガルの春と並んで注視していた。この映画は現代にあっても、スペインではアナキズムに共感する親和性の文化が根強く続いていることを示している。テロ戦術は、バスク独立を求める「バスク/祖国と自由」のものと思いきや、労働者委員会にもそのような潮流はあったのだ。この映画の思想は、若者の理想の追求過程におけるピュアーな行動としてテロに共感を示し、憐れみを乞うところにある。これは1930年代におけるスペイン内戦における人民戦線の評価と重なるところがある。そして現代の視点からみれば、最大の問題は欧州文明内部における反体制テロと、植民地やイスラム原理主義の対帝国テロをはっきりと区別しているのではないかと疑われる点にある。
 第2点は、当時のスペインのガローテという鉄環絞首刑という処刑法だ。鉄の輪と棒で首を締め上げ、窒息と首の骨の粉砕による処刑であり、しかも締め上げるのは死刑執行人であるから、ある意味ではギロチン以上の残虐な処刑方法といえる。EUは死刑を廃止しているから、スペインからガローテは姿を消したのであろうが、この処刑シーンは現代的には死刑廃止のメッセージでもある。
 いずれにしても看守の一人が「お坊ちゃんの革命ごっこ」と揶揄するが、本質的にはその通りであり、いかにピュアーな動機であろうとも、反社会的手段による運動はその他の潮流に致命的な打撃を与えたに違いない。しかも青年は、「祖国と自由ETA」の首相暗殺事件を受けて、「ETAがぼくを殺した」とつぶやくが、ここに日本文化の甘え以上の甘えがあるように思われる。こうした私の批評からみれば、パンフに登場する和久本みさ子とか八嶋由香利の評論がいかにこの映画の表層にしか及んでいないことがお分かりであろう。日本の映画批評の水準は末期的な症状を呈している。パレスチナで全身に爆薬を巻いてテロに行く女性と、アフガンやイラクで外国軍隊にテロを行使する武装抵抗者からみれば、この映画はあまりにも漫画的にみえるだろう。しかしいつの時代も、ピュアーで焦燥感にかられた若者の悲劇的な「お目出度さ」を防ぐことはできない。問題は一定の世智を得ているはずの大人たちの一部が、こうした子どもの行為をピュアーさで称讃し、なにもしない自分を肯定し免罪する材料としていることだ。ここに激しい行為に到る若者のほんとうの悲劇がある。アナーキズムやテロは体制側にとって、反体制総体を壊滅させる絶好の口実を提供する。名演小劇場にて。観客10名弱。(2007/10/22 17:03)

オリヴィエ・ダアン『エデイット・ピアフ 愛の賛歌』
 シャンソンの女王・ピアフの劇的な生涯を子ども時代から死までを濃密に描く。辛酸をなめ尽くした哀しみと喜びを一身に体現して現れる歌声は彼女そのものだ。パリの貧しい下町の風景はよく再現され、その時代の雰囲気にひたることができる。こうした最下層の生活を経てなお彼女の精神は鍛えられたピュアーさを成熟させていくところが驚きだ。街頭で歌を歌って稼ぐ文化は、日本のストリート・シンガーにもあるが、楽器を歌わず単に歌うという文化はフランスならではのものだ。映画のピアフの歌声は、本人の実際の録音された声を使っているそうだが、彼女の声は硬質で世界に対してなにか挑戦しているようで、甘さはない。ここが人をして感動させるのだが、実は私はもっと柔らかい声に惹かれる。しかし自立した女性が全身を込めて自らの望みを歌い上げる姿は、無条件に頭を下げる。映画そのものは濃密でドラマテックな過剰気味の演出で、観客を圧倒する迫力があるが、私はもっと抑えた演出でジワーと押しよせるようなものを期待していた。精一杯に感性を爆発させるフランス映画もあってはいいと思うが。名古屋・ピカデリー劇場にて。女性1000円デーで中年女性が多い。(2007/10/21 8:23)

大西暢夫『水になった村』(名古屋・シネマテーク)
 岐阜県揖斐郡徳山村は、巨大ダムの底に沈んだ。総工費3350億円という巨費を投じたムダな公共事業の犠牲となって。かって生活していた1600人の村人たちは四散したが、故郷を捨てきれない人たちが沈没寸前まで村の生活を営んだ。この映画はその最後の生活を淡々と描写したドキュメンタリーである。おそらく徳山村は日本型高度成長の影に消えていこうとする日本の中山間村落の象徴的存在だろう。この映画は、ダムの虚妄や村人の怒りをいっさい描くことなく、ただひたすらに残った村人の自然を糧として生きる村落生活を描く。それだけラストのブルドーザーが潰していく家々の残影に寂寥がただようのだ。エコロジックな暮らしと言ったらそれまでだが、現代の人工的な食生活の危うさを照射して考えさせるものがある。この映画は敗北の美に誘われていくノスタルジーにいってしまう寸前で静かに怒りをたたえているようにも思う。(2007/10/15 15:35)

桂小米朝『らくごぺら』(愛知県芸術劇場)
 無料券が入手できたのでいった。桂米朝の息子が落語とモーツワルト・オペラを合体させた趣向で、それなりに面白かったが、それ以上ではない。落語の世界も政界と同じ2・3世でなければ成功できないとすれば、日本の文化の将来は危うい。しかも彼はアッケラカンと父を誇り、自立して乗り越えていこうとする姿勢は感じられない。現代落語はしだいに市井の庶民のまなざしから、かけ離れていこうとしている。これはもはやタレントであって、古典芸能の継承者の世界ではない。彼なりの志があるのだろうが、それは芸の到達点を示すものではない。競演したクラシックのプロたちもエンタテイメントと妥協しなければ、生きていけないのだとすれば、互いに不幸な世界を構築している。しかし趣向自身は面白いので、拍手は盛んだ。私が唯一圧倒されたのは、このホールの音響のすばらしさであり、少しの肉声すら会場全体に響く素晴らしい施設だ。それだけが収穫であった。(2007/10/8 17:12)

金剛山歌劇団アンサンブル公演「黎明」
 知人からチケットをもらったのでいきました。会場周辺では機動隊が物々しく警備し、右翼の宣伝カーが大音響を挙げて抗議の演説をしていました。確か倉敷市で会場を取り消すということがありましたが、集会・表現の自由を奪う日本の市民社会水準の低劣さを感じ、特に外国市民の公演活動に介入する知的貧困は批判されなければなりません。しかしホール玄関には、自民党と民主党と公明党の協賛の花輪がありました。日朝関係の亀裂を直接に被って生活しなければならない朝鮮系市民の胸中はどうなのでしょうか。かって朝鮮民主主義人民共和国と呼称していた日本メデイアは、いまやほとんど「北朝鮮」です。この歌舞団はおそらく朝鮮総連の支援を受けた民族歌舞団ですが、とにかく私は幾ばくかの関心を持って観ました。舞台は豪華絢爛たる朝鮮民族文化のオンパレードであり、在日にとっては祖国の文化への尊厳を呼び起こされるものでしょうが、基本は社会主義リアリズムの演出です。指導者に対する単純で形式的な賛美はほとんどありませんが、それだけ現状の問題の深刻さを反映しているのでしょうか。人民俳優とか功労俳優とか称する国家認定俳優が制度化されてもいました。南北首脳会談と同時並行で開催されたこの公演の主調は、民族自身による分裂の克服と統一の希求にあります。私がもっとも興味を持ったのは、伝統的な民俗仮面劇と踊りであり、ここには世代を超えた朝鮮民族文化の中枢があるように思いました。
 それにしても会場は若干空席があり、観客の反応もそれほど熱気に包まれたものではありませんでしたが、苦衷の情勢をけなげに生きる在日の姿があるようでした。会場には高齢者から若い人まで入り交じって、楽しい一夜を過ごしているようでした。もう少し舞台と観客が溶け合うような演出をしたらどうか、最後に民族系団体の指導者たちが舞台に登場するのはやめた方がよいと思いました。ここには「美しい」愛国を主張する日本の靖国派とは違った、いい意味でのナショナリテイがあるような気がしました。愛知県勤労会館大ホール。(2007/10/5 8:02)

ジャ・ジャン・クー『長江哀歌』
 長江(揚子江の愛称)に建設された三峡ダムによって、湖底に沈む2千年の歴史を持つ古都・奉節を舞台に最後の生活を営む人びとを描く。解体作業現場の出稼ぎ労働者のすさまじい労働と家族の再会と別れを中心に、中国近代化の光と影を鮮やかに浮かび上がらせる。ルポルタージュに近いドラマは、長回しのカメラと無機質の音声によって現実のシュールな映像が続く。率直に言って20数才の若い映画監督の作品とは思われない、人間の生に対する透徹したまなざしが感じられる。今まで観た中国映画の印象を一変させる。私が連想したのは、ガルシア・マルケスのラテン世界と「達磨はなぜ東にいったか」の東洋的な断念の世界との結合だ。現代化政策の中で翻弄される生活を深い思索で生きようとする新たな知性が誕生していることを予感させる。ベネチア映画祭グランプリ受賞もまた宜なるかな。名古屋・シネマテーク。観客20数名。(2007/9/29 15:22)
 追伸。監督の年齢は37才ぐらいではとの指摘がメールでありましたので、訂正させて頂きます。(2007/10/1)

劇団・民藝『明石原人』
 明石原人の骨格を発掘した直良信夫の生涯を描く。小卒の学歴しかないアマチュア考古学者とアカデミズムの相剋を中心に、戦時下における学問とアカデミズムの問題を追及する。直良自身がアカデミズムのシステムに包摂されて、初心を次第に汚していく過程に興味を抱いたが、その掘り下げは浅い。岩宿遺跡を発見した相沢忠洋との対話にこの演劇のクライマックスがあるが、その演出も緊迫感が醸成してこない。確かにテーマとしては、現代にも続いている抜き差しならない性質のものであるが、迫真性をもって伝わってこないのは、なにか現代と触れあうリアルなものがないところからもたらされる。滝沢修や宇野重吉時代の民藝はもはやない。日色ともえはおいて、伊藤孝雄に期待したのだが、どこか迫力に欠ける。どうも民藝は模索期にあるようだ。それはこのテーマ設定そのものに、時代的切迫感がないからではなかろうか。確かに天皇制史観からすると、旧石器時代の存在は認めてはならない歴史であり、その時代を生きた人間の存在が抹殺されるわけだが、演劇としては淡々と事実を描いて終わってしまい、深まっていないように思う。名古屋市民会館。会場に空席が目立つ。(2007/9/28 19:00)

リンダ・ハッテンドーフ『ミリキタニの猫』
 ミリキタニとは三力谷であり、ニューヨークの路上で暮らす広島出身の日系人画家の実在の人物です。第二次大戦で強制収容された日系アメリカ人であり、収容所や原爆そして猫のパステル画を描いて生活しています。家族と親族のほとんどは戦死し、生き別れた姉との奇跡的出会いを果たす。ブルックリンの場末から仰ぎみる貿易センタービルは、六本木の風景と同じだ。そそり立つ高層ビルの背後に裏さびれた街が息をひそめて暮らしている。ミリキタニは、9.11で崩壊していくビルを冷ややかに描写していく。こうした貧すると雖もプライドを持った画家が存在すること自体が、軽い驚きなのですが、そうした画家を支援する米国人がいることにも驚きました。ミリキタニの絵そのものは、絵画として評価に値するかどうか疑問ですが、ホームレスとなってこのような姿で生きている日系人の存在にアメリカの底知れぬ多様性を感じます。声高な戦争責任や反戦を歌い上げるのではなく、市井の片隅に生きる無名の画家に焦点を当てて、静かに訴えようとする監督の思想に共感するところがありました。米国現代史の裏に幾多の無辜の犠牲があることを訴えています。名古屋・シネマスコーレにて。平日の朝にかかわらず。意外と観客がいました。と言ってもわずか10名弱ですが。(2007/9/28 19:17)

河瀬直美『殯の森』
 久しぶりに映画館に足を運びました。油彩を描き始めてから絵に熱中し、映画館から足が遠のき、あれほどに映画をみていた自分を不思議に思うような感じでしたが、なにしろ作品が今年のカンヌ映画祭グランプリを得た映画ですので、これは見逃せないという思いでした。映画館は場末のミニシアターですが、私が着いた時にはすでに中高年女性が並んでおり、番号札が配られて館内は満席となりました。河瀬作品が日本の中高年の心情を強くとらえていると実感した次第です。「殯」という言葉を知らなかった私は、旺文社国語辞典で調べると載っていませんでしたが、広辞苑では「一説に喪あがりの意かという『あらき』に同じ」とあります。そこで「あらき」をひきますと、「荒城・殯」とあり、「貴人の本葬をする前に、棺にに死体を納めて仮に祀ること。またその場所」とあり、さすが広辞苑だとは思いました。パンフでは「敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと またその場所の意 語源に『喪あがり』 喪があける意か」と説明しています。同じパンフでは宗教学者の山折哲雄氏が「死者をすぐに土に埋めることはせず、村のはずれや山の麓、森の中などに一時的に放置して、抜け出た魂が戻って生き返ることを待ち、その可能性がないことが分かると、土に青梅足り焼いたりして、使者との別れに一定の猶予期間を設けた」と解説しており、この宗教民俗的な意味がある程度分かりました。それにしても山折氏の文章は、豊かな知と感性が展開する練達のもので、いつも感心させられます。
 さてこの作品は愛する者を喪った哀しみが昇華していく過程を描いています。グループホームで暮らす妻を喪った認知症の老人と、子どもを事故でなくした若い女性介護者の交流を通して、傷ついた魂が救済されていく物語です。河瀬作品は、市井に生きる庶民の内面生活を淡々と描写し、自然の中に包まれるように人間が回復していくストーリーです。現代人に痕跡として残されている縄文的な心情と言っていいかも知れません。アニミズムと溶け合うような、いわばアジア的心性が欧州で高く評価されること自体が驚きです。近代論理からの脱出をアジア的な心性世界に求めようとする傾向があるのでしょうか。わたし自身は、率直に言ってこの作品に没入することはありませんでした。それは私のイマジネーションの枯渇がもたらしたものでしょうか。私は河瀬作品に中島敦のようなスピリットを感じるのです。深い思索と意味があるようでよく分かりません。2度3度と繰り返して観ないと、批評は書けません。日常的に「死」を忘れて生きている人にとって、この作品は自分の物語ではないかも知れません。(2007/9/21 8:14)

エミール・クストリッツア『パパは出張中』(1985年)
 1950年代のチトー指導下のユーゴを舞台に、非情な社会システムの抑圧に翻弄される市井の市民の哀感が伝わってきます。当時のユーゴはソ連から自立した自主管理社会主義の道を歩み始め、国内ソ連派への弾圧が強化されていた時代です。日本公開時に見逃したのでヴィデオで観た次第です。主人公の少々女たらしの父親は、ちょっとした新聞記事へのコメントを密告されて、強制収容所に入り、家族は苦難の淵に沈みます。そうした波乱の生活を息子である少年の目を通して淡々と描きます。私はソ連と対峙するチトーユーゴに興味を抱いた時期もありましたが、内政的には秘密警察の支配するスターリン主義と変わりはなかったのです。旧社会主義システムが管理社会以外の何ものでもなかったことを改めて実感せざるを得ません。最後のほうで、「民主主義がやはりいいぞ」という主人公に、相手が「カネがなくて何の民主主義だ」との対話があり、老人ホームに入る祖父が「政治なんてくそくらえだ!」とつぶやくシーンがありますが、この2つの言葉に監督のヒューマンなメッセージが込められているのでしょう。
 しかしユーゴ人の日常的感性ははるかに伸びやかで、野外パーテイでは必ず老いも若きも合唱し、性の秘め事が伸び伸びと描かれていることは、日本と較べて驚きです。こうした市民の底にある民衆的心性を権力は管理することができなかったのです。少年に対する割礼の儀式が登場して驚きました。ひょっとしたらこの家族はユダヤ人なのでしょうか。或いはロシアから移住してきた医師が登場しますが、この人もユダヤ人なのでしょうか。その後の社会主義体制崩壊後にユーゴは分裂し、悲惨な民族内戦に陥りますが、そうした民族と国の悲劇的将来はこの作品では想定されていません。なんと苦難の生を刻んできた民族なのでしょう。ヴィデオ。最近油絵に熱中して映画館から遠ざかっていますが、ひさしぶりにヴィデオ作品を2つみてまた映画を観たいという気持ちが強くなりました。(2007/9/16 9:28)

ベルナルド・ベルトリッチ『革命前夜』(1964年 イタリア)
 『ラスト・エンペラー』で有名ですが、私はイタリア現代史を描いた『1900年』が印象に残っています。ブルジョア家庭に育った若者が、左翼思想の洗礼を受けつつ徹しきれず、叔母との近親相姦に近い恋愛を清算して、自らの出自であるブルジョア生活に回帰する過程を描いた自伝的な2作目の作品です。関心は映像描写のオリジナリテイに集まっていますが、むしろ私は戦後イタリアの社会状況と良心派ブルジョア青年の彷徨を面白く感じました。この作品は1964年ということですから、ベトナム戦争を中心とした世界的反戦・反帝国主義運動が隆盛を極めていた時期でしょう。イタリア共産党への入党や共産党の祭りなどのシーンが肯定的に描かれ、当時のイタリアを彷彿とさせます。1960年代はひとびとがピュアーに模索したほんとうにまじめな時代でしたね。隔世の感があります。ヴィデオ。(2007/9/16 9:00)

佐々部清『夕凪の街 桜の国』
 こうの史代の原作漫画を読んだ時には、被爆という重いテーマを淡い抒情の「美しさ」にくるんで描き、かえって内面からジワーと込み上げてくるような反核のメッセージとなっています。フランス旅行中にお世話になったフランス在住の平和活動家・美帆シボさんに、この漫画を贈ってぜひフランス語に訳したらどうかと提案したことを想い起こします。映画は原作の基調をそのまま忠実に踏襲しようとしていますが、やはり原作の淡い抒情性には迫り得ていません。しかしこの野蛮な競争原理の時代にあって、こうした映画を製作する監督の志と資金を提供したひとにこころから敬意を表したいと思います。テーマは、被爆の実相と犠牲、世代間被爆をめぐる社会的葛藤というとても重いものですが、なぜかシリアスな被虐に流れない希望を伝えるものです。おそらく、加害や核をめぐる現代情況に触れていないという批判があると思いますが、徹底して庶民の視線からとらえる描き方は、かえってその問題性を静かに沈潜させる効果を持つに違いありません。市井の片隅にあって精一杯生きている人びとへの、おそらくはオマージュとなるでしょう。観客は私を含めて3名。シネマズ名古屋109にて。(2007/9/3 16:30)

マイケル・ムーア『シッコ』
 ウーン実に1ヶ月も映画を観なかったことになるのか! こんなことが私に起こるなんて前は想像もできなかった。油絵に熱中して映画館は遠のいてしまった。あの薄暗い映画館でジッと2時間ほどを過ごすスタイルもなにか敬遠する気分でした。気になる映画は結構あったのですが、それもほとんど見逃してしまった。8月も終わりに近づいて、やっと重い腰を上げて映画を観たのがこの作品です。予想に違わず、ムーアらしい切れ味のよいテンポでドキュメンタリーが展開します。「シッコ」とは、日本では「ほとんどビョーキ」という表現のビョーキにあたるスラングですが、病める米国の代名詞です。
 先進国で唯一政府経営の国民保険制度がなく、すべてを民間保険に頼らざるを得ないアメリカの医療制度の貧困がまざまざと描写されます。対比して、カナダ、イギリス、フランス、キューバの医療制度が紹介され、米国との対比を鮮やかに浮かび上がらせます。欧州型の医療保険の高負担の問題は描かれていませんが、それにしても米国型の酷さが浮き彫りとなります。医療費を払えない病院が、重症患者を病室から連れ出して街頭に置き去りにするアメリカ・モデルはもはや人間の住む国ではないと実感します。9.11のボランテイア的救援者たちが、政府の支援もなく病に苦しんでいる姿は、米国型英雄主義の虚栄をこれでもかとばかりに描きます。圧巻は彼らがキューバを訪問し、キューバの病院で診察と治療を受けるシーンです。ムーアらしい演出の最たるものです。
 しかしムーアのこの行動で、米国でのこの映画の上映は禁止処分になったらしいですが、米国民主主義の浅薄さを示しています。しきりに米国モデルを後追いする日本の未来を暗示しているかのようです。しかしなぜこのようなドキュメンタリーを米国ではつくれて、なおかつ世界配給できるのでしょうか。日本でもこうしたドキュメンタリーはありますが、どうもイメージ的に暗く、ムーア的なアッケラカンとした健康さがありません。この映画をきっかけにまた映画館に足を運ぶことになるでしょう。109シネマズ名古屋にて。観客10名弱。(2007/8/29 16:53)

ピーター・ウイントニック、マック・アクバー『チョムスキーとメデイア』
 普遍文法理論で20世紀の言語学に衝撃を与えた言語学者の社会活動を描く。微積や集合を駆使する彼の言語学には驚嘆した。彼はアメリカン・デモクラシーが実はマスメデイアによって人為的につくりだされた世論行動であることを赤裸々に暴露していく。アメリカ民主主義の二大政党制では回路を失ったマイノリテイーや少数民族の社会参加が危機にあることを訴え、二大政党制の限界を痛烈に告発する。チョムスキーが在米正当ユダヤ派出身であり、成長期にユダヤ系社会運動の洗礼を受けていたことを初めて知った。彼の思想的基盤が、アナーキーなアナルコ・サンデイカリズムにあり自由で分散的な共同体主義に展望を見いだそうとしながら、じつはリバタリアニズム社会主義(!)にあることを自ら語っている。それはフランスのホロコーストを否定する歴史修正主義者の表現の自由を擁護する彼の戯画的な行動に象徴されている。アメリカ国家と国家権力論が欠落している彼の変革論のユートピア性もうかび上がる。しかし米国には私たちが知らない多様なマイノリテイ表現運動やオルタナテブ表現運動があることも分かった。多様で自立分散的なアメリカの社会運動のなかで、チョムスキー自身がどのような位置を占めているのか、チョムスキーのような人が獅子奮迅の社会運動に没頭しなければならない弱さといったことを考えさせられた。アメリカという国をどう処理したらいいのか、一筋縄にはいかないなーと強く感じさせられた。長編のドキュメンタリーの編集は鮮やかで、上映時間は3時間という力作である。平日にもかかわらず、意外と多くの観客がいた。名古屋・名演小劇場にて。(2007/7/26 16:33)

青年劇場『銃口 教師・北森竜太の青春』
 三浦綾子原作の北海道生活綴り方運動への弾圧の渦中を生き抜く教師たちを描いて、反ファッシズムを静かに訴える。簡潔で分かりやすいシナリオは、かってのリアリズム演劇の伝統を確かに受け継いでいるが、会場には若者の姿は少ない。小市民生活を屈折した演出や、お笑い風に描く演劇が流行っているなかで、この劇団の志は高く評価したい。治安維持法で逮捕された主人公の教師が、夢を抱いて満州へ渡ろうとするのを肯定的に描くシナリオは三浦の限界だ。しかし一方では弾圧される在日朝鮮人と日本人良心派の交流もあり、全体として今日的テーマの源流を探ろうとしている。敗戦後に一端は教師の途を断念した主人公が、再び教職へ復帰していく過程はやや描写不足だ。劇団は韓国公演を20数回行ったというが、この演劇をほんとうに韓国人の人たちは共感を持って観たのだろうか少々疑問だ。中京大学文化会館にて(命名権販売でこのような名称を冠せられて、名古屋文化の未来は暗い)。(2007/7/12 22:15)

オリバー・ストーン『コマンダンテ』
 キューバ革命の英雄であり、80歳になるフィデル・カストロとの30時間に及ぶロング・インタビュー映画である。革命後の経済封鎖とCIAによる反革命を克服して生きる老革命家の実像に接し得た感じだ。カストロは青年革命家がそのまま老成したピュアーさを感じる。生活と佇まいは質素であり、キューバ全体がそのような感じだ。BHN生活がごく自然に実現されているように見える。米国の裏庭でなぜこのような国家が存続し得ているのか、その奇跡に近い現代史は依然として未解明ではないか。その一つの答えを私はみた。色んな場でおこなわれるインタビューの最中に、時たま映し出される壁に掛けられた絵に注目した。或いは絵画展のなかでのインタビューもあった。多くの絵は印象派またはシュールな感じの絵であり、革命と指導者を賛美する絵(社会主義リアリズム?)は皆無であった。街の市民のファッションも開放的なラテン感覚が横溢していた。わたし流の勝手な解釈では、カストロ革命は中南米ラテン文化と風俗のうえに、正義の情熱がくっついたものであり、しかもソ連や中国に盲従しないプライドがあるということだ。
 中南米ラテン系にとっての「コマンダンテ(司令官)」という言葉のイメージは、相当に重々しく権威的だ。かってラテン系の音楽グループの公演を聞いた時に、「コマンダンテ」という曲を直立不動で歌っていた。この辺りに漂う前近代的な権威主義の雰囲気は克服すべき対象ではある。それはカストロがもっとも気づいているところだろう。名古屋・シネマテークにて。雨にもかかわらず観客8名ほどで意外と多い。(2007/7/10 17:21)

演劇『元禄芭蕉絵巻−虚か実か、夢は鳴海を駆けめぐる』
 名古屋市緑区の第2回区文化祭企画の一環。友人が事務局長をやっているので観にいった。現代のミステリー・ツアーと元禄期の芭蕉を交錯させながら、俳人芭蕉の真相に迫る。喜劇タッチの早い場面転換で劇画風に見せるので面白い。地元のセミプロの俳優を中心に、さまざまのジャンルの人が出る総合劇であった。地域の文化遺産の発掘という視点では成功していますが、隠密芭蕉の真相は少しくどかった。芸術と権力の対抗という視点をもっとほりさげたらどうか。緑区の市民文化活動は活発であり、他区の参考に値する。文化小劇場の駐車場も広い。(2007/7/8 8:51)

テオ・アンゲロプロス『こうのとり、たちずさんで』
 イタリアの代表的映画俳優であるマルチェロ・マストロヤンニ没後10周年を記念する回顧上映特集の第1作。1992年製作だから私も10数年前にみたことになります。マストロヤンニよりも私はアンゲロプロス作品に惹かれて映画館にいったのです。このギリシャ人の祖国の激動の現代史をバックに描く映画はどれも感銘深く、考え込まされるものがありました。とくに『シテール島への脱出』はいまでも忘れ得ぬ、私にとっては永遠の一作です。革命運動で獄中にあった人物が釈放されて帰還した故郷では、解放された小作地をめぐる民衆の醜い争いがありました。この醜悪な争闘を目にして主人公の夫婦は絶望して海の彼方へと船をこぎ出します。この映画はおそらくどこの国でもある変革運動に参加した体験の持ち主は、我が身に惹きつけて感慨深いものがあるでしょう。
 さて10数年を経てみた『こうのとり、たちずさんで』を観て驚いたことは、そのストーリーのほとんどが記憶にないことでした。わずかに蘇ったのは、河を隔てて挙式される逃亡した人と祖国に残った者の交流の象徴としての沈黙の結婚式でした。冷戦崩壊後のナショナルな民族間闘争と米帝国の侵略を契機とする大量の難民の発生は、改めてこの作品の意義が浮上していることを痛感させられました。90年代に較べて民族問題ははるかに複雑化していますが、この映画の基底に流れる希望は依然として重い意味を持っていると思います。クレーンで空に宙づりとなっている首吊り処刑の姿は驚愕でした。いま繰り広げられている自爆テロは、メデイアでは数でしかありませんが、自分の身体に爆薬を帯びて冷静に敵に進む自爆犯のほんとうの心情を描いた作品はありません。
 いまアンゲロプロスはどうしているのでしょうか。存命なのかどうかさえ私は知りません。願わくば、このような真正面から変革の歴史の真相に迫ろうとする日本の監督が出てくることを希求するものです。名古屋・名演小劇場にて。窓口で「あなたはシニアですね?」と先に云われたのは初めてで少しショックだった。観客6名。(2007/7/6 16:48)

7ヵ国オムニバス映画『それでも生きる子どもたちへ』
 地球上の子どもたちが生きるべく定められた苛酷な忘れられた子どもたち(インヴィジブルチルドレン)の世界を7つの国の監督たちがオムニバスとして描く。
 メデイ・カレフ(ルワンダ)『タンザTANZA』は、ルワンダ内戦の渦中を生きる子ども兵の姿を描く。深夜に爆弾を仕掛けにいった教室の中で、黒板をみながら微笑む少年兵の顔は痛々しい。エミール・クストリッツア(セルビア・モンテネグロ)『ブルー・ジプシー』は、日本でもそうだが刑務所生活のある種の「自由」のなかでしか生きられない人びとの存在論を描く。「おりこう」という社会規範から逸脱せざるを得ない人びとをつくりだしたのは何か、誰かを痛烈に告発する。スパイク・リー(アメリカ)『アメリカのイエスの子ら』は、イラク黒人帰還兵家族が麻薬のなかでHIV患者となり、その追いつめられた娘が尊厳を回復していく過程を描く。しかし私は監督とは異なって米国に希望はなく、絶望が待っていると感じざるを得なかった。この娘役の演技は素晴らしい。カテイア・ルンド(ブラジル)『ビルーとジョアン』は、サンパウロのスラム街を廃品回収をして生き抜く兄妹を描く。そそり立つ高層ビル群とスラム街の非対称性は、ブラジルの人々を象徴している。ジョーダン・スコット、リドリー・スコット(イギリス)『ジョナサン』は、ニヒルになってしまった戦場写真家が子どもたちとの幻想的な触れ合いを通して自らを恢復する詩的な映像が瑞々しい。ステファノ・ヴィネルルッソ(イタリア)『チロ』は、ナポリの最下層を生きる窃盗団の子どもを描く。悲惨な実態をみすぎた子どもたちへの痛切な共感が漂う。ジョン・ウー(中国)『桑桑ソンソンと小猫シャオマオ』は、開発経済下の中国の子どもたちの置かれた実態を鋭く描く。捨て子と億万長者の子どもを対比させながら、最後は調和的な希望に終わるのがもったいない。突き放して冷酷無残に描くべきであった。中国市場社会主義の「社会主義」に対する痛烈な問題提起がある。
 世界の子どもたちの影の部分を描いているように見えるが、実はここには現代の子どもたちのすべてが描かれている。原始的貧困から現代的貧困にいたる絶望的状況に子どもたちはいる。安易な同情は犯罪だ。子どもたちにこうした生活を提供している大人たちは(私を含めた)、地球を運営する資格をすでに失っている。そうして新たな運営者の現実的なイメージと可能性が見えないところにほんとうの問題がある。
 グッチが売上の20%を国連に寄付し、アルマーニ、GAP、コンバースが世界基金に寄付し、アンジェリーナ・ジョリーが親善大使を努め、U2のボノが新ブランドを立ち上げても、それは極限の苛酷を生きる子どもたちからみれば、これほどの偽善はあろうか。名古屋・伏見ミリオン座にて。観客20数名、意外と多い。(2007/6/26 17:29)

ローランド・スゾ・リヒター『ドレスデン 運命の日』
 最近のドイツ映画は次々と第2次大戦または冷戦期の真実を追究する本格的なテーマのドラマが多い。しかもかなりメジャーで世界配給される。それに比して日本の矮小なテーマの貧しさは目を覆わしめる。この映画は日本でいうと、井上光晴『TOMMROW 明日』とそっくりの設定である。さまざまの市民生活が繰りひろげられた最後に、大空襲(原爆投下)ですべてが終わるという設定だ。『明日』は市民の日常生活を淡々と描き、一気に原爆投下で登場した人物が灰燼に帰し、観客に無限の哀しみと想像力を喚起するが、『ドレスデン』は落下傘降下した英兵と恋に落ちるドイツ娘、ナチ高官と娘の父の病院長の陰湿な闇取引、医師の婚約者などかなりドラマテックなストリーが展開して最後の大空襲に到る。
 この映画の特筆すべき点は、ユダヤ人迫害を含めてドイツ人の恥部を描き、決してドレスデン大空襲を連合国への怨念の記憶にしていない点にある。しかもドレスデン大空襲が、押しよせるソ連軍に対する米英の優位性を誇示する意図があり、戦後世界の主導権をめぐる作戦であったことは広島・長崎への原爆投下と本質的の同じであったことを示している点である。
 戦後ドイツ映画はさまざまの第2次大戦前後の映画をつくってきたが、日本の映画と違うのは、責任を認め2度と戦争はしないという国民的合意が定着していることにある。日本映画が、相も変わらず広島・長崎・空襲・沖縄の被害体験を描くか、特攻・大和・硫黄島などの殉死の美学を描くという両極に別れ、東アジアへの加害をきちんと位置づけれないという被歴史的現代を歩んでいることを克服し得ていないことがほんとうによく分かる。名古屋名演小劇場。平日にもかかわらず中高年中心に10数名。(2007/6/12 16:38)

Bruno Dumont ブリュノ・デユモン『FLANDRES フランドル』
 06年のカンヌ映画祭審査員グランプリ受賞作品。ストーリーがもしなければ、フランドルの風景絵画がそのままスクリーンに映し出されているような幻想的な描写が広がる。しかし物語は陰惨を極めたニヒリズムが漂う。フランスの農村部の若者たちの希望なき倦怠のはてに、しだいに堕ちていく性と暴力が交錯する。フランスなのですが、あたかもイラクの最前線で無意味な戦闘を戦う米軍兵士と重なる。フランドル風景画のような光と陰影に富んだ色とBGMを一切使わない自然音の抑えた演出で内面を浮き彫りにしようとする。こうした台詞に支えられない映像と表情はアジア人にはそうぞうできない部分がある。どのよう想像しても内面の心象に結実しないのだ。だから最後のかすかな希望のシーンもそれほどには感動を呼ばない。人間の実存的な相貌と内面に迫るぬこうとする、さすがフランス映画の奔流を行くかのようだ。薄っぺらの思潮の日本では評価が両極に分解するだろう。日本ではつくろうとしても絶対につくれない映画だし、こうした感性を持つ監督自身がいない。名古屋・シネマテークにて。観客10数名。こんなウイークデイの日にこのようなマイナーな映画を見に来る人も意外といるもんだ。(20076/5 17:25)

Gavin Hood『Tsotsiツオツイ』
 南アフリカをテーマとする映画は、アパルトヘイトを描いた作品から久しぶりだ。この映画はアパルトヘイト廃止以降の南ア共和国の実相をうかがわせる。政治的な制度差別は撤廃されて黒人政権が樹立されはしたが、経済と生活の実体的な差別は市場原理主義のもとでより陰惨に拡大しているように見える。白人の経済的優位にゆるぎはなく、より悲惨なことは黒人の階層格差が深化していることだ。一方では積み重なった土管のなかで夜露をしのぐストリートチルドレンがいれば、他方では有利鉄線で囲まれた富裕黒人が君臨している。制度的朝別の撤廃の後に実質的な公正と平等をどのように実現していくのか、こうした課題が突きつけられている。
 エイズに罹患した母親から切り捨てられ、父親の暴力を逃れてストリート・チルドレンに転落した少年たちが、刹那的な強盗と殺人を繰り返してその日の糧を稼ぐ生活が描かれる。そうした少年たちが地獄の連鎖から抜け出していく途はあるかーこれがこの映画のテーマだ。生命の原初形態である赤ん坊を育てることを通して、自己の尊厳を回復していく過程を描く。警察に包囲された少年が、両手を挙げて降伏するシーンはまさにその尊厳を象徴している。監督は逃亡と殺害、降伏の3つのシーンを用意したらしいが、私は殺害が降伏が正解であったと思う。こうした映画をみると、先進国といわれる国に生きている生活の虚栄といかがわしさを射抜かれる思いがする。名古屋・名演小劇場。観客10人弱。封切り初日にしては少ない。(2007/5/26 19:43)

テアトル・エコー『ルーム・サービス』
 高質のコメデイーを専門とする老舗劇団で久しぶりに見た。かなり前に見た時には、会場は爆笑の連続だった記憶があるが、今回は会場の笑いは少ない。2幕目を過ぎてからくつろいだ笑いが湧いた。米国のしがない劇団が一発成功を当て込んで必死に上演までこぎ着けるユーモアあふれたシナリオと演技に素直な反応がなくなったのは、いうまでもなく現在の日本から前進的な希望が失われて疲れ切っているからだ。こうしたコメデイの現実生活の落差を越える鮮やかな演出をしないと、こうした劇団の運営は厳しくなるだろう。シリアスなテーマが笑いの裏に隠され、涙と爆笑が共存するようなより高質のコメデイが求められている。熊倉一雄は80歳を超えて健在であった。名古屋市民会館中ホール。(2007/5/24 8:10)

井筒和幸『パッチギ!LOVE&PEACE』
 第1作を観てすごい!と思っていたので相当に期待してみたのですが、残念ながら詰め込みすぎという感じでした。第1作の暴力シーンは圧倒的な力感がありましたが、第2作の乱闘場面はつくっているような感じで鋭さが不足しています。きわどい言葉が飛び交いますが、例えば「国土館大学」などは「国士舘」からみればたとえ事実がそうであったとしても名誉毀損でしょう。70年代の国鉄スト権ストの電車に「全動労」とあり、多分「動労」の比喩なのでしょうが、「全動労」というJR組合は現実にあるのですから、監督の勉強不足が目立ちます。
 在日朝鮮人の歴史に無限の共感を持てば持つほどに、彼らの世界を日本人の視点で描くことの難しさを感じます。井筒和幸監督が日本人としての話ですが。というのはこうした在日朝鮮人世界を無条件に肯定し、日本右翼を揶揄する日本映画は在日を支援しているように見えて、どこかで逆の意味を持ってくるような気がするのです。もちろん井筒監督は一途に現代日本のナショナリズムを批判するメッセージを発する気持ちであるのでしょうが、私はこのようなストレートな描き方に一抹の違和感があるのです。しかしこれほどに在日の世界を描き抜いた日本映画は初めてでしょう。井筒監督には、もっと豊かな資金さえ許せば、5時間か10時間の長編劇映画をつくってもらいたいものです。名古屋・伏見ミリオン座。封切り一日目の初回上映としてはそれほど観客の入りはよくない。第2作はかなりのCM料を投下しているようにみえたが、こうした作品は日本では限界があるのだろうか。(2007/5/19 16:03)

アレクサンドル・ソクーロフ『ロストロポーヴィッチ 人生の祭典』
 つい先日逝去した世界的チェリストとその妻であるソプラノ歌手の晩年の実写と回想録です。ソ連型社会主義が芸術の自由と本質的に相容れない存在であったことをこの映画は示している。ロストロポーヴィッチは作家のソルジェニツインをかばって自分自身が反体制芸術家として位置づけられていくが、同時に祖国ロシアに対する即時的な愛情は強い。ソルジェニツインの反体制性が、じつは帝政ロシアへの憧憬を含む反動的なナショナリズムにあったことが次第に明らかになってきていると同じように、ソ連崩壊後のロストロポーヴィッチが金婚式の晩餐会に世界の王侯貴族と支配者を招待して、子どものようにじゃれているのはいかにも惨めだ。日本の小澤征爾もウイーン・フィル指揮者として登場している。
 いずれにしろ芸術と権力の関係、芸術の自律性を全人生を通して生きた希有の音楽家の「あまり見たくない」晩年が写されている。名古屋・シネマテークにて。平日にもかかわらず中高年で盛会であった。同僚に会う。(2007/5/15 16:51)

NHK・ハイヴィジョン特集『忘れないで』
 ふとチャンネルを回していたら、この作品が放映されていた。少し関心があったのでみていたら、なかなかの秀作でした。瀬戸内海に浮かぶ大島にあるハンセン病療養所を淡々と描いている。延べ2000人が収容され、現在も140人の元患者たちが生活している。療養所職員の3人の子どもたちと元患者たちの静かな交流を描く。大西笑子さん(71)は中絶の体験を子どもたちに伝える。産むことを禁止されていた時に、妊娠して恥ずかしかったことや中絶してホッとしたという痛ましい言葉は、そのまま日本のハンセン病政策への静かな告発になっている。子どもたちは戸惑いながらも、真剣に元患者たちの体験と気持ちを受け入れ、自分たちの心に刻んでいこうとする。子どもたちは外からの訪問者を施設に案内して説明する「案内人」となって活動している。しかしこの島の小学校は休校となり、子どもたちは島を出て行くことになる。
 この作品は地獄を強制された者たちの姿を淡々と描写するが、シナリオと作為がないために、ある意味で恐ろしいほどの真実が浮き彫りとなる。それはカメラの権威的な暴力性のもっともヒューマンな姿であるかもしれない。今でも敢えて籍を抜いて自分の家族の安心をはかる元患者がおり、引き取り手のない遺骨が並ぶ納骨堂は荘厳であればあるほど、見捨てられた者の哀しみを伝えている。施設を案内する子どもの説明を、ジッとうなだれて聴く大西さんの全身には、何十年の収容余生活の辛酸が凝縮されている。
 私は子どもたちを見て、ほんとうの「教育」がここにあるように思った。この子どもたちは、これから決して人を攻撃したり、騙したり、裏切ったりすることはないだろう。子どもたちは弱者を助け、甘えずに生き、自分自身の手で未来を切り開いていこうとするだろう。TVカメラを意識して戸惑う彼らの表情をみながら、私ははっきりとそのように確信した。こうした教育があれば、全国学力テストなど意味はない、子どもたちは自分自身で勉強をはじめ、真実に接近しようとするだろう。私たちは最もミゼラブルな姿の者を眼前にして、かえって日本と自分自身の汚れと歪みを映し出されて慄然とする。NHKのスタッフには、まだまだ素晴らしい良心の持ち主たちが残っていると知った。(2007/5/7 7:31)

Radu Mihaileanuラデユ・ミヘイレアニュ『Va,vis et deviens行け、生きよ、生まれ変われ(邦題『約束の旅路』)』(2005年 フランス)
 昨日はパレスチナの自爆攻撃について考え、今日はユダヤ人のアイデンテイテイについて考えるという、とてもシビアーな日となりました。とにかく映画でイスラエルの街の風景や市民生活、キブツについての描写ははじめてみました。少なくともテルアビブの家庭や学校の生活は欧州とほとんど変わらないな−という印象を持ちましたが、キブツの広大な農園はパレスチナ人を追放してつくられたのだろうと脳裏には浮かんできました。ホロコーストを生きのびたユダヤ人の最後の生存地としてのイスラエルは、同時にパレスチナ・アラブ人の生まれ育った大地でもあるという−この人為的につくられた現代の二重性を生きざるを得ないのがいまのパレスチナであると思っていたら、じつはそれは大間違いで私の知識の浅薄さをさらけだしてしまうことになりました。
 イスラエルへのエクソダスをめざした人びとのなかには、多くの偽装ユダヤ人たちがいたのです。ロシアの迫害を逃れた人びとや、アラブの偽装ユダヤ人、そしてこの映画の主人公たる黒人系の偽装ユダヤ人です。私はこれらの歴史についてまったく知りませんでした。そうして深く感得したのです。欧州では、複数の国籍や民族・宗教をもって生きざるを得ない人たちがたくさんいることを。彼らは自分のアイデンテイテイの根拠をどこに置くのか、非情に複雑な意識を生きざるを得ないことを。とくにイスラエルというユダヤ人国家との関連で生きざるを得ない人たちにとっては。この監督自身が、ルーマニア・フランス・イスラエルの3つのパスポートを持っているのですから。
 私はこの映画でイスラエル国家の複雑な内部問題を垣間見ることもできました。あれほどの差別を体験した民族が、自分自身の民族内部に重層的な差別構造をつくりだしていることを。頂点に君臨するドイツ系ユダヤ人(アシュケナージ)−ポーランド系ユダヤ人−ルーマニア系ユダヤ人−アラブ系ユダヤ人−黒人系ユダヤ人、そして改革派教会系ユダヤ人と保守派系ユダヤ人は正統派教会系ユダヤ人に迫害されている。左翼もいれば人種的偏見の持ち主もいれば、右翼もいる。
 さらに私は1984年のモーセ作戦、1991年のソロモン作戦についてまったく無知だった。それはアフリカ難民を救済するという大義の下で展開された、エチオピア系ユダヤ人(ファリーシャ)のイスラエル輸送作戦を云う。この作戦は米軍との共同作戦だった。この作戦の本質的意味は何だったのか、私はこれから解明しなくてはならない。
 鮮烈な印象を残したシーンが2つある。黒人系偽装ユダヤ人の主人公と、生粋のドイツ系アシュケナージの2人の高校生が戦わせるデイべートで、そのテーマは「アダムの肌はなに色だったか?」である。アシュケナージは当然に「神はアダムを白人として創造した」と主張するが、主人公は「アダムの語源は大地であり、大地の色は赤だ、アダムの肌は黒でもなく白でもなく赤だ」とい主張する。もう一つは最後に生みの母と再会した時に、母親の「ウオー・・・」という絞り出すような叫び声だ。地獄を見た者が最後に希望にたどりついた時に発するのは、こうした言葉にならぬ吠えるような声になるのだ。全世界の映画をつくる人よ! これからどうしても必要なのは『パラダイス・ナウ』と『約束の旅路』を統合したような映画ではないだろうか。なぜならばアフリカの黒人たちが救われるのは、つねに奇跡的な欧州への脱出という希有の機会を手に入れた黒人のみなのだ。アフリカの実相を描いたアフリカ人の映画はない、アフリカ大陸の悲劇はすべて良心派の欧州人が描いてきた。そして黒人の救いは現地に留まることにはなく、いつも白人文明への参入で実現してきたのだ。これほどアフリカ黒人を侮辱していることはないからだ。名古屋・名演小劇場にて。観客10名弱。(2007/5/1 19:25)
 付記)エチオピア系ユダヤ人は歴史的に存在せず、シオニズムが創りだした架空のものであるという意見があることを最近知りました。ここではその歴史的信憑性が何処にあるのかを明らかにすることはできません。そのような留保のうえでこの文章をお読み下さい。(2007/7/9 8:35)

Hany Abu-Assad『Paradise now』(仏・独・蘭・パレスチナ 2005年 オリジナル言語:アラビア語)
 これはもはや映画ではなく、パレスチナの絶叫である。ヨルダン川西岸地区ナブルス・・・人間の尊厳を奪われて侮蔑の対象でしかないパレスチナの自爆攻撃に参加する2人の若者のピュアーな心情が浮き彫りとなる。自爆の決意を撮影するヴィデオ撮影シーンで、テロ集団の指導者はパンをムシャムシャ食べている。撮影シーンはあたかも繰り返された所作のように、撮影機の故障をくぐり抜けて淡々と進行する。ニヒルな表情の指導者が崇高な行為を讃えるセレモニーをおこなうが、その表情にはシニカルな絶望が浮かんでいる。自爆攻撃者を祝福するかのようなテーブルは「最後の晩餐」を想い起こさせる。自爆攻撃の宣誓ヴィデオは街のヴィデオ屋で販売されているのである。自爆攻撃をイスラエルへ道案内するのは、大金で買われたイスラエル人だ(!)。自爆志願者の若者の1人は、父親が密告者として同胞から処刑された傷を負うている。
 この世の悲惨を一身に浴びたホロコーストのユダヤ人が、いまや他民族を汚辱の淵に叩きのめして恥じない所業に及んでいる。対峙するパレスチナの尊厳はみずからの怒りの凝集点としての自爆攻撃に自らを捧げる。そこにイスラム教の殉教の気高さに包まれたパラダイスが約束されていると本当に信じているのだろうか。パレスチナ社会も階級に分裂し、上流階級は暴力を否定したモラル闘争でイスラエルに対抗しようと主張するが、やっぱりこれは嘘うそしいのだ。
 この映画に何らかの批評を加える資格を持っている人は、この日本でどのような抵抗を試みているかが問われるだろう。実に残念なのは、アサド監督が足立正生という日本人監督と対談をしていることだ。この日本人は国内での地を這うような抵抗の辛酸をせせら笑って、パレスチナの抵抗を劇画風に描いて、イスラエル以上の犯罪的な結果を日本にもたらしては自己満足している。しかしパレスチナ人にとっての日本連合赤軍は英雄的な救世主のイメージがあるのは驚いた。
 はるか昔にアルジェリア独立運動を描いた『アルジェのたたかい』という映画があった。抵抗運動のメンバーが市民が集まる市場にある自転車の籠に、時限爆弾をセットしていくシーンは、なにか晴れやかで希望のあるようなタッチで写されていた。あの時代の日本は、自爆攻撃はなにか希望を秘めた共感でもって受けとめられていた。この映画は自爆攻撃の背後にある人間の尊厳の叫びを緊迫感をもって伝えている。禍害も被害もともに未来を失う絶望として描いているかのように見えるが、しかしそうではない。自爆攻撃はすべてを奪われたものの最後の抵抗権の行使として肯定的に評価されている。自爆攻撃を野蛮と否定しさることは、とくに議会制民主主義の国々では自然に受容されようが、占領や戦争下にあるところでの代替を反措定できなければ無意味だろう。
 パレスチナの打ちひしがれた絶望と奪われた尊厳の地底から、うっすらとひかりが立ちのぼってくることはない。将来にわたっておそらくこの地域は、言い尽くせない絶望のまなざしと相克を刻んでいくだろう。イスラエルは、アラブの生命を根絶やしにするために、精液をダメにする薬を開発して水道に流したそうだ。自爆テロ犯を載せたアラブのタクシー運転手は、イスラエルの野蛮な行為を嘲笑いながら、「俺には全然効かなかった!俺には5人も子どもがいる!」と吐いた。おそらくこの運転手はお客が自爆攻撃犯だということを見抜いていたに違いない。アサド監督は、日本上映に際して「自爆テロ」ではなく「自爆攻撃」という言葉を使って欲しいと行っているそうです。驚いたのは撮影クルーのドイツ人5人は、ドイツの受刑者で独政府の職業訓練プログラムで釈放の条件となっていたということです。さらにこの映画はパレスチナ抵抗組織の事前のシナリオ点検と同行の上で撮影されたものでありながら、単なるプロパガンダ映画に終わっていないことであり、監督がイスラエル市民とイスラエル軍事指導者を歴然と区別していることです。
 非正規労働に打ちのめされている日本の若者たちと、尊厳を奪われて侮辱の唾を吐きかけられているパレスチナの若者たちは、その敵を共有していることが相互の認識になれば世界は変わるだろう。この映画をみてパレスチナの絶望と未来を考えるとすれば、私たち自身が立っているこの日本の現場でパレスチナ問題を発見することの外にはない。名古屋・シネマテークにて。観客10数名。(2007/4/30 18:57)

顧長衛 クー・チャンウエイ Gu Changwei『孔雀 我が家の風景』
 久しぶりの中国長編劇映画です。1977年の文化大革命終結からはじまるある小都市に生きる家族の3世代を描く。文革などの政治的テーマはいっさい登場しない。中国の歴史的激動とはほとんど関係ないかのように、、ただ淡々と家族に起きていく波風を描く。親は親の願いを、子どもたちはそれぞれ自分の希望を、哀しいまでの希望をいだきつつ、ごく普通のありきたりの人生を刻んでいく。家族の日常的な喜怒哀楽を丁寧に描くという点では小津安二郎のタッチに、少しはドラマのある波風を描くには小栗康平のタッチを思い浮かべる。私はこのような家族物語の哀愁をただ単に素朴に描き、そこに漂うペーソスのようなものに傾倒する感性が中国に育っていることに少々驚いた。市場社会主義の激烈な競争を生き抜く人間のイメージばかりが伝わってくる現代中国の背後に、こうした家族共同体への郷愁がひっそりとあることに私は共感する。顧長衛監督の処女作ということですが、撮影監督としての作品をみると驚嘆する。『紅いコーリャン』『菊豆』『人生は琴の弦のように』『さらば我が愛/覇王別姫』『太陽の少年』『鬼が来た』・・・・・などなど! (蛇足−中国の保育園で園児が同じ時間に並んで一斉に排便している風景には驚いた)。名古屋・シネマテークにて。観客8人程度。(2007/4/24 16:29)

エドワード・ズウイック『ブラッド・ダイヤモンド
 アフリカのレア・メタルやダイヤをめぐる内戦と虐殺を描きこんだエンタテイメント映画(?)です。息もつかせぬストーリー展開と演出はさすがにハリウッド映画である。狂気に到る少年兵の実相もよく描かれている。がしかし、なにかほんとうの感動はないのです。なぜでしょうか。最近ハリウッドはなぜアフリカ内戦をテーマとする映画ばかり撮るのでしょうか。比較的にアメリカが手を汚していない地域で、しかももっとも血なまぐさい悲劇的なドラマがくり広げられているアフリカ大陸は、ハリウッド(アメリカ?)が自らの良心の痛みをそれほど覚えることなく、縦横無尽のストーリー展開が期待できる地域だからです。
 この映画はなぜアフリカで血なまぐさい内戦と虐殺がくり広げられているのか、その奥底にある背景をほんとうに描くことはありません。あたかも部族間闘争は未開黒人人種の野蛮性の表現だと思わされます。少数の良心派黒人は白人に味方して、アフリカを脱出し、先進国の首都でさっそうと背広姿で登場するように描かれます。従って、一見すると汚い白人のアフリカ搾取と黒人内部の自己矛盾を描いて観衆の感涙を呼ぶ効果を持ちますが、良心派黒人が祖国を捨てて先進国文明に仲間入りして終わる物語は、永遠にアフリカ大陸の未来への希望は生まれないのです。こうした白人の良心を自己満足させるハリウッドの最高の偽善が、最高のシナリオと演出、最高の俳優を得てこの映画はつくられています。アフリカはアフリカ人自身によって描かれねばなりません。シネマズ名古屋にて。日曜日にもかかわらず観客10数人。シリアスなテーマは日本では敬遠されるのか。デイカプリオも選択を誤ったか・・・。(2007/4/15 17:00)

デヴィッド・フランケル『プラダをきた悪魔』
 ファッション雑誌社に就職した新卒女子大生と名だたる女性編集長の息もつかせぬ応酬が面白く、米国のブランド・ファッション業界の最前線を垣間見せる演出技術も水準は高い。一流デザイナーと雖もメデイアに従属し、メデイアもまたオーナーに弄ばれ、生き馬の目を抜くような激烈な競争の修羅を生き抜く市場原理のまっただなかがアッサリと描かれる。アホらしいブランド・ファッションの虚飾の世界を縦横に見せながら、そこで弄ばれる人間模様の哀しみも描く。ただ単なるブランド世界の華麗さを描く映画ではないが、どのように生きようと成功を約束されたエスタブリッシュを主人公としているようだ。すれすれでヒューマニテイーを失わないが、アメリカン・ドリームの可能性を疑ってはいない。こうした競争の果てにいったいなにがあるのかを暗示しているとしたら読み込み過ぎか。デザイナーがコレクションで発表する前に、メデイア相手に内輪の下見会があるのも面白い。まあブランド・ファッション業界に興味がある人は観ても損はしないでしょうが、いったい醜い競争を明るいタッチで描く米国ってなんだろう−と思う。それにしてもメリル・ストリープは老いたなあ・・! 『ソフィーの選択』以降にいったい彼女は何をしているのだろうか? それもハリウッドで生き残るためか? 名古屋・三越映画劇場にて。中高年女性で満員。(2007/4/13 16:38)

ポール・バーホ−ベン『ブラック・ブック
 現在はハリウッドで活躍するオランダ出身監督が、故国オランダでつくった独・蘭・英・ベルギー合作映画。ユダヤ人の女性歌手が亡命地オランダで、レジスタンスとして反ナチ活動を展開する。オランダの英雄化されていたレジスタンス活動の中での入り組んだ裏切りと報復の渦中を生きながら、独軍諜報部将校と恋に落ちるという、何とも厄介な映画だ。スリルとサスペンスというハリウッド演出と、欧州の反ナチズムというテーマを組み合わせて、壮大な作品を作りあげると意図は分かるが、長編力作とはならなかった。エンタテイメント的演出が勝ってしまい、ナチズムという最も人間の深奥に迫るはずの描写が活劇風になってしまった。『シンドラーのリスト』『戦場のピアニスト』に続く反ナチ映画をめざしたのだろうが、壮大な失敗作といえよう。
 その原因はあれもこれもストーリーを膨らませて、人間そのものを描く丁寧さがなかったシナリオに責任がある。ヴィスコンテイ『地獄に堕ちた勇者ども』の丁寧でシックな描写があったならば、この作品はストーリーだけから見れば21世紀最初の巨大な歴史的作品になる可能性があった。レジスタンス内部の裏切りや、オランダ人とユダヤ人の対立、自由主義者と共産主義者の対立、クリスチャンと無神論者の対立など分厚いテーマ性に富んでいるのだが、残念ながらシナリオが壊れた。やはりハリウッドが反ナチ映画をつくると、このような活劇風になりやすい。しかし今もなおこうした第2次大戦の反ナチをテーマとした映画を合作でつくる欧州文化には頭が下がる。例えば南京大虐殺や従軍慰安婦の映画を、東アジア諸国と日本が協力してつくることなど想像できるだろうか。アジア人の私は無責任に言うと、あのナチ将校の軍服姿とドレス姿の欧州美人のカップルはなんであんなに魅力的に映るのだろう。ひょっとしたらこれがナチズムの妖しい美学なのだろうか。名古屋駅・ゴールド劇場にて。平日にもかかわらずかなりの入りだ。旧同僚のH氏と遭遇して、お茶でも飲もうかという話になったが、駐車券を紛失して大騒ぎとなった。あとから気づいたら駐車券は発行されない方式の駐車場だった。どうも最近呆けてきたのか。(2007/4/10 17:12)

趙博「歌うキネマ・風の丘を超えて」
 趙博は”浪速の歌う巨人・パギやん”だそうですが、はじめてライブを聴きました。かってみた韓国映画「西便制 風の丘を超えて」のライブ版です。朝鮮民族の歴史を越えた心情である「恨ハン」を結晶させた民族歌謡パンソリの歌い手を主人公にした映画です。「恨」は日本のような復讐につながるような心情ではなく、韓国独特の悲哀が積み重なりながら耐え抜いていくといった意味でしょうか。ストーリーは今の日本の若い人には理解できないような、いわば「瞼の母」に近い浪花節に似た世界ですが、そこには韓国独特のピュアーな心情が流れています。朴根鐘という音楽家が幾つかの朝鮮楽器で伴奏するのも面白くおもいました。名古屋は大須の場末のアングラ風の劇場ですので、目の前で演じる迫力はありました。滲みいるような哀しみよりも、絶叫に近い悲哀でしょうか。趙博の語りはなかなかのものでした。名古屋・七つ寺共同スタジオ。(2007/4/1 17:18)

マイケル・ウインターボトム、マット・ホワイトクロス『グアンタナモ 僕たちの見た真実
 ごく普通のイスラム系イギリス人の若者たちが故国パキスタンを訪れ、興味本位でアフガンに旅行した時に、米軍の攻撃が始まり彼らはアルカイダメンバーと見なされて、グアンタナモ基地の収容所に幽閉され、最後は解放されて帰国するまでを描くドキュメンタリータッチの映画。米英軍のアルカイダ容疑者の収容所の描写を通じて、対テロ戦争の虚偽を鋭く暴き告発している。さまざまの虐待と拷問がくり広げられるが、若者たちは最後まで屈しなかった。映画は、アングロ・サクソンの素朴で醜悪な人種的偏見が剥きだしになった捕虜への尋問過程をリアルに描く。見終わった多くの人は(特にイスラム系の人は)、米英への底知れぬ憎悪をいだいて終わるだろう。文明間闘争の果てしない泥沼をみすえて希望はないが、意外と解放された青年たちはアッケラカンと明るく(?)振る舞っているような印象があるので戸惑ってしまう。とにかく多くのイスラム系の若者がいまもなお自爆テロで爆死していく背景を考える契機とはなるだろう。
 こうした無辜の民衆を拉致して嗜虐的なふるまいをしている米英が、他方では旧日本の従軍慰安婦の強制連行の告発に一生懸命になっている二重基準の不可思議さが分からないのだ。名古屋・シルバー劇場にて。封切り初日にもかかわらず、意外と入場者は少なかった。(2007/3/31 15:39)

フリップ・ガレル『恋人たちの失われた革命』
 フランスの5月革命期に生きた青春の疾走と挫折を描く作品−といえば、なにかある問題提起があるような気がするでしょうが、なぜ21世紀初頭でこうしたノスタルジックな作品をつくる意味があるのか、なにかバカバカしくなるような自己満足的な映画だ。運動の退潮期に労働者の妥協を軽蔑し、アヘンとセックスのなかでアナキズム革命をナルシックに弄びながら自滅していく有閑階級の息子や娘たちの映画でしかない。唯一迫力があるのは、主人公の娘の父親が働く鋳物工場の滾り立つ溶けた鉄の煙である。むしろこの映画はこうしたシーンに焦点を当て、そこに生きる群像を活写すれば、現代の閉塞する労働状況とつながって普遍性を得たに違いない。
 たしかにこのような模索に弄ばれて挫折していった多くの青年がいたことは否定できないが、他方では真摯に労働の未来を考究して生きようとした青年たちも各自に存在した。いずれのタイプをも重層的にえがくなかでこそ、分厚い時代相を浮き彫りにすることができると思う。3時間を超える長編でありながら、虚しい失敗作でしかない。名古屋・今池 シネマテークにて。意外と観客多し。(2007/3/30 17:04)

滝田洋二郎『バッテリー
 とにもかくにも私の出身県が舞台となっているので興味津々だった。我が出身県はこんなに川が流れる緑豊かなところだったのかと改めて知らされました。成羽川は確か中学生の時か化石採集に行ったことがあるぞ。会話も一生懸命の岡山弁でしたが、私の育った岡山弁とは少し違うなと思いました。とにかくストリーは野球に熱中する中学生群像のピュアーな生き方が交錯するいわゆる青春モノでしょうが、内容は単純な根性物語ではなく、それぞれが必死で個性を表現し、生きることに真摯でありたいと無意識のうちにパッションを傾けるというなかなか内容の濃いものです。原作は累計800万部を越える大ベストセラーとなったあさのあつこ『バッテリー』だそうですが、申し訳ありませんが私は知りませんでした。こうしたピュアーで葛藤ある青春ストリーは、一歩間違えばウソっぽいヤラセ風になるのですが、すくなくとも映画ではそうしたレベルは越えています。こうした小説が800万部を超えるとは、なにか切ないまでに哀しい日本の希求が象徴されているように思います。こんなに若者が生きにくい時代はないのに、その中で必死に探そうとする少年たちの瞳が読む人に大いなる癒しに近い感動を与えたのでしょう。
 こうした映画を観ると自分自身の汚れや歪みが映し出されるようで困るのですが、やっぱり美しさへの作為と予定調和は否定できません。実は私が最も共感したのは、主人公をリンチにかける3年生でした。入学したばっかりの1年生にエースの座を奪われ、丸刈りを強制する監督に楯突いてもなおエースであり得る主人公は必死で服従してきた上級生には許せないのでしょう。「俺が野球部をやったのは内申書のためであり、風紀委員で頑張ったのもそうだ」と声を震わせて云う3年生のほうがじつは現代の若者の実像を象徴しているのです。岡山の中学が、教師と生徒の風紀委員が一緒になって登校時に校門で取り締まるような状態になっているとは知りませんでしたが、この3年生の言葉はこの中学の教育が本質的に間違っていることを示しています。校長が「部活はおまえたちのモノではない、学校と教育委員会のモノだ」と言い放ちますが、この映画は現代の学校の荒廃を鋭く散りばめています。
 だからこそその中で必死にあがいて、自分を貫こうとする少年たちがまぶしく見えるのです。まだまだ日本も捨てたモノではないぞ・・・まだ希望はあるぞ・・・と心静かに信じることができます。繰り返しますが、ほんとうの主人公は挫折してリンチで主人公を痛めつけたあの生徒なのです。彼が大人の入口に立って、世知を選ぶかそれともピュアーを選ぶかで日本の将来はおそらく決まるのです。
 たしかキャッチボールを主題にした寺山修司の詩がありましたが、キャッチボールは互いの信頼が深まっていく身体動作だと思います。互いに他者の存在を絶対の条件とし、介在するボールが往復運動するという信頼関係のなかでくり広げられる人間の関係です。あったあった彼の詩が・・・・以下紹介。

 一個のゴムのボールがAからBに投げられる
 夕暮れに倉庫のある路上での自転車工と、
 タクシーの老運転手がキャッチボールをする場合を考えてみよう
 修理工がボールを投げると老運転手が胸の高さで受けとめる
 ボールが互いのグローブのなかで、バシッと音を立てるたびに
 二人は確実な何かを(相手に)渡してやった気分になる

 その確実な何かが何であるのかは、私にも分からない

 だがどんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことはできなかったであろう
 ボールが老運転手の手を離れてから、修理工の手に届くまでの「一瞬の長い旅路」こそ、地理主義の理想である
 
 手を離れたボールが夕焼けの空に弧を描き、ふたりの不安な視線のなかをとんでゆくのを見るのは、実に人間的な伝達の比喩である

 終戦後、私たちがお互いに信頼を恢復したのは、どんな歴史書でもなく、政治家の配慮でもなくて、まさにこのキャッチボールのおかげだったのではないだろうか


 じつに素晴らしい戦後民主主義の感性的な認識ですね。そうなのです。この詩のように、映画は戦後民主主義の貴重な遺産がぎっしりとつまった大人へのメッセージなのです。あなた方はなにか貴い忘れ物をしてはいませんか? 今からでも遅くありませんよ、探しにいくのは。名古屋・伏見ミリオン座にて。中高年10人弱。(2007/3/22 17:15)

大澤 豊『日本の青空
 占領下の新憲法制定過程を憲法研究会の中心メンバー・鈴木安蔵を中心に描く。彼は京大学連事件で治安維持法検挙第1号として大学を中退。獄中で経済学から憲法学に転じ、戦後新憲法策定時の民間側の主要案を作成した。憲法研究会のメンバーをみると、森戸辰男・大内兵衛・高野岩三郎など錚々たる名前が並んでいる。白州次郎を中心とする政府メンバーとGHQの白熱した応酬も面白かった。この映画は改憲派の論拠となっているGHQ押しつけ論に対する強力な反論を事実に基づいて描いていると云えよう。思えばあの8月15日の晴れわたった青空は、日本の「革命」的な転換への契機となる空虚であったといえよう。おそらく改憲派はこの映画に対抗して改憲推進の映画をつくれないだろう。そこには2000万人のアジア人と300万人の日本人の死の真実の前に、やはり改憲はむなしい犬の遠吠えなのだ。この映画では憲法研究会の重要メンバーである高野岩三郎がなぜ独自案を提出したのかはすこし触れてある程度であり、国会における修正過程も描かれてはいない。しかし護憲派がいまつくるとすれば、最高水重の護憲映画と云えるであろう。自分の俳優人生でのハンデイを覚悟して出演した俳優の皆さんにも拍手を送りたい。名古屋市民会館にて。会場満席には驚いた。ただし中高年のみ。(2007/3/20 17:05)

幹の会+リリック『オセロ』
 平幹二朗演出・主演である。シェイクスピア悲劇は日本の歌舞伎とほぼ同じであって、ある意味では卑近なドラマを重厚に仕立てるのである。「オセロ」はいわば単純細胞の軍人が知能エリートに愚弄されてアホな犯罪に走るというツマラナイ劇なのである。これを重厚な悲劇に仕立て上げて、あたかも古典演劇の最高峰に位置づけて自己満足におちいった欧州演劇の象徴なのである。それを現代日本で上演するには、相当の現代的な演出が求められる。しかし残念ながら平演出は、少しの民族差別や階級問題を浮上させたが、本質的に限界があった。要するに純情無垢なデズデモーナや単細胞オセロは端役でしかなく、真の主人公はイアーゴなのである。イアーゴの権力に対する嬌笑を中心に据えれば、この劇の現代性が浮き彫りとなるのである。
 残念ながら今回の上演は、上滑りの見えすいたオセロの激情と、純情無垢なデズデモーナの可憐さの強調に終わり、なぜ今「オセロ」なのかという逼迫した問題意識はなかった。イアーゴを演じた平岳大とは平幹二朗の息子なのだろうか。演劇界にまで親光の2世でないと舞台に立てないとなれば、ほんとうに演劇の世界も終わったと思う。こういう息子を準主役に抜擢する発想は少なくとも新劇界ではなかったはずだが・・・今はそうではないのか。愛知県勤労会館にて。(2007/3/16 00:03)

ケヴィン・マクドナルド『ラスト・キング・オブ・スコットランド』(2006年 アメリカ)
 最近やたらにウガンダ内戦や飢餓をボランテイア白人やジャーナリストの視点から描く映画が多いのはなぜだろうか。たしかにいまアフリカ大陸は飢餓とエイズが蔓延する暗黒大陸と化しているかに見えるが、それをアフリカ黒人の原始的未開性や野蛮性に帰着させるかのようなイメージの映画が多い。この映画も例外ではない。独裁者アミンの名だたる悪名は鳴り響いているが、その背後にあるイギリス植民地主義とイギリス軍支配やイギリス企業の収奪はほとんど描かれない。この映画もおめでたいスコットランド人医師がアドベンチャー気分でウガンダ農村へのボランテイア活動に参加するところから始まる。アミンが次第に凶暴な独裁に変質し、恐怖政治を展開する過程が描かれるが、英国の偽善的な間接支配はほとんど登場しない。
 アミン自身は興味を惹く生育歴であり、どん底の貧困から英軍の炊事係になり、巨躯を使ってウガンダ・ヘビー級チャンピオンとして活躍し、英軍将校への出世を経て参謀総長時にクーデターを成功させる。初期はイギリス・イスラエルとの連携で治世を試みるが、ヒトラー崇拝のなかで凶暴化して追放される。アントニオ猪木との異種格闘技戦が計画されたがクーデターで頓挫したそうだ。
 アフリカの凶暴な独裁を生み出す社会構造に迫るといった期待は裏切られ、白人ヒューマニズムが賛美される。むしろ白人は犠牲者だ。もしかしたらハリウッドは、有色人種の凄まじい暴力を描くことによって、アフガンからイラクに到る自らの蛮行を合理化して、白人キリスト教文明による黒人・イスラムへの指導性を合理化しようとしているのではないかなどと考えさせられる。これがアカデミー賞の限界だろう。パンフにある佐藤睦雄氏や田中千世子氏などの評論の水準は、日本の映画批評の貧困を浮き彫りにして情けない。名古屋・伏見ミリオン座にて。観客20数名。(2007/3/13 16:37)

MICHAEL CATON-JONESマイケル・ケイトン=ジョーンズ『SHOOTING DOGS ルワンダの涙』(イギリス 2006年)
 かってルワンダ内戦と虐殺を扱った映画では『ホテル・ルワンダ』を見た記憶があるが、この『ルワンダの涙』の方がはるかにリアルで、また奥行きがあるような気がする。映画は1994年のルワンダ大統領暗殺を契機とするフツ族民兵によるツチ族の大虐殺を生き抜くカソリック神父、英人海外青年協力隊、ツチ族の娘の3人を描く。この映画は大虐殺の悲劇を放置した国際連合をはじめとする国際社会を批判しているようだ。イギリス人が製作し、現地ルワンダの協力で撮影されたから、劇映画としてはリアルだ。虐殺に到る集団的熱狂は生々しく、異常に昂揚する憎悪が支配して狂気の殺戮がくり広げられる。しかしイギリス人原作でイギリス人監督という点に注意しなければならない。私からみると、大英帝国は基本的に免罪されている。こうしたアフリカの内戦と虐殺を描く映画や小説などの作品を見る場合に注意しなければならない点が浮かび上がる。
 第1に、私たちは植民地アフリカ近現代史を知らないと云うこと。植民地支配技術を最高度に発展させたイギリスは、分裂支配を基本手段とした。部族意識を最大限に利用し、優秀部族と劣等部族に人為的に分けて、現地部族による支配権力をリモコンするという方法だ。ルワンダでは、ベルギーが英国の方法を採用し、部族別身分証明書のシステムを作って、部族対立を煽って支配しようとした。
 第2に、現地人を心理的に支配する方法としてキリスト教の布教を大々的に展開した。宣教師は崇高な使命感でキリスト教道徳を拡げることによって、結果的には白人支配の精神的基盤をつくった。個々の宣教師のピュアーな信仰と献身的自己犠牲はマクロ状況においてはエピソードにしか過ぎない。カソリックが本質的に世界の支持を得られないのは、ローマ法王がホロコーストを見て見ぬふりをしたからだ。
 第3に、海外青年協力隊だ。この評価今もってよく分からないが、文明が野蛮を開明するというソフトな支配の方法になる危険があるとつくづく感じる。
 かって第2次大戦直後に、怒濤のような民族独立運動がアフリカ大陸で起こり、多くの植民地が社会主義指向の独立政権を樹立したが、旧宗主国とレアメタルを求める多国籍企業はあらゆる方法を駆使して、社会主義政権を打倒して傀儡政権の樹立をめざした。ここで使われた汚い方法が現在までアフリカの負の遺産として残り、虐殺行為が惹起されている。
 この映画は、現地で進んで虐殺されるカソリック神父の殉教と、現地人を見捨てて英国へ帰還する海外青年協力隊員の良心の痛みを主題にしているが、アフリカ現地民族にとっては、そのような白人の痛みなど吹けば飛ぶようなものだ。この映画は、白人の映画であって現地アフリカ人の映画ではない。現代史を記録する水準にすらないアフリカの実態は、白人資本を媒介にしてしかその姿の一部を世界に開示できないのだ。ここにこそ、この映画のほんとうの悲劇がある。そして想起すべきは、わが日本はアフリカの白人政権を支持して、有色にもかかわらず「名誉白人」として白人待遇を受けて商売をしてきた血塗られた歴史があると云うことだ。名古屋・名演小劇場にて。観客5名程度。(2007/3/6 16:52)

Florian Henckel Von Donnersmarck フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク『Das Leben der Anderen 善き人のためのソナタ』(2006年 ドイツ)
 東ドイツの秘密警察STASI(シュタージ 国家保安省Saatssicherheitsdienstの略)の正規局員は9万1000人、上級局員が1万3000人、非公式協力者のIM(インオフィツイエル・ミットアルバイター)が17万人というまさにジョージ・オーウエルが『1984年』で描いた究極の監視社会をつくりあげた。彼らはOthers(あちら側の人間)としてDas Leben Anderen他人の生活を監視するOV(諜報)活動をくりひろげ、陰惨な密告社会を主導した。この映画は、シュタージのエリート局員が著名な劇作家と女優を監視し、その葛藤を描きながら東ドイツが崩壊に到った理由を追究しようとしている。東ドイツの自殺率が世界第1位に達してから、政府は統計の公開をやめ、替わりにハンガリーが首位になったと映画にでてくる。
 この劇作家はベルトルト・ブレヒトをモデルにしているのだろうか。それともライナー・クンツエであろうか。西側でも有名な劇作家とは彼等以外にはいない。ブレヒトはナチスの迫害を受けて、ニュヨークに亡命し、戦後は社会主義の理想を信じて東ドイツを選んで帰国した。たしかに当時の社会主義のイメージは、レジスタンスと反ナチ抵抗運動の崇高な犠牲者として全世界の良心を代表する存在だった。しかし冷戦崩壊後に次々と露わになる冷酷な監視・独裁国家のシステムは、はっきりと2度と立ち直ることができないダメージを社会主義に与え、歴史の博物館に収容することとなった。いったい輝かしい青春の代名詞であった社会主義の理念がかくも無残に打ち捨てられて、西ドイツに吸収された祖国・東ドイツをブレヒトは墓場のなかからどのような想いで見つめているだろうか。

 かなり前に私は、日本のTV番組で元シュタージ協力者の母親と息子が対決するシーンをみた。息子は自分を密告していた母親に向かって、””何であんなことをしたんだ!”と詰問する・・・・驚いたことに母親は悪びれることなく、自分の行為を弁護するではないか! 私はこの番組ではじめて東ドイツ監視国家の闇の一端に触れたような気がして暗澹たる気持ちになった。いま現存している社会主義国家では、北朝鮮は類似したシステムが貫徹しているように思うが、あの陽気なラテンのキューバもそうなのだろうか。確かにCIAの転覆活動への警戒はあるだろう。しかし米国でもブッシュ政権はFBIの市民への電話盗聴権を無制限に認めているのだから、現代人は多かれ少なかれ監視社会に生きている。日本でも街中に監視カメラが溢れ、公安警察や内閣調査室の秘密活動も極秘裏におこなわれている。この映画はそうした現代の監視社会の恐怖を告発し、どのような監視システムをつくろうとも、決して屈服しない良心の存在があることを静かに告げているようだ。

 シュタージのエリート捜査官である主人公が、エレベータで一緒になった子どもから”おじさんはシュタージなの?”と訊かれる・・・つまり子どもは大人の表情やしぐさから直感的にシュタージだと見抜く観察力を持っていた・・・・・しかし何も分からない子どもは次いで”私の父親は家でシュタージは一番悪い人たちなのだーと云っているよ”という・・・・観客はアッと思うのだが、この捜査官は”君の名前は何というの? いやそのボールの名前だよ”と聞き・・・子どもは”ボールに名前なんてないわ”と答えて終わる。このシーンに捜査官の残された人間性が象徴的に表れされている。

 ドイツの映画は、『グッバイ レーニン』以来久しぶりに観た。ドイツ語はほんとうに硬くて権威主義的なイメージがある。社会主義の理想をいまだに信じている多くの旧東ドイツ人たちがおり、急激な市場原理主義によって社会保障政策が後退し貧困が深化するなかで、一方では旧体制へのノスタルジアが強まり、他方ではネオ・ナチが急伸しているという。残念ながらこの映画は、旧体制の監視国家の非人間性を鋭く告発しているが、現ドイツの矛盾はネグレクトしている。問題はそこから何が始まるのかということだ。

 それにしても旧東ドイツの街の風景は異様な沈黙と闇のような静けさが漂って、人間が生きている街とは思えない。それほどに私たちは煌びやかなネオンと騒音にマヒしているのだ。現在のドイツの街は多彩色の落書きがあふれ、あらゆる建物はペンキで塗りたくられ、日本の街の清潔さが信じられないほどだ。フランスを旅行した時も、街の落書きの凄さには驚いた。しかしよく考えると、落書きは市民生活の自由の成熟度をある意味では象徴しているのだ。いま日本には落書きはない、ほんとに綺麗な街だ(公認された落書きがあるだけ)、そしてかっての旧東ドイツも一切落書きはなく、清潔な街並みが整然と広がっていた。日本と旧東ドイツの街の風景は、その綺麗さと清潔さで驚くべき類似を示している。その裏にある種の権威主義と独裁の雰囲気があるのではないか。名古屋駅裏・ゴールド劇場にて。悪天候で観客は10名弱。(2007/3/5 16:39)

Kizysztof・Krauzeクシシュトフ・クラウゼ『Nikifor matejkoニキフォル 知られざる天才画家の肖像』(ポーランド 2004年) 
 この映画に関しては2つの興味がある。云うまでもなくニキフォルという私がまったく知らなかったポーランド画家について知り得ること、第2は久しぶりのポーランド映画であるという点だ。ワイダやカヴァレロヴィッチ、ポランスキーなど錚々たる監督がいた時代は今どこへ行ったのだろうか。ポランスキーはハリウッドにいってどうなっているのであろうか。こうして私は久しぶりにポーランド映画をみた。ポーランド語はなんかロシア語とよく似ているような発音だなーと思った。感情の起伏を抑えた陰影に跳んだ映像と、四季の季節の移ろいを描く描写は素晴らしい。北欧の沈鬱な表情描写と似たところがあるが、東欧の人間観察の深さを感じさせる。この映画は1960年代であり、はしばしにスターリン主義の影響をうかがわせるシーンが登場する。こうした時代を生きたポーランド人のしたかかさも感じさせる。
 しかしそのような社会体制のなかで、自らの感性を自然に示して絵画に表現した1人の人物がいたのである。こうした体制を越えた感性の持ち主は、アウトサイダーであり、生活も思考もすべて狂人を強いられる。父親も失踪し、母親が売春婦として息子を育て、息子も文字を知ることなく成長し、無一文のストリート画家としてしがない画家生活を送る。これが天衣無謀のニキフィルのタッチを育てたのである。日本で云えば山下清であろうか。
 ポーランドはワイダの時代に華やかな映画時代を切りひらいたが、ほんとうに複雑な国だと思う。ニキフォルの生きた温泉町はおそらくアウシュヴィッツに近いと思われるが、ドイツ軍に踏みにじられた村は登場するが、ポーランド人自身が迫害したユダヤ人は登場しない。ロシア映画もそうなのですが、スターリン主義の閉塞状況を生き抜いた感性は重々しい人間観察力を培ったように思う。ニキフォルを演じた俳優がポーランド有数の女優であるというのも驚きだ。名古屋・名演小劇場にて。観客10数名。昔の同僚とばったり出くわした。(2007/2/26 16:45)

グレコール・シュニッツラー『みえない雲』(2006年 ドイツ)
 ドイツ語でくり広げられる映画って何年ぶりっていう感じです。ドイツのハイスクール生活はアメリカとよく似て自由奔放な感じですね。制服もなく、自家用車通学を許されているのでしょうか。教室の座席は30人程度で、これは日本と同じような縦横の直線配置でした。物語はとてもシリアスで、原発事故で放射能が漏れ、街全体がパニックとなって脱出作戦がくり広げられ、多くの死者と被爆者が出現するというものです。相愛の高校生もともに被爆し、家族が崩壊するなかで必死に生きぬこうとするものです。原作は青少年文化賞の作品だそうです。
 こうした小説や映画がつくられて、メジャーなものとなっているのは、欧州での反原発運動がチェルノブイリいらい大きな世論となっていることを示すものでしょう。ちょうど原発の耐用年数が近づいて廃炉政策が進んでいるようです。一方では英国中心に温暖化対策として原発推進を掲げる国もありますが、欧州全体は環境戦略を重視していることがうかがわれます。この映画はミゼラブルな状況を乗り越えようとする若者の明るい笑顔で終わるのでホッとしますが、チェルノブイリの現在を考えると暗澹たる気持ちになります。
 日本でこうした原発映画がつくられないのは、被爆体験と原発が結びつかないままにエネルギー転換がおこなわれてきたからです。東電のデータ偽造は、建築偽造をはるかに超える恐怖の問題なのですが、なぜメデイアは電力会社を叩かないのでしょう。東海大地震の前に、近い将来に取り返しがつかない原発事故が起こるような予感はありませんか? 名演小劇場にて。観客5名。(2007/2/22 14:39)

ヒュー・ハドソン『炎のランナー』(1982年 英国)
 何の気なしにNHK・BSにチャンネルを回したら、この映画が放映されていた。かなり前に観た記憶はあるのですがよく思い出せません。そのまま最後まで見てしまいました。1900年代初頭のパリ五輪の短距離で優勝した実在の2人のケンブリッッジ学生をめぐるストーリーで、1人はユダヤ系の差別体験を走ることで越えようとし、1人は宣教師の任務との両立に悩む青年です。大英帝国のノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)がふたりの矛盾と悩みを包み込んで、最後はユニオン・ジャックへのパトリオテイズムに包み込まれるという帝国賛美の映画といえるでしょう。1920年代の英国社会の一端がうかがわれて興味を持ちました。
 大英帝国の栄光を支えるケンブリッジのエリート教育、ユダヤ人差別を超克する脱出口としての大学進学やスポーツでの顕示、アマチュアスポーツとプロスポーツの厳格な区別とアマチュアリズムの優越と衰弱、キリスト教伝道への犠牲的精神の賛美・・・などなどかっての大英帝国の失われた栄光の古き良き時代へのノスタルジアが「美しく」描かれます。それ以上でもそれ以下でもありません。だから中国やインドへの伝道の背後にある植民地支配、ユダヤ人への差別と迫害そのものへの視線はありません。東アジアのどこかの国の首相が云っている「美しい国」のイメージにピッタリの映画です。陸上競技を扱う映画では『長距離ランナーの孤独』がありますが、問題意識が全く違っています。ユダヤ人青年を演じた俳優の切れ込んだ鋭角的なマスクに惹かれました。演出と撮影技術、音楽が素晴らしい。(2007/2/22 9:02)

チョ・グンシク『夏物語』(2006年 韓国)
 映画館はしがない駅裏の小劇場ですが、行って驚いた。中高年のおばさまたちが列をなして並んでいる。彼女たちは主演のイ・ビョンホンがめあてなのであろうか、韓流いまだ衰えず−と圧倒される雰囲気でした。しかし映画の内容はなかなかのものです。時代は1969年という世界的にも爆発的な民衆運動が起こった年であり、この映画は韓国での朴軍事独裁大統領の3選反対運動のさなかにある学生が主人公です。ロシア革命前期のヴ・ナロード運動をモデルにした学生の農村活動に参加したソウルの大学生と農村の娘の愛と別れを通して、ピュアーな若者の姿が描かれます。試練と向き合う純愛は観る者の涙を誘いますが、日本のおばちゃんたちにとっては少々シリアスであったかも知れません。
 娘の父親は北へ行ったコミュニストであり、村人たちから冷ややかな視線を浴びて孤立しています。学生はじょじょに娘の置かれた状況に巻き込まれながら、学生運動で逮捕され、娘との純愛を裏切るのです。このトラウマを生涯の傷として独身を貫き、いまは退職をひかえた初老の大学教師となっています。別れた娘の足跡をたどるうちにすでに娘は死んでこの世にいないことを知るのです。まるで日本で云えば、伊藤左千夫『野菊の墓』のようなピュアーで痛ましい純愛の世界ではありませんか。そして犠牲者がつねに女性(娘)であることも同じなのです。だからこの映画は古典的な悲恋物語であってそれ以上のものではありません。
 しかし重要な違いは、悲恋が民主化運動への共感をにじませて進行することです。日本ではこうした運動を共感的に描くというのは、1970年代後半で終わりました。イ・ビョンホンのようなスター俳優が民主化運動家として登場するような日本映画はおそらくつくられないでしょうし、またこうした直線的な純愛映画もつくられないでしょう。この映画は韓流ブームをねらっていますが、苛烈な時代背景のなかに置いていることによって単純な恋愛映画からかろうじて抜け出しています。韓国文化を通底する”恨”がこの作品の底に流れているのでしょうか。名古屋・シネマスコーレにて。中高年女性で満席。(2007/2/13 18:12)

アレックス・ギブニー『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』(2006年 アメリカ)
 エンロン経営の実態と崩壊を描くドキュメンタリーだが、ドキュメンタリーのレベルははるかに日本のほうが優れていると分かる。エンロン関係者へのインタビューと議会公聴会証言で編集されているが、エンロン経営それ自体の深層に迫ることはなく、表層を描いて終わる。凄まじいのはカリフォルニア州の電力規制緩和をめぐって、エンロンが人為的な停電を繰り返すながら停電に追い込んで、電力価格を上昇させて株価高騰を煽る手法。こんな原始的で反公共的な手法が合法であるところに、米国流市場原理主義の恐ろしさがある。その怒りを結集したのがアーノルド・シュワルツネッガーの州知事選圧勝であったのだ。これはまさにそのまんま東と同じ構造だ。私が驚いたのは、ブッシュ政権と大手銀行がからみ、また不正経理を指導した全米有数のアーサー・アンダーセン会計事務所が倒産したことだ。エンロンは株価をつり上げるために、1997年に三池炭坑の火力発電所化計画をでっちあげている。まあ観ても損はしないが、ドキュメンタリー映画としては低レベルだ。名古屋・シネマテーク。意外と客は多い。(2007/2/10 17:19)

オリビエ・マルシャル『あるいは裏切りという名の犬』(2004年 フランス)
 原題は「オルフェブール河岸36番地」という日本で云えば「桜田門」にあたるパリ警視庁の所在地ですが、なぜこんな凝った邦題にしたのでしょう。私はこの題名に惹かれて観たに過ぎないのですが、エンタイテイメントとしては結構面白い。正義感の警視と権力志向の警視が、かっての親友関係と恋人の争奪を後に激しいライバル競争を演じるというものだ。フランス映画らしい苦みとエスプリがただようハードボイルドタッチの映画に仕上がっているが、もっと深い味わいが出せそうな作品だ。たしかにフランス映画は日本のような幼稚なアイドル俳優が登場しないので救われる。主人公2人はフランスを代表する男優だが、その苦み走ったエロテイシズムは文化の香りがする。この辺が羨ましい。しかしこの映画にはフランスの裏社会を支配している中東・有色系はほとんど登場しない。この辺がフランス的な自己規制であろうか。あろうことか、デ・ニーロがクルーニーと組んでハリウッド版にリメイクするらしいが、ハリウッドの想像力がとみに衰弱していることをうかがわせる。まあ2時間ほど暇をつぶしたいひとには絶好の映画でしょう。名古屋・名演小劇場にて。観客8名ほど。(2007/2/5 15:59)

ジェイコブ・チャン『墨攻』
 原作は日本の劇画で日・中・香・韓の合作というから、東アジア共同体の映画版か? 文句なく面白いし、中国の春秋戦国時代の時代考証も行き届いている。物語は、戦後期の大国である趙の攻撃を受ける梁という小国の防衛闘争を支援する墨家が主人公だ。墨家とは、孔孟の儒家に対抗して墨子が開祖となる思想家集団を指す。墨家思想の中核は、すべての人を公平に愛する「兼愛」と侵略行為を忌避する「非攻」論にあり、侵略を受けた場合にはあらゆる人知を尽くして防衛する「墨守」にある。この映画では、侵略を受けた国の王の求めに応じて防衛戦術を指導する遍歴的な軍事助言者としての墨家が登場する。
 この映画では墨家の思想的な掘り下げは弱く、あくまで春秋戦国期の戦闘の態様中心に描かれていて面白い。いままでのこの種の大陸戦闘映画ではあまり登場しなかった民衆が描かれているところに興味を持った。秦による中国統一によって墨家は急速に勢力を失い、孔孟の儒家が思想的な主導権を握る国家思想になるが、いま墨家思想を復活させようとする試みには現代の東アジアの潮流が反映しているように思う。シネマズなごやにて。観客20数名。(2007/2/4 16:53)

せんぼよしこ『赤い鯨と白い蛇』
 なぜか『萌えの朱雀』を想い起こした。館山の海のそばにある旧家に集う3世代の女たちのそれぞれの生きる営みが交錯するリリックな映画だ。登場人物も男が登場しない女ばかりの映画で、女性監督ならではの女の感性が端々に滲む。赤い鯨とは戦争末期の特攻用特殊潜行艇を意味し、白い蛇とは別れた人の精霊みたいなものを意味するのか。いまでも、今もってこの映画の意味がよく分からないのだ。予定調和に到るちょっとした波騒ぐ人生のシーンなのか? 滲みいるような印象的なシーンもあるが、どうもいまひとつインパクトがない。やっぱり女性向けの女性映画なんだろうか。まあ、興味がある人は観てください。それにしても特攻隊員の残した遺品の書籍である岩波文庫を焼くシーンは何を意味しているのだろうか? 新たな旅立ちであるとしても、決して遺品を焼くということは私にはない。名古屋駅裏・シネマスコーレにて。観客8人。(2007/1/28 20:16)

フーベルト・ザイパー『ダーウインの悪夢』
 タンザニアの世界最大級のビクトリア湖は生物進化の多様性を示す”ダーウインの箱庭”と云われていたが、いまは巨大肉食魚ナイルービーチが生息する白身魚輸出基地になった。加工場で仕分けられた白身部分はEUと日本に輸出され、政府と輸出産業の利益は極大化している。逆に伝統的な漁師の生業は破壊され、湖周辺はストリート・チルドレン、売春、エイズ、ドラッグが蔓延する貧困地帯となっている。旧ソ連製の輸送機が過載して魚を輸送し、帰着便には武器が満載されているという典型的なアフリカ社会の象徴的地域となっている。こういう映画を観ると、確かに外資による開発輸入型経済戦略が新植民地従属経済を生み出す構造を実感する。いたいけな子どもたちが一碗の米をめぐって争う姿は痛ましい。貧困と戦争の悪循環の泥沼にあって、最大限の利益を追求する外資と現地権力の醜悪な姿は目を覆うばかりだ。そして私は、この映画を見終わった後にスーパーに行って今週の食材を満載して帰宅の途についたのだ。名古屋・シネマテークにて。上映初日で会場は超満員。大学の職員と旧同僚に出くわした。(2007/1/27 17:08)

Liliana Cavani リリアーナ・カヴァーニ『THE NIGHT PORTER 愛の嵐』(1973年 米・伊)
 何とも恐ろしい映画だ。そうなんだ、日本公開の時にこれをみて衝撃を受けた。あれから30数年を経てまたVHSでみた。いまでも印象に残っている苛烈なシーンよりも、比較的他のシーンを冷静にみようと思ったが、やはりこの沸騰するような狂気の情念の世界は特別だ。「肉体に刻まれた愛の深さを描いた」(渡辺淳一)とか、「死と結びついたエロテイシズムの本質」(今野雄二)、「女性監督でなければ表現できない特有の生理と感覚」(田山力哉)などそれ自体としては的はずれではない印象を語っているが、カヴァーニの意志は違うと思う。男女の歪んでいく性愛の背後にあるファッシズムそのものの本質を描いたのだ。日本は軍部独裁を経験したが、民衆自身が支持していくファッシズムを経験していないのではないかとつくづくと思わせる。ファッシズム的独裁は、被支配がマゾヒステックに支配に迎合し奉仕していく過程であり、それなしに自分自身が生きられない幻想の歓喜を味わう過程なのだ。
 主人公のユダヤ人少女は強制収容所で、ナチ親衛隊将校に弄ばれて異常な性愛の世界にのめり込んで、戦後もその傷跡を引きずっている。再開したふたりはまたあの異常で昂揚した世界に立ち戻ってつかのまの快楽に耽溺し、射殺されて終わる。ナチズムの脅威と醜悪な非人間性を極限の形で描いた究極の反ファッシズム映画だと思う。なぜか篠田正浩『桜の森の満開の下』を想い起こした。VHS版。(2007/1/22 19:37)

池田博穂『時代を撃て・多喜二』
 29歳の若さで特高に虐殺されたプロレタリア作家・小林多喜二の生涯を知人のインタビューを中心に描いたドキュメンタリー映画。60数年前の治安維持法下の苛烈な反戦運動の悲劇的犠牲者の象徴として多喜二は位置づけられる。彼の小説を日本現代文学史上に正しく位置づけるという点では描写が弱い。文学評論家が誰も登場していないからだ。彼の成長と時代はよく描かれている。あのような時代が形を変えてふたたび蘇るのではという危機を警告する作品だ。プロボクサーの赤井英和や、俳優の田村高廣、ノーマ・フィールドなどが登場したのには驚いた。音楽を中学時代の知人である小六禮次郎(倍賞智恵子と結婚)が担当しているのも驚きだ。多喜二文学が幅広く受容されていることが分かる。DVD。(2007/1/22 16:43)

周防正行『それでもボクはやっていない』
 日本の裁判が江戸時代の大岡裁きと原理的に変わっていないことがよく分かる。自己の良心と法律以外に従ってはならないとある裁判所法の原理と実態がいかに背理しているかを痛烈に描いている。映画館を出てもなにか打ちのめされた自己否定感で暗澹たる気持ちになる人も多いだろう。国家権力の冷酷さを痛感して、「お上」にたてつくことの怖さを覚えて敗北感を持つ人も多いだろう。つまり判事と検事と警察が一体化していた江戸期から、少なくとも判事は制度的に独立したが実態は相変わらずなのだ。戦後直後では政治的冤罪で国民と司法は激しく対峙したが(『松川事件』の”まだ最高裁がある”)、現在では政治的冤罪よりも日常生活での冤罪が相次いでいる。この映画は痴漢事件に巻き込まれた普通の無実の青年が有罪となっていく過程を描いている。現在の刑事起訴の有罪率は99,9%という恐るべきレベルに達しており、判事も検事も弁護士も事実上は有罪判決を前提に公判を展開し、判事は大岡裁きよろしく情状酌量をおこなう。弁護側の決定的証拠が提出されない限り、無罪の可能性はないといえよう。「いま一番楽なのは弁護士だ」という言葉は厳しい。弁護士は自己責任を追及されることがなく、逆に無罪判決を得た弁護士は英雄的な評価を受けるからだ。さらに無罪判決を出した判事は、業績評価を落としせいぜい家裁判事へと左遷される。
 警察の捜査も鋭く描写されているがこんなものではないだろう。頭から有罪と決めつけて、自白に追い込む技術はプロのものだ。この映画の青年はよくぞ自白を拒否したと思う。日本の裁判劇はだいたい被告有罪で冤罪が晴れることなく終わるが、ハリウッドの裁判劇はたいてい被告無罪の冤罪事件として終わる。ここになにか本質的な人権意識の違いを感じる。日本では裁判に関わること自体を忌避する傾向が強く、判事や検事を自分自身の代理人だと思っていない人が多い。市民が自分自身で裁判を行って人を裁いてきた米国は現在でも判事は市民投票で選ばれる。ここにデモクラシーの強靱な人権意識がある。
 最上段に座って市民を見下ろしながら裁判を行い、判決を下す法廷風景すら疑問を感じていない人が多い。すでに欧米では判事と検事、弁護士が円卓を囲んで裁判を行う法廷になっている。陪審員制度が日本にも導入されるが、こうした裁判制度の違いを放置して陪審員制度だけを導入しても、判事の意向通りに挙手する市民が多いのではないか。
 「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜を罰することなかれ」は「疑わしきは被告人の利益に」という無罪推定原則に発展するが、日本では被害者感情を極度に評価して情緒的に流れやすく、つい前までは容疑者は呼び捨てにされていた。日本で最も民主化が遅れた分野が司法分野であり、かっての「天皇の判事」が「市民の判事」に転換したにもかかわらず、判事の多くは自分が市民の代表として市民の被害を救うという本質的職務にあることを自覚していない。それはあの治安維持法で大量の死刑判決を出し、この世から正義と無実の政治囚を処刑した判事、検事、特高警察はなんら責任をとらず、戦後司法に横滑りしたのだから。
 それにしても周防正行監督には敬意を表する。彼は日活ピンク映画から出発しながら、国家権力の冷酷を赤裸々に暴露する映画をつくる勇気を持ったのだ。シネマズ名古屋にて。大劇場で観客は8名程度。(2007/1/22 15:18)

こまつ座『紙屋町さくらホテル』
 ウーンなかなか面白かった。戦争末期の終戦工作と移動劇団・桜隊(丸山定夫、園井恵子)の話が同時進行して、天皇制と戦争責任の問題に迫る。憲法改正問題が急展開する現代日本の状況に対する井上ひさしのギリギリのメッセージといえよう。重層的に展開する脚本が煉りに錬って素晴らしい。井上ひさしの現代史の考証がさらに突っ込んであるので、いままで知らなかったような事実が展開する。劇的展開のエンタテイメント性もあり、さすが井上ひさしだなと思わされた。桜隊は原爆で全滅するのだがこの作品では原爆は描かれない。
 戦前の筑地小劇場の話が再三登場し、滝沢修や杉村晴子などいまは亡き俳優や、小山内薫や土方与平など演出家の実名が次々と登場して、そうなんだ彼らはもはや過去の人なんだと実感させる。井上の言葉に対するこだわりと考察もなかなか鋭いものがある。というわけで久しぶりに堪能した演劇でした。会場は中高年男女で満員。名古屋市民会館中ホールにて。(2007/1/18 19:44)

宮崎信恵『無名の人 石井筆子の生涯』
 私はこの映画によって初めて石井筆子なる存在を知った。日本の障害児教育の母と呼ばれる先駆的な存在だそうだ。彼女は岩倉具視の欧米視察団に同行した津田梅子や山川捨松の親友であり、津田は現在の津田塾女子大を創設し、石井筆子は日本最初の障害児学校である滝野川学園を創設した。ちなみに山川捨松は大山巌の妻となって家庭に入った。彼女たちは、井上馨が推進した鹿鳴館外交の日本側女性として煌びやかな才能を示し、おそらく文明開化の先端を行った当時の最上流エリート女性であったろう。日本の女性のなかではもっとも欧米文化の薫陶を受けた知的女性でもあったろう。平塚雷鳥に先んじて男女平等を論じているが、それは最上流階級の博愛主義的な女権論のレベルにとどまった。これは彼女たちの責任ではなく、時代とみずからが置かれた階級的位置の問題であった。彼女たちに自由民権運動に歩み出る可能性を求めることは、歴史の後知恵というものだ。
 石井筆子は輝かしい未来を約束されてスタートしたが、みずからが障害児を産んだことによって暗転し、それを契機に日本最初の知的障害児教育施設の設立に踏み切る。それは素晴らしい自然に囲まれた学校であり、聖公会キリスト教理念にもとづいて労働と教育が統合されていた。黎明期の障害児教育は、健康な壮年男子をモデルとする軍国日本にとっては偏見と排除の対象であり、滝野川学園は良家の子女の知的障害児を対象に受け入れた。政府の支援政策はなく、ほとんどが寄付に頼るしかなかった。こうして日本の障害児教育の初期段階の性格が鮮やかに浮かび上がる。
 それはキリスト教理念による博愛主義的慈善事業であり、障害者の人権等というレベルは全くなかった。石井筆子自身がそのような時代的限界の中で必死に努力したことは映画から充分に伝わってくるが、残念ながらこの映画監督には障害者人権の思想がない。従って石井筆子の思想的限界を描き得ず、その礼讃に終わった。この映画はおそらく筆子の生誕か学園の創立を記念した行事の一環として作成されたのではないか。障害者自身に光はあたらず、その救済に献身する人に光があたっているのである。障害児教育史に興味を持つ人は観てもよいだろう。名古屋・シネマスコーレにて。観客4人。(2007/1/15 16:12)

ペドロ・アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999年 スペイン)
 3年前のスペイン旅行を思い出した。夕暮れの薄暮のなかをバスで空港に行くと、広い道のロータリーに三々五々着飾った女たちが立って、自家用車を呼びとめている。ガイドがあれは売春婦だといい、みんな興味津々で女たちを見つめた。この映画はそうした世界に係わる女性にスポットを当てる。売春婦、ゲイ、麻薬中毒、レズビアン、エイズなどが普通の職業人にひろがって、それを当然にあり得ることとして市井の人間関係が描かれる。日本と違うのは、そうした人がもはや特殊ではないということ、そしてカトリックの影響が非常に強いと言うことだ。エイズに感染して妊娠し、出産で死亡する女性はエクアドル行きをひかえている尼僧なのだ。
 この映画はそうした状況の中で手を取り合って生きる女性たちを描き、かすかな希望を残して終わる。このあたりに米国のような乾ききった痛んだ社会ではない、スペイン特有の共同体が根強く残っているような気がする。ヒマなのでTVを見始めたらちょうどこの映画に出くわして最後まで見てしまった。映像処理と画面転換が素晴らしいテクニックだ。BS2。(2007/1/15 8:52)

E・オルミ、A・キアロスタミ、K・ローチ『TICKETS 明日へのチケット』
 カンヌ映画祭・パルムドール賞の受賞者である3人の文字通り巨匠といわれる社会派映画監督のオムニバス映画といえば見逃せないだろう。私もやはり07年の最初にみる映画となった。会場は中高年男女で超満員。ローマ行きの国際列車を舞台にくり広げられるチョットした物語を通して、じつは一人一人の生きる姿勢の選択と飛躍があざやかに映し出され、終着駅ローマでそれぞれ分かれていく。欧州文化のエレガントさと自我が交錯してしみじみとさせるものがある。こうしたペーソスの漂うストーリーはまるでチェーホフの短編集のようだ。
 しかしこの映画は市場原理に蝕まれる欧州の底流を静かに流れている自由と連帯の社会的欧州の文化があるように思う。軍人に蹴散らされた子どものミルクを再び運ぶ選択をした初老の男、高慢な将軍の未亡人に翻弄される生活から訣別する若い兵士、東欧の政治難民の家族に1枚のキップを渡して逮捕されるサッカー青年は、市場競争に抗おうとしている社会的欧州の願いをくっきりと伝える。逃げるサッカー青年をしょうがないなあ〜といった表情で見つめる鉄道警官も、さすが警察官組合がある国だと思わせる。 
 パレスチナやイラクの絶望的状況と希望を思うことがかくも困難であるなかで、人間の尊厳はささやかな決断の行為を通して守られるーとのメッセージは温かい励ましとなる。戦後民主主義の正念場が近づいている日本でこそ、この映画はペシミズムへの転落をくいとめる意味を持っている。歪んでしまった日本映画と違って、なんでこんなに素朴な誠実さが映画化されるのかと感心する。原題の『チケット』を日本では『明日へのチケット』としている意味はここにあるだろう。名古屋・シネマテークにて。(2007/1/6 19:14)