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| 思えば9月という月は、俺にとっては曰く因縁めいた月でもある。 8歳で家族とはなればなれに暮らすことになった施設入所が9月、その4日後に大酒呑みの親父が死んだことで9・11が命日となった。 新宿で『ロンドン・ドッグス』というつまらない映画を見て帰った夜にはテレビにニューヨークの9・11が映っていたし、バックした車にはねられたのはいつの9・11だったか。 そして去年、一昨年暮れに襲われた腹痛の原因究明も処置もしておかなかった祟りからふたたび耐えざる激腹痛ぶり返し、いよいよ東大病院に救急搬送された日がまたもや9・11であった。 この腹痛、天下の東大でさえ定かな原因は分からない。ただ、しかし、その大病院の医者がサジを投げた激腹痛を、なぜか使い捨てカイロの温め効果で抑えている今日この頃である。 そして、この痛みの第一弾が当エッセーに書き込まれていた。 |
| 2000年12月12日の大江戸線全駅開通は、俺の全生涯の10大ニュースにトップランクされる大事件だった。車いすの行動半径が広がっただけでなく、車いすバリアフリーの概念を根本から覆してしまった。 ある時、三菱総研のバリアマップ調査員と話す機会を得たが、世界中の公共交通機関を視察してみて、東京の大江戸線のバリアフリー度は“世界一”と手放しで褒めたことに驚いた。 なぜ? それが最初分からなかった。 というのもホームドア方式の南北線と違い、大江戸線は自己申告がなければ駅員が付くことは考えられず、いわば介助を求めないかぎりフリーパスであるからだ。そのため、誰もいなくなるホームで何かあっても自己責任となる。これがずっと気にかかっていた。 だが、しかし、今年12月で七周年を迎える大江戸線で、自己過失による事故で死んだ障害者は、まだ一人もいない。 |
| 金があったら映画館なんかやりたいねー。 どうせ客など入らないなら、とことん社会派、抵抗派の映画を見せたい。最近死んだ熊井啓監督の特集なんか組んで、処女作『帝銀事件 死刑囚』から始まって、『日本列島』『サンダカン八番娼館 望郷』から、全然流行らなかった『愛する』などは特集上映したいくらいだ。 車いすのバリアフリーだって? トイレは完備するけど車いす優先席なんてバカなことはしない。左右と真ん中通路をゆったり空けて、どこでも好きなところに入って見てもらう。大画面で見たければ前へ行こうし、視界にぴったりハマりたければそれなりの場所にどうぞ。 それがほんとの映画の醍醐味ってもんだ。 昔はトイレさえ我慢する覚悟なら、どこでだって見られた。それがどうだ、今の世の中は。バリアフリーが聞いて呆れるよ。車いす優先席じゃなくて隔離席だ。あんなものが映画といえるか。小さい画面ならお茶の間映画で十分だ。 |
| ター君、元気かい? 今日、9月7日は、康二おじさんが佐渡から新潟へ、家族と離れ離れに暮らすことになる施設、はまぐみ学園へ入園した日です。もう、昔々の47年も前のことです。 たまの家族と会える面会日は楽しいはずなのに、裏の松林の木の陰で食べるお菓子がどんなに苦かったか想像できるかい? 食べ物の差し入れは規則で禁じられていたからです。 こんなこともあったよ。 腰までギブス巻かれ、ベッドに寝かされている深夜に若い看護婦さんが見回りにきた。布団をめくって懐中電灯の光りを向けたとたん、「キャッ」と声に出して驚いた。 ギブスから出た裸の上半身の、マヒして痩せさらばえたガイコツの身体を見てびっくりしたんだよね。子ども心にショックでした。 そんな経験もあってか、ここに取り上げる映画もおじさんには痛い映画でした。読んでね。 |
| 今でも、その時の手の冷たさを思い出す。 厳寒の2月、施設のまえの馬事公苑一周2キロ近くを、毎朝、夕、車いすで歩くことを課して通勤練習を開始したのである。誰もが根を上げると思ったが、しかし20日間やり遂げた。 根性などと洒落た話ではなかった。敢えて似合いの言葉をさがせば執念だろう。「今度こそは地域で自立してみせる」という決意。施設暮らしの積年の、怨念じみた思いが逆転した反動の所為だろう。 そうして迎えた社会人一年生の春は揚々たるものだった。 夏がきて、秋がきて、また巡ってきた寒い冬にさえなんの苦労もなく、通勤の行き帰りに見るもの、触れ合うことの全てが楽しく、雨さえ友と感じられる充実の日々だった。 そうして一年が経ってミニコミ月刊障害者問題が生まれ、このエッセーが生まれた。 |
| 花森安治という人を知っているだろうか。 花森さんは戦争中、国策に準じて「欲しがりません勝つまでは」など、戦意高揚コピーを幾多手がけてきた反省から、戦後は一貫して庶民の幸せのために戦う決意で頑張ってこられた。 雑誌「暮らしの手帖」で大企業の商品の使用テストなどを繰り返して独自に調査、分析、公表してきた実績を持ち、また、そのようなスタンスから雑誌は一切広告を拒否してきた。 俺はその花森さんの姿勢に打たれ、20代の若い時分から尊敬してきた。 7年間続くことになったミニコミ新聞の出し始め、手伝ってくれた女子ボランティアが俺の花森信奉を知って顔写真の切り抜きをくれた。以来、肌身離さず手帳にそれを挟んでいた。 この花森さんの“精神”はずっとずっと俺の心に刻まれ、その存在意義は揺るぎないものとなり、大企業広告を拒否する姿勢はミニコミに受け継がれ、5年前開設したエッチサイトの主宰方針にまで貫かれているほどだ。 |
| 本作製作に、アラン・ブリガンと共に名を連ねるジャック・ペランは、コスタ・ガブラス監督『Z』でも製作を手がけ、またそこでは主役に近い重要な役どころを演じて印象深かった。 イブ・モンタン主演の『Z』は、ギリシャで実際にあった革新系議員暗殺に端を発し、事件の真相解明に賭ける人々の勇気と信念の気高さを描いた社会派映画だが、ペランの役はジャン=ルイ・トランティニャン扮する若き検事補を助けて活躍する新聞記者だった。 関連作品で心に残るのは、権力犯罪に再び大鉈振るった『戒厳令』(製作、監督ガブラス)で、最近は渡り鳥の生態をめくるめくパノラマ映像で活写したその名も『WATARIDORI』がある。 ペラン自らが総監督し、可愛いい鳥たちと共に飛翔感、浮遊感、躍動する生命のほとばしりを満喫させてくれたこの映画も、タカシマヤタイムズスクエアの大画面で観たのだった。 |
| 『ブレッド&ローズ』を見たのは、東京ではそこしかやってなかったからだ。「重いよ、電動車いすだから無理しないで」というのを、館では快く応じてくれた。 着いてびっくりした。狭い階段。客も少ないらしく、出入りの人影もない。 見上げたところ、階段を上がりきった向こうに座る若者と目が合った。午後に確認にかけた電話をあてにして待っててくれたのだ。 数分遅刻したのを言い訳に「今日はやめます」と遠慮したら、「まだ予告篇だから」と……。 それから3人がかりでお神輿するやら、車いすと分けて先に俺だけおんぶして運んでくれるやら、そうして苦労して見た思い出深い映画となった。 5年前の9月、映画館は改装前のシネ・ラセットだが、今、それがカメラ屋ビル8階のシネカノン有楽町に生まれ変わった。 そして、今度も驚かされた。車いす優先席といいながら、そこは客席最後尾のまた後ろ。階段状通路の構造上、そこ以外で見ることは絶対不可能。つまりは、それがバリアフリーのなれの果てというわけだった。 |
| 野坂昭如の名著『エロ事師たち』を読んだのは1977年のことだった。記録もないのにはっきり言い切れるのは、俺が発行するミニコミ、月刊障害者問題に表題(エッチ)エッセーの連載第一回目が載ったのが1978年1月号だからだ。 『エロ事師たち』は「性の享楽を斡旋演出するエロ事師たちの猥雑きわまりない生態(出版元新潮社の宣伝惹句より)」との内容だが、全編に展開する主人公スブやんの関西口調が小気味よく、それに触発されて一気に書き上げたのである。一人称文体は別に珍しくないが、これを全編関西弁にしたのは佐渡出身者という出自の所以だが、それはなぜか。 おなじ号に障害者が経営する印刷会社(大阪)の記事、「座頭市」役者・勝新太郎と会った記事(京都)が載っているが、京都取材のおり、タクシー車内で交わした関西弁で、運転手から「土地の方か?」といわれたくらい、にわか関西弁が板に着いていたからだが、それはなぜか。 それは“罪人の島”と揶揄されることの多い佐渡には、お公家さんが多く流されたことから土地の言葉に京訛りが混じり、佐渡出身者にとって関西弁は他の方言より真似しやすいという特性があったからだ。 |
| 今年は命日さえ忘れていた。 この親不孝が長い施設暮らしをも含めた子ども心の形成過程の所為なら、その罪は誰が問われるべきか。それとも、これも運命と諦めるしかないのか。二日酔いで正体なくした父の代わりをあくせく働き、おろそかになった子守を(ずっと祖母と思い込むことになった)本妻が務め、それがため子に冷たくしたと思われた実母は哀れといえるかも知れない。 新潟の施設暮らしとなったあとも、母を恨む気持ちは絶えなかった。その際にも理由は深酒で死んだ父に代わって、家業・家計を支えることだから罪はないはずなのに、唯一犯した間違いは、面会日、家業で行けるはずもないのに行くと約束して“子どもにウソをついた”ことだった(これから親になる人にいう、“子どもには絶対ウソをつくな!”)。 10歳になるかならぬかの子ども心は母との再会を心待ちし、よその家族が車の人として、あるいは歩いて我が子見たさに通りかかる学園玄関に立って、朝から夕方まで待ちぼうけた揚げ句、その夜は泣きの涙の哀しみに泣き寝入ったのであるから……。 |
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| オススメリンクにもある[鈴木邦男をぶっとばせ!]サイトの、管理人鈴木さんによる9月3日の「今週の主張」『困難に戯(たわ)むれよ!』は、今や俺の座右の銘になりつつある。 と同時に9月1日からボログ形式で再開した当ホンタが、おのれ自身の“応援歌”となり得て、困難と戯れる習性が再び蘇ってもいる。 〈一度きりの人生。どうせ生まれてきたからにはとことん愉しんでやれ〉(履歴書参照)がモットーの俺は、雨も嵐も神サマが遣わした娯楽要素、おのが人生を少しでもドラマチックに彩る演出要素と思ってきた。それを鈴木さんのエッセーで思い出させられ、自分の過去録で再確認した。「あの時代ですら出来たことを」と、“現在(いま)”に、再び「頑張り」と「元気」を呼び覚ます“喝(カツーっ!)”となり得たのだった。 そして『深刻劇・忠治意外伝』こそは、正しく困難と戯れた典型。29年前の障害者芝居上演の顛末をキャプ画などを用い、同時進行の形をとって紹介・再現する、その第1回目である。 |
| いまの若者にいいたいこと――障害のあるなしに関わらず、すべての未来ある若者にだ。 黄泉がえり、生まれ変わりを信じている奴にはいわない。そんな連中は自堕落にも、好き勝手にも、刹那的にも生きれば良い。だが、「命も人生もたった一つ」と信ずる君に! 俺のブログは、俺の過去自慢や過ぎた日の栄光、感傷を語る目的なんかで始めたのではない。君たちにも、できればこんな楽しい人生を歩いて欲しいからだ。といって難しいことではない。ちょっとした勇気くらいはあるだろう。 アドバルーンを上げる勇気。しかも、それは出来るだけ大きいほうが良い。あとは恥を怖れ、途中で投げ出すことだけはせず、アドバルーン実現に向け一生懸命走り通すだけで良い。 失敗を怖れたり、冒険にひるんだりしてはならない。そんなものは若さでもなんでもない。 そもそもこのヒッチハイクさえ大上段に振りかぶった計画性に基づいたものではなかった。ミニコミ新聞を発行する俺がネタに窮して自分からネタに飛び込んだだけの、おっちょこちょいが飛ばしたアドバルーンに過ぎなかった。 |
| 時代が変わり、世代が変わると、洒落も通じなくなる。というテーマではないが(笑い)、今日のコメントにも説明が必要となる。 李麗仙という1975年に日本に帰化した在日の女優さんがいて、元夫はアングラ劇団情況劇場主宰者としても有名な唐十郎、実子に大鶴義丹。つぎに、バカチョンのバカも差別語なら、チョンは朝鮮を表す差別語である。という2点を説明した上で、これから1つエピソードを紹介する。 ある日のNHK「スタジオ・パーク」に李麗仙さんがゲスト出演した。インタビュー途中、こともあろうに李さん自身が「バカチョンカメラ」と発言した。当然、司会者は番組最後に、「ただいまの放送で大変不適切な表現が……」と平身低頭謝ったが、横に鎮座する差別語発言の張本人は終始「なんのこっちゃ」という顔。これこそ差別語規制のバカらしさだ。 俺の車いすを自転車で追い越しざま、「この身障者めーっ」と罵ったバカもいるぞ。 |
| 雑誌「記録」にはけっこう書かせてもらったが、編集者とはずいぶんやり合った。 「売れない雑誌を現物支給でタダ同然に書かせ、よくもぬけぬけと書き直しを要求するものだ」と、身の程知らずに頭にきたことも多かった。 20年も前、厩橋そばの今の住所に越して来た時、「暮れの12月に火事で焼け出され、車いすの身でアパート探しすることの苦労をエッセーに」と請われ、ここぞとばかり火事の“現場実況”を面白可笑しく書いたら、即、書き直し――。 自信満々だっただけに、あの時ほど不本意なこともなかったが、完成してみるとなるほど通り一遍の“アクション”よりは、心理を重視した情況描写にこそ重みも味わいも深い。「直接描写より間接描写が効果的な時も」と教えてくれたのも彼だったろう。 酔うと正体なくし、痩せさらばえた身の重度障害者を手加減なくどづくとんでもない健常者にして“鬼の編集者”。その彼を懐かしく思い、深く感謝している今日この頃でもある。 |
| ヘプバーンは好きな女優だが、『暗くなるまで待って』はいただけない。どこがというのは忘れたが、盲目のヒロインが暗闇を利用して悪漢どもに反撃するクライマックスはいいものの、その途中の描き方がちぐはぐなのだ。盲人にも勘の悪いのはいるだろうが、ならばラストの大立ち回りもあり得ない。しょせんはハリウッドのご都合主義、ウソ映画ということだ。 ミニコミ障問を通じて佐賀君と知り合ったことは、いろんな意味で俺の人生の収穫だった。それまで違う障害者の生活など、知りたいと思っても迂闊に訊けるものでもない。それを互いの若さであっけらかんと打ち解け合い、知り合うことができた。“共に生きる”思想の大切さを肌で実感し合った意義は計り知れず大きい。 さらに、この青年、勘がいい。盲人としては良すぎるくらいの勘だった。「浅草公会堂で障害者芝居を」それが「座頭市がらみ」とくれば、この男をおいて“メクラの居合いの達人”を演ずる障害者が他にいるはずがなかったのだ。 |
| 過去も今も八代英太はけっして悪い人ではない。いや、むしろ情にも熱く、涙もろい正義感の人であったろう。それがなぜ、自民党という権力の枠に組み込まれることになったか。 車イスの仲間たちの声をバックボーンに福祉党を旗揚げしたのはちょうど30年前――。 だが、力の限界は如何ともし難く、組織力を得て福祉を前進すべく錯覚して自民党入りした。そのことで拠り所となるべき昔の仲間たちからも見限られ、紆余曲折の末に今日の八代英太がある。そのことを誰が責められるだろうか。 かつてはヘルメット、ゲバ棒で機動隊とわたりあい、斬りむすび、巨大権力の人間の壁に立ち向かった新左翼でさえ、やがては権力、大企業の走狗と成り果て、老残の身をさらしている。 そしてそんな彼らを過激派と疎んじ、あるいは敵対した社共勢力さえ、一部名を変え、いまや既得権益、現有勢力の維持にのみ汲々とする老残をさらし、霧消の瀬戸際にあるのみなのだ。 |
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| 山田太一さんと初めて会った29年前も暑い夏だったが、なぜか吹く風が心地よかったような清々しい記憶として残っている。 さすが鍛えた取材精神、車いすと接した第一印象を好奇心に替え、「押させてください」と請われて感激、いい気になったら運の尽き。段差に向かって突進して車いすを転倒させ、しこたま舗道に投げ出され痛い思いを味わった。 自己紹介代わりに送ったミニコミ障問の感想は記事の通りだが、それ以外の話もある。 取材の際、バックナンバーひとそろい、なんの気なく持参したところ、「それ全部貸してください」といわれ、創刊号からの一切合切山田さんの手元に渡して帰ったのである。 テレビ史上あまりにも有名な、そしてまた、やがては障害者福祉の現場での教材にさえなるほどの名作、『男たちの旅路・車輪の一歩』が誕生したのは、その1年後のことであった。 |
| 70年代、部落解放同盟をはじめとする左翼の一部が、“言葉狩り”を手段とする表現の差別糾弾闘争に邁進したとき、「なんとバカなことを!」と怒りが優先して悲憤慷慨したものだ。 彼らはミソもクソもまるごと糾弾の俎上に載せ、歴史上のメクラ、カタワなどの障害者表現をも無雑作に切り捨てて、攻撃したのであるから、時代劇などはウソの塊に成り果てた。 その結果、差別の本質をあぶり出すならまだしも、面倒を怖れたメディアの側は「クサイ物にフタを」「触らぬ神に祟りナシ」で、過剰とも思える自主規制で煙幕を張ってしまった。 当然、大手メディアを媒介とするマンガ、小説、ドラマ、映画などの著名クリエイターの創作欲をも萎縮させ、被差別者の問題それ自体厳然としたタブーとする風潮を作ってしまった。 かくして障害者、被差別者の姿は人々の目から遠ざけられることになったのである。 |
| 障害者映画というと、『典子は今』とか『名もなく貧しく美しく』みたいな、いかにもな映画を挙げがちだが、俺はそんな映画は見ない。第一、障害者になったことさえ不幸なのに、そのうえラストは車に轢かれて死ぬなどという不幸の極致を描く『名もなく貧しく美しく』など、なにを思って作ったか松山善三の神経を疑う。 俺が挙げる障害者映画といえば、『マイ・レフトフット』であり、『エレファント・マン』であり、「座頭市」「机龍之助」である。『裸の大将』山下清の社会風刺眼などは全編舌を巻かされる。彼を笑う周囲こそがバカに見え、最後にはこの国の在り方さえ考えさせられる。 タイトルの「不具者は神だ」とは確か大島渚がいった言葉だと記憶する。この選ばれた神ならぬただの民は、その身に成り代わった不幸を背負いながら、本質的には少しも大事にされていないとは思わぬか。そう反発する理屈も「甘えるな」の一言で切り棄てられるか。 |
| 芝居の公演を終えた1978年10月後半、俺はある目的をもって映画館をハシゴした。 まず、池袋で高倉健主演、薬師丸ひろ子共演、角川映画『野性の証明』を上映する映画館へと走った。といってロードショー本編を観るためではない、添え物映画を観るためだ。 当時、本編まえにニュース映画を上映するのがほぼ通例で、そのニュースの一つが浅草公会堂で上演された「忠治意外伝」だった。一流映画館の白黒シネマスコープの大画面に、自分たちが演じた障害者芝居が映されたのだ! 『野性の証明』は頭少し観ただけで、また別の映画館に直行――確か新宿の洋画館だったが、その開始に合わせてハシゴしたのだった。 このフィルムは16ミリに焼き直して中日映画社から贈呈された。そして近所の福祉会館で映画会が催されるたび添え物公開されたのである。 |
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久々、インターネット市民新聞JANJANの、「本日のマスコミ(28日)」欄にコメントした(以下全文)。 こういう事件があるたび、こういう記事を書く朝、毎、読売はじめ新聞各社の記者は事件にどう感じるのだろう。あ、書かないか。共同の配信か。ならば、読んでと置き換えよう。
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| 障問最初のエッセー『もうひとつの青春』のカットを描いてくれた今岡秀蔵さんは俺より1つ年上だった。その彼が癌で他界したのは11年前。お別れ会での列席者の多さが印象的だった。 理解あるお母さんにも恵まれ、学歴もない俺から見たら“毛並みの良い障害者”との印象が強かった。闘争も理論派だから、突撃敢行ゲリラ型の俺とは何から何まで合うはずがない。 それでも「青春」の挿絵の打ち合わせだけは別だった。八王子まで電話をかけ、原稿をすべて朗読、原稿にない部分は別にやりとりしてさらなるイメージを膨らます。そのため電話代もバカにならないが当然出費はこっち持ちだった。 なにか気の利いたことを書きたいが思い出せない。なにげなくお別れ会でもらった小誌の年譜を開いたら「障害」が「障碍」になっていて、この手のいい替えも先覚者ということになる。 やはり俺とは流儀も住む世界も違っていたようだ。 |
| ミニコミ障問の芝居公演翌月号に寄付者・協力者名簿が載っている。カツラや小道具、衣裳会社が並んでいるのは安くしてくれたからだろうが、芝居前座の歌謡ショーでたっぷり30分、ノーギャラで歌ってくれたなぎら・けんいちさんに至っては感謝の言葉も見当たらない。 しかし、美濃部亮吉東京都知事や内山栄一台東区長はなにをくれたのだろう。 前の年(註:9.25初稿時「3か月前」と書いたのは筆者の勘違い)、特集企画でインタビューをお願いした手塚治虫さんは自筆絵で協力してくれた。 ラスト、忠治捕縛の際、「この者、ホンモノか?」と役人が確認し、「これで御座います」と目明かしが広げる模造紙の手配書(似顔絵)を手塚さんが自ら描いて下さったのだ。その際には「本間さんの右、左、正面からの顔写真を下さい」とマネージャーを通じて伝えられた。 そうして完成した畏れ多い小道具――手塚さん作の俺の似顔絵はどこへ行ったのか。ただ、一瞬だけビデオに映っているのみである。 |
| 日曜12時からのNHK『のど自慢』。あの鐘を鳴らす係っての、ゲスト歌手の持ち時間になると手、縛ってんのかね。というのも、俺だったらうっかり鳴らしかねない。それくらい今の歌手って下手! 素人以下なのが多い。 氷川きよしなんぞ、細木数子ごとき妖怪ババアのオモチャになるくらいしか能のない奴なのに、なぜにああモテはやされるか。出場者の審査が始まり、氷川みたいな奴の歌を聞かされる段になり、あまりの下手さ加減に「いつ鐘が“カーン”と鳴るか」「鳴らされるか」それを思うとのど自慢ほど心臓に悪い番組はない。 おなじことは昔のスポーツ中継などでもいえた。予定していた野球が雨で中止、“雨ガサ番組”として「座頭市」なんか放映される。と、映画のなかで市に投げつけられる悪漢の「どメクラ」「カタワ」のセリフが差別語として無音の口パク状態になる、それが何時か、今かといらざる緊張にドキドキしていたものだった。 |
| 『韓国が死んでも日本に追いつけない18の理由』なる本がある、ということをひょんな機会に知った時、ある韓国映画を思い出した。ただ、その前に『ジョゼと虎と魚たち』という映画を観て「これぞ障害者映画!」と脱帽していた。 「ジョゼ」の直後観た『オアシス』では「本物の脳性マヒ者が主役を張る映画を作る国があるのか!?」と絶句。主人公は緊張痙攣で顔をゆがめ、言語障害の言葉で愛を語る。夢を語る。その彼女が物語の進行途中、車いすから立ち上がり、健常者顔に戻ってミュージカルを歌い、踊る。主人公の願望なのだ。その表情の変化、監督の狙いを知った時、あまりの衝撃に戦慄した。 「ジョゼ」の感動など吹っ飛んだ。しかも「ジョゼ」よりこちらの方の製作が2年若いのだ。 ムン・ソリ(初稿ユン・ソナは勘違い)という女優のクソ女優魂を知ったのも『オアシス』を観たからだ。そして俺は思った。障害者映画では日本は韓国には遙かに勝てなかったと。いや、『オアシス』を超える障害者映画など当分どの国からも出てこないであろう、と。 |
| 29年前、地元浅草公会堂で上演した障害者芝居「忠治意外伝」は報知新聞にも大々的に出たが、果たしてその記憶は正しいのかと疑り、わざわざ国会図書館で確かめたくらいだった。 報知掲載は公演の機会を与えてくれた「下町タイムス」編集長今泉さんの尽力の賜物だろうが、取材のマイクを向けられ「もっと差別語を喋ってくれ」といわれたのには驚いた。 小田急問題で車いすの一人乗車を拒んだ私鉄に抗議デモをかけた時、「シュプレヒコールで企業名を連発する部分は変えられないか」と横合いからちょっかい出したのはNHKだが、こと「忠治」に関して取材はなかった。 差別語=座頭市というイメージがNHKの放送コードに固定化されているようだ。たいていの映画作品を放映するNHK衛星第二で、「座頭市」が放映されたという話は今の今まで聞いた試しも見た憶えもない。 |
| やがて、いずれ、そして遠い将来、インターネットで超過激なSM小説サイトを立ち上げる俺が、こともあろうにその時、性教育研究の雑誌にエッセーを書く身であった。 そのいきさつは忘れた。 しかし、「車イスでガールハントを」との発案は俺自身だった。3年前、ヒッチハイクにチャレンジしたくらいだもの、女の子に声をかけるくらい、わけもないものと高をくくった。 人の海。人の洪水。その中の一人くらいはなんとか――そう発奮して、若さと気負いにまかせて一歩車イスをこぎ出した。 「ねえ、僕と、お茶飲まない?」 その一言が出るまでにどれだけの時間を要したか。そして、その一言を発する勇気を、他の人生のどの部分の最大勇気と並び称せるか。 青春とは、かくもいたましい瞬間でもある。 |
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ミニコミ「障問」1978年正月号は、ボランティアを連れての京都取材の成果で埋められた。 *16日公開予定の「忠治」公演記は都合により延期します |
| 1998年8月にウェブ版ホンタを開設して後も、ある時期までは紙媒体ホンタ(1995年5月創刊)を続けていた。親しい友人知人始め100人ばかりに手配り、郵送を経て発信していたが、その経費はバカにならず、時に印刷費は2万円に及ぶこともあった。 なぜ、そんな(今にして思えば)無駄なことを! 直接顔の見える相手から手応えがもらえるという勘違い、また、仕事柄活字の体裁にこだわるという箸にも棒にもかからぬこだわりがあったからだ。 本稿もまた映画論に類するページだが、『映画「エレファント・マン」研究』でもお分かりのように、ネットのすぐれて便利なところは、紙媒体と違って画像は手軽にゲットして配置できるし、他サイトとリンクして情報にさらなる厚みを加えられることだ。 正にインターネット恐るべしである。これを活用しない手はないのである。 |
| きのう、ウェブ新聞で[神奈川県平塚市のスーパー「西友平塚店」で小学三年の男児(9つ)がエスカレーターの手すりとアクリル製の固定式保護板とのすき間に頭部をはさまれ]るという記事(東京新聞=重体となった子は今日になって意識回復と報道)を読んだ時、俺はとっさに自分が発行していたミニコミの記事を思い出した。 人間優先の社会めざす――と、大上段に謳ったスローガンのもと生まれた月刊障害者問題の創刊号トップ記事が、まさにこのエスカレーターに焦点を当てたものだったからだ。 |
| 小林稔侍が好きで土曜ワイドの「炎の警備隊長」シリーズも見ているが、主人公の部下のガードマン役・小泉孝太郎が元首相の息子だなど「オーラの泉」に出るまで知らなかった。番組では当然父親についても訊かれ、彼はあたりさわりなく答えたように記憶する。 そこで仮定だが、たとえば彼がイラク戦争反対の立場だとしたらどうだろう。のちに酷いバッシングとなったイラク人質事件。その際、小泉首相(父親)の冷徹な対応――米国に追従して武装勢力の要求を即はねつけ、“人質見殺し”を決断したことに批判的だったとしたら……。 権力の提灯マスコミ・芸能界では発言を中止されるか、あとで役を干されるのも必定。だからといって役者生命のため沈黙を貫き、あるいはウソをついたとしたら彼はそれで自分の意志も人間性もねじ伏せ、封じ込めたことになる。 大島渚はいつかの「朝まで生TV」で役者を河原乞食といわれて激怒したが、先の「もしも」を例外としても、今の日本には乞食以下の芸能人がほとんどだ。というのも…… |
| グーグル検索で「車いす 映画館」と打ち込むと、いまでも旧ホンタの[車いす映画館ガイド]のページが出てくる。“東京は俺にまかせろ!”と豪語して始めたバリアフリー映画館マップを付けた情報ページだったが、いまでは忸怩たる思いを禁じ得ない。 映画館業界は、ほんとうは車いすを厄介者として一定スペースに閉じ込め、「優先席」などと体のいいことをほざいたのではないか。人権・在日がモットーみたいなシネカノン有楽町の車いす席を見るだにその感は強い。 このたび、既存ページのマップを取り払って以下のコメントを告知した。 ――いつかそう遠くない将来、このコーナーを『車いす隔離映画館ガイド』として刷新、再開設、映画館業界の車いすバリアフリーの欺瞞と偽善を暴きたてることをお約束する。 |
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●●告知●オススメリンク、[反米嫌日戦線「狼」]の、一昨日付更新記事『障害者が語る「障害者はキライです」』で、主宰者死ぬのはやつらださんと俺との対談が載っています。面白いので是非読んでつか〜さい。 |
| ある時期、誰彼かまわずこう言ったものだ。「俺の人生の大半は施設暮らしだった」と。転々と入退所を繰り返し、それは延べ10余年に及んだ。だから、あの馬事公苑一周も「今度こそは」という執念だった。 職員の誰もが途中で音を上げると思ったらしい。なにせ厳寒の2月である。手は凍え、実際都心で雪が20センチ積もるという異例の冬でもあった。それをほぼ毎日、延べ20日間以上も頑張り通したのだった。 俺がなぜ罪を犯さないか知ってるか。それは塀の中がイヤだからだ。自由のない身など真っ平だからだ。なにせ施設を刑務所と思っていたくらいだ。もちろん刑務所はそれ以下に決まってる。だから罪など犯せるはずがない。 地域に生きる、施設ではない世界の人と交じる、それがどんなに素晴らしいか。その大切さを施設暮らしをしたことのない人たちのどれだけが噛みしめているだろうか。 |
| オフクロが脳梗塞で倒れた時、昏々と眠るICUまえで兄たちと相談した。医者は家族の同意次第で、ある時期から先の延命措置はしないとのこと。俺たちはそれに同意した。 高血圧でもあったオフクロはどんなに周囲が勧めても頑として医者には行かず、「もういい」といって人生を諦めていた。それら生前の情況を考えての家族の判断であり、いかなる世間の非難にも応えうる家族としての決断だった。 カレンの家族たちのずるさは、その判断を法律に委ねようとしたことだった。そして、そのカレン裁判の顛末は、情理よりは合理というアメリカ的特性を端的にあらわしていた。 |
| 月刊障害者問題は1976年5月に創刊された。それが朝日新聞東京版で報じられた時の反響の凄さは、仕事から帰ったあとの自宅の三畳間の電話が落ち着く間もなかったくらいだ。 時代は新左翼運動やウーマンリブ華やかなりし頃――『もうひとつの青春』の連載の後、野坂昭如の『エロ事師たち』の語り口に触発されて書いた『男の劇場』は、先の「青春」とは内容も文体も一変、障害者の性を売り物にした娯楽路線といってもいいほどのものだった。 これは他のページが問題意識に溢れた内容だけに“障問のオアシス的存在”と称せられたりもした。そして不思議なことに、まっこと不思議なことに、「男の論理」満載のこの軽薄調エッチエッセーに、心配されたリブからの抗議はなんら無かったのである。 |
| 大人になっても施設を転々としていたため、映画をじっくりと見られる環境になったのは1970年も後半の頃だ。だから「座頭市」はテレビの雨傘放送(ナイターが中止の場合の代替え番組)でしか見たことがない、したがって差別語抜きの“純粋無菌時代劇”であった。 それにしても、映画の「座頭市」の初回、第二作、三作の暗さはなんだろう。ある時期、シリーズ最初の頃の作品群を吟味する機会に恵まれ、「あっ」と驚いた。なんと、「座頭市」の初期3作までは主役のメクラだけでなく、重要な脇役までが片手、チンバという世にも稀なる障害者映画だったのだ。 |
| 俺は、ホントに地震恐怖症なんだと思う。新潟地震は俺の心に消せないトラウマを植えつけたのだろう。自分史はもちろん、障問でも新潟地震の記事を書いているくらいだ。 阪神大震災が起きて、障害者の被災体験記は珍しくないだろう。そっちのほうが、ずっと生々しいに違いない。 でも、これはこれで面白いと思う。障害者が、来るべき“悲劇の到来”をまえにしての不安、怖れ、想定を語っているのだ。 創刊1年とちょっと。固定読者も増え、そのなかから障問ファンも生まれた。さらには個人的施設仲間、運動仲間、そういう人々とのネットワークによって、この声は構成された。 |
中国の偉人、あの周恩来ですら偉くなるまえは三畳間に暮らしていたことがある、ということを知って三畳間もまんざら恥ずかしいものではない、そう思うようになった。その三畳間の写真がでてきた。 撮影は吉野さん。タクシードライバーしながらも好きな写真道具一式持ち歩き、これはという被写体にぶつかると、客を置いてもカメラ片手に飛び出すという猛者でもある。 |
| 障問有名人シリーズは売らんかな精神で、障害者問題に関係したタレント、放送作家などにインタビューする企画で、これを実現したのは、昨日ちらっと登場した12チャンネルのディレクターからの助言も幸いしている。「お酒の1本も持参すればいいと思うよ、趣旨が趣旨だからめったに断られることはないと思うよ」と。 当初、「突撃対談」と題し、タダにもかかわらず(その弱みに臆することなく)辛辣に、明解に突っ込む方針であったが……(恥)。 そして、ミーハー丸出しの対象もあった。 最近、この人の名前をグーグル検索し、いまをときめく超有名芸能週刊誌・平凡パンチにからんで出てきたことから、なるほどアイドルだったのだなあと、しみじみ再確認したしだいである。 |
| 家まであと300メートルくらいのところで、配達途中のヤクルトレディに声かけられた。だいぶ先だったが、予定のコースを変更して案の定追いつけた。鼻の下を伸ばして顔を向けたものの、意地汚い気がして追い越し、渡らなくていい信号まで渡った。 先でまた信号を渡りなおし、銀行のATMで金を下ろして我が家のあるビルの入口に着いた時、通りの向こうからさっきのコが来るところだった。この辺が担当なら、巡り巡ってこうなる予想もなんとなく感じていた。 と、その時唐突に、対空射撃の際の「未来修正量計算」という言葉と共に、ベトナム戦争に関し“ロック”署名で書いた記事を思い出した。 初出は2003年5月。イラク戦争勃発2か月後。「アメリカ許すまじ、黙ってられん!」という気概満々のこの一文である。 |
| 栄作と俺とは8歳で入園した施設はまぐみ学園時代からの仲で、いわば幼なじみだ。 3つ違いの俺が年上――。 1970年は赤坂・ネコ坂下のアパートに住み込み、夜と昼を逆さにしてTBSの台本のガリ版切りに明け暮れしていた時期でもある。酒がダメな相手じゃ呑み歩くわけにもいかず、黒澤明の映画『どですかでん』をいっしょに観に行った以外はなにをしてたんだろう。 森進一を雇ったこともあるという(ことが自慢でもある)オヤジ経営の近所のラーメン屋へ行き、「おまえ」「お主」と呼び合って子ども時代を懐かしんだのが昨日のことのように思い出される。 |
| 吹く風にも冬の到来を間近に感じさせるこの時期、そういえば仁木悦子さんの通夜に出かけたのもこの季節だったのでは――そう思って調べたら1986年11月23日が命日とあった。 歴史上有名な障害者の『開きなおりの系譜』をミニコミ障問に連載してくれた、障害者運動の大先輩でもある二日市さんを訪ね、その奥さんである仁木さんの手料理をご馳走になるという過分な余禄付き。 なんの勘違いか「本間君は小説家になる器。芥川賞も夢じゃない」が二日市さんの口癖だったが、その小説の指導を仁木さんから受けたということはもちろんない。 ただ、「いい小説は朗読しても通りが良い」が持論で、「試しに読んでごらんなさい」といわれ、持参したSM小説を読まされた時ほど恥ずかしいことはなかった。 それも今では、仁木さんを偲ぶ良き思い出の一つである。 |
| 11月22日のヤフーテレビ番組欄。テレ朝が3時から放映する再放送ドラマ部分に目をみはった。「ビートたけしvs松本清張“点と線” 24日25日放送まで2日!」のクズ前置きはともかく、驚いたのは本タイトル「熱い空気・家政婦は見た! 夫婦の秘密“焦げる”」――。
脚本柴英三郎、主演市原悦子とくればあの『家政婦は見た!』、しかもシリーズ化されるまえの記念すべき第一作では、本タイトルが内容を暗示する長ったらしいサブの一部でしかない。しかも原作が松本清張という二重の驚き。 ファンなればこそ「すわ、ここぞ!」と期待の一瞬。が、このところの再放送ドラマの酷さはCM後再スタートする際の数秒にわたる額縁状“特番告知”。「○○放送まで、あと×日!」「スポーツ××、いよいよ○日!」などと本編を土足で踏み荒らす所業に、せっかく録画して保存する気もたちまちにして失せるだろう。 |
| 大滝秀治は名脇役である。 彼が「やずや」のコマーシャルに出たとて、一回きりなら目を瞑れる。あの人の良さだもの、「役者はCMなどに出るものではない」と思っていても、しがらみやなにかから一度くらいは誓いを破らねばならぬこともあったろう。 もちろん、彼ならトーク番組出演だって許せる。人生の先達の滋味あふれる体験談は、心を豊かにする栄養素にはなっても、決して芝居やドラマを貶めるマイナス面にはならないはずだ。それが証拠に、往年の彼の演技のその悪役ぶりをとくと見るがいい。とても同じ人物とは思えない。 役者とはそういうものだ。 そしてそういうホンモノの役者が随分いなくなった。 役者と共に、ドラマを、芝居を殺す黴菌が今の日本にはうようよ蔓延(はびこ)るからだ。 |
| 石原慎太郎のいくつかの妄言を聞いたとき、とっさにある人物を思い出した。 29年前、太田典礼氏はインタビューに赴いた車いすの俺を見下ろし、「(社会のお荷物である)障害者は遠慮して生きなさい」と言ったのである。石原の思想もこれと同じである。 おのれ自身障害者で、その身内同然の人に苦界に身を沈め、産まず女となった者がいるという俺が、「ああいう人たち(障害者)に“人格”はあるのかね」「西洋では“安楽死”につながるんじゃないか」また「女が生殖能力を失っても生きてるのは“無駄で罪”」などと聞いて怒らずにいられるか。 その都政に2期8年。そして、いまもそこに傲然と君臨している。そんな政治とはなんだということでもある! |
| 1983年1月。重度障害者施設・島田療育園での座り込みの際、俺たちは実力行動の主戦力から障害者の伴侶、介護者以外の健常者を切り離して不参加とした。そのため、地元多摩の市民グループのおばさんたちでさえ、最後まで炊き出しの後方支援に徹した。これは“青い芝方式”といわれる障害者の戦法である。 なぜなら、司法・権力はもとより、世間は障害者のことなど半人前としかみなしていなかったから。障害者主体のデモでも真っ先逮捕されるのは健常者と決まっていたから。 あの30年前の川崎のバス占拠闘争の際のテレビ報道でも、不自由な口で抗議する車イスの女性に対し、「おまえの言ってることなど分からないんだから黙ってろ!」と恫喝した市民(一説には私服刑事)がハッキリと映っていた。 |
| 勤めた印刷会社が倒産した後のミニコミ製版は、就職前の施設で同期だった知人のタイプ屋に頼み、月1、地下鉄を使って荒川の手前の北千住まで車イスで通っていた。 が、そこも都合で頼めない時があった。 しかたなく、さる印刷屋を頼った。 タイプがなかなか上がってこない。せっついてものらりくらりと逃げられる。いよいよという段になって社長が答えるには、奥さんのタイピストが「こんなの打てない、女性の冒涜!」と怒りに燃えて取り付く島がないとのこと。その問題の部分が今回『男の劇場』だった。 驚いた。初めて具体的、且つリアルな“女の逆鱗”に触れた。 では、ウーマンリブでさえ批判しなかった手加減、手心、大目は何だったのか? それも障害者への同情(逆差別)だとしたらと、しばし複雑な気分に陥ったものだった。 |
| 今日は、俺にとっての、或る記念日――。 たとえば明日、日本がパールハーバーを奇襲し、アメリカに宣戦布告した日であるということなど、この際どうでも良い。 では、あさって、国連で「障害者の権利宣言」が採択され、名目だけの国際障害者年を記念して設けた障害者の日だなど、もっとくだらないことだ。土台、お上が障害者を敬ったことなど一度もなく、また世間の大方は障害者をあたりまえの性とみなしてないのに、記念日だけ設けて表向き大事にするなどクソ食らえ! アホか。 それよりなにより、今日12月7日は俺が火事に遭った日なのだ。時に1986年。21年前である。 予感は何もなかった。ただ、その年はずいぶんいろんなことがあった。利き腕に痺れが走り、腹具合の不調著しく2週間の“革命的”酒断ち。夏には生まれて初めてパーマをかけ、ギャルに大挙囲まれてのボランティア合宿。その直後には交通事故まで経験した年――。 |
| つい、このあいだもNHKが集金に来たが、「何度来ても払えない、訴えるなら訴えろ、望むところだ」と言って追い返した。 「アンテナを付けたら見るものと判断、払うのが義務」というのは間違ってないか。 俺は、ほんとうに土曜の昼休みにやる仁鶴の『バラエティー生活笑百科』以外は、ほとんど見てない。ちなみに、コレに出ている弁護士の一人、小島幸保さんのファンでもある(嬉!)。 それはさておき、そのNHK衛星第二で、今日から三船敏郎の映画特集をやる。 三船といえば『七人の侍』はじめ、黒澤映画ではお馴染みの顔だ。他の監督のチャンバラにもずいぶん出ている。ラインナップを見ていたら、過ぎ去りし日の映画熱がよみがえった。 すまん、NHK。また、タダで見るぞ。m(_ _)m |
| 今日は大江戸線が開通した日、7周年! 平成12年(2000年)12月12日開通と「12」ずくしの大江戸線は、そもそもは都営地下鉄12号線というのが正式名称で、それじゃお堅いからと愛称を募集したら、「夢モグラ」なんてのが1位になり、都知事が横ヤリ入れて「大江戸線」になったとかどうとか、そんなことはどうでも良い。 答申が1972年。免許取得が74年と、俺が小田急闘争やってた73年にまたがって話が浮上し、「地下鉄にエレベーターを付ける会」も出来、障害者の運動と連動してバリアフリー化の伏線も早くから蠢動していた。 この大江戸線の、俺の人生に対する影響度は「生涯の10大ニュースのトップランク」に入れてもおかしくないほど大きい。その神様仏様大江戸線の7周年を祝し、今日は『もうひとつの青春』から電車ネタを2つ送る。 |
| 今日、12月14日は、待望久しき熊井啓監督の映画DVDが初発売される日である。 毎度「今日は」「今日は」と今日は記念日連呼に忙しい小泉今日この頃(笑い)、今日という今日ばかりは今日力、じゃなかった強力にオススメ! といって日活の回し者なんかじゃないよ、一銭ももらってないよ(笑い)。ちなみにアマゾン注文した単品2作、夕べ届いた。 紹介記事のまえにヤバイ話を一つ――。 高橋惠子といえば今をときめく映画監督夫人だが、陰毛など御法度の時代、熊井作品『朝やけの詩』でヘアヌードを披露した。その生写真を某新聞社の記者の抽斗から拝借して、俺が勤めていた印刷会社の同僚が大量印刷したことがある(怖!)。それを売ったのか儲けたのか忘れたが、引っ越しの際に怖くなって処分したことだけはよく憶えている。 あの1枚でもどこかに残っているのだろうか、それを思うと今でもこの胸がドキドキする。 |
| 俺たちはベトナム戦争を、これまでどんな映画で知ってきただろう。 戦場描写では『プラトーン』『地獄の黙示録』『フルメタル・ジャケット』等、戦争後遺症としては『帰郷』『ディア・ハンター』『7月4日に生まれて』『タクシードライバー』等、バカバカしいところでは『ランボー 怒りの脱出』と、それらはすべてハリウッド製ベトナム戦争“娯楽映画”だった。 かくして、侵略国アメリカのご都合主義によるちょっぴり正義、たっぷり勘違い、そしてほとんどがデタラメのベトナム戦争映画を見せつけられることになる。 それは実際の戦争行為により200万の尊い人命を奪った上に、今またベトナムの心を殺すという二重の戦争犯罪を犯していることにほかならない。そしてそれを無批判に見ているわれわれ日本人も、再びの加害責任を負うということなのだ。 |
| 今年も残り少なくなった。 机の上ではこの時期、ディスカウントショップで見つけた千円のミニツリーが、別買いの電飾をピカピカさせてお役目をこれ務めている。 独り身の閑散、閑居を盛り立てるためならクリスマスだって利用しちゃう。おまけにこの近辺には我が誕生日も控え、鳥モモに切り株ノエルのデコレーションを付けて祝うが、これも10数年、ミニツリー、電飾の年齢とおなじだけ欠かさず続けてきた我が家の恒例行事だ。 さて、皆さんにお読みいただく障問ネタも、歳の暮れにふさわしい内容になるかどうか。まずは「障問最初の8か月」と題した日録を、1976年5月創刊以後の、内外の障害者関連の切り抜きを添えてお送りします。 |
| いまのマンションに越してきて去年で20年。人が一度住んだその地域に馴染むのに10年と考えれば、なるほど20年は大変な長年月。 それを若いボランティアなど「カッコいい」などとほざきおった。冗談じゃない。非常口の縄バシゴを見て暗然としたものだ。 さっそく消防署に電話した。 「いざ火事となったら何分で助けられるか」 「ビルがメインストリート沿いなら窓を割るなどしても15分。それだけで十分」と太鼓判。 さっそくデパートに、目指すは災害用品コーナー、それ以外は目もくれなかった。 そして翌日から我が家の救急用品に、懐中電灯や消火器と共に酸素ボンベが加わった。1本の吸入時間が5分、消防署のいった15分にするためと同じものが3本。8000円が24000円になっても、金に代える命はないと当時は何の痛痒も感じなかったものである。 |
上野松坂屋の某ケーキ屋さんが切り株デコレーションを売り出した(画像、ツリーの横)が、小さめの冷蔵庫にはこれがぴったり。誕生日がクリスマス近辺なので、こうして兼ねて祝っている。もちろん一人でだ。侘びしいなんてとんでもない。この歳になれば、誕生祝いなど一人だからこそいいのだ。 気張らず焦らず、去る年来る年を思うこの時期がいちばん好きだ。 ボログも今日から歳末企画として、こだわりの記事で通したい。 |
| ピンク・レディーとキャンディーズ。 どういうわけか俺はキャンディーズのほうが好きだった。スタイルだって巷間ピンク・レディーに評価は高かろうが、俺はグラマーとか、健康優良児タイプというのも好きじゃない。 電車などへの車イス単独乗車で、手当たり次第見ず知らずの通行人を捕まえ、にわか介護者に仕立てた年季がものをいう、その面相判断からもピンク・レディーの顔は良くなかった。 果たせるかな20年、30年後の今、テレビ役者としての真価はどうか。増田恵子、ミーよりかは、伊藤蘭、田中好子の方が演技においても人間性においてもはるかに上には見えまいか。 何によらず出自・進退は大事ということだ。 |
| 佐渡の実家は、実の親父が酒で倒れるまえは、まだ裕福な方だったのだろう。テレビも早くからあった。皇太子(いまの天皇)が美智子妃と成婚した際のパレードも見た記憶がある。 『月光仮面』は、「マンモスコング」を見たか否かで裕福度が分かれるようで、元祖『ゴジラ』をテレビで見た時、リアルで見るはずがないコレが懐かしかったのも「―コング」を見ていたことによる。 一億総白痴化と揶揄されたテレビ、その白痴化は今年2007年において完成された。 スポーツ熱に浮かれ、1日2日の賞味期限切れで騒ぎ、なにがいいといえば思考も判断も停止して一斉におなじ方向に走る、走る。そのくせ反テロ法だの(バカか)、インド洋でのタダ給油だの(アホか)、無為無策無駄な税金使いの国会会期延長、それら重要問題をきちんと報道しないテレビへの国民総体の無頓着という驚愕(キチガイざた)! こんな大バカは日本くらいだろう。 |
| 9月から始めたボログ・ホンタ。今年も残りわずか。いろんなことがありました。 警察のガサ入れ、腎結石と膀胱炎の痛み、こともあろうにバリアフリー車イストイレの便座から落ちたりと、ちょっと見には痛いことだらけだった。しかし、ネットを通じて志を同じくする友だちの輪ができるなど、概していい印象が強かった2007年。 今年の年賀状に「命のレジスタンス元年」と書いたが、正にそんな一年であり、今後、加齢、体力の衰えと共に、ますますその様相が強くなろう。しかし、と思う。 『葉っぱのフレディ』ではないが命はいつか終わるもの。生きるも一人、死ぬも一人、その時が来たら「よく頑張ったね」と自分を褒め、「御苦労さん」と自分を労い、安らかに幕を閉じる。そんな悔いのない命にするため、また来る年2008年を精一杯生きていこう。 |
| 一昨日、去年の12チャンネル正月時代劇『忠臣蔵 瑶泉院の陰謀』を録画しかけたが、あんまり人の命をバカにした発想――女の怨みに武士の義挙・義心(これも愚かだが!)を利用したということか!? と早くも合点して止めた。 というよりも、この枠はいつからビデオ撮りになったのか。『水戸黄門』含め、時代劇をビデオでやるようになってはおしまいだ。 そういえばこの時期NHKは、一年の出来事「ニュースハイライト」を放映するが、体制べったりの今の死に体を別としても、この番組はとっくの昔に死んでいる。ビデオ撮りになってニュースから緊張感も切れ味もなくなったと思うのは俺だけだろうか。 垂れ流しで撮れるビデオなどはダメに決まってる。NHK大河など誕生の初期からダメだったということだ。 |
| 「あけおめって、バカかおまえら」ってタイトルで、今朝、某ネット仲間の掲示板に以下コメントをした。 ――○○さん、明けましておめでとうございました。俺に喪中欠礼はケツ礼しました。みーんな出しちゃいます。それで感謝されたことありマン。「今年は1枚も来ないと思って寂しい思いしていたのに」って。 それにしても「あけおめ」ってなんだい? いうなら心を込めてちゃんといえ。面倒ならいうな、バカが、と思う。 そりゃそうと、さっき煎餅食いましたよ。ちょっと変な味だった。賞味期限を見たら……1月13日、おー、ずいぶん買ったままほっといて心配だったけど、ぎりぎり手前。危ないとこだった、って、ほんとは消費期限10日過ぎたスーパーの惣菜だって食べてるけどね。 あれ、2007年1月って、今年は2008年だろ? なんか、めまいしてきたナ…… |
| いつの頃からか、記事のような年賀状を出すようになった。あたりさわりのない、全部がおなじ印刷文面など虚礼に過ぎぬとも思い、数行の私信も付けてある。 しかし、それでも年賀状はいいものである。来るということは印刷であれ、手書きの署名だけであれ、生きている、すくなくとも年賀状を出す意志はある証拠なのだから。 きのう、「忠治」にも出演し、障問にも販売活動やなにかで協力してくれてた仲間の訃報を知った。まだ50代。癌だった。 それだからではないが延び延びだった『座頭市と忠治意外伝』がいよいよ上演(といって著作権上動画配信はまだ無理だが)の運びに――マニュアル読みの苦手から腰が重かったものの、暮れにようやくキャプ画ソフトの起動・設定に漕ぎつけたのです。 もう、それほど待たせず更新します。ご期待乞う! |
| 「永さんは障害者が嫌いなんだな」と思った。俺も思いは同じだから分かる。 障害者が嫌いで、なおかつ自分が連なる健常者も嫌いだった。それが「顔の長いのも障害者」という譬喩に繋がったのだろうが、顔の長いことで、どんな社会的制約や差別を蒙るというのか。そこに永さんの浅慮があった。 だが、今となってはそれも許せる。 障害者、健常者共に立場が違うなら考え方が違うのも当然。それを安易に分かる、理解できるというからペテンに聞こえる。永さんが間違っていたのもそのことだと思う。 いちばん大事なのは違う他者を真底認め合うことができるかどうか、その一点に尽きる。やっとその真理に到達した今、こんどこそは永さんと腹を割って話し合えるのだろうか。 |
| 32年前―― その夏、無謀にもチャレンジした、車イス単独による列島縦断ヒッチハイク。結局、ただ一人の“トラック野郎”の善意に助けられただけで、あとは電車で回って旅した。 金沢の町で往生した。歩道の段差が、なんと敷居状となって手漕ぎの車イスを難渋させた。他の地方の町でも歩車道の段差には悩まされたが、あんなのは初めてだった。都会の人情の希薄さに、設備はなくとも人情は地方が上と思っていた俺も、あの時ばかりはつくづく歩道の段差をスロープにしてある東京が恋しかった。 スマイルが福祉バラマキと後に批判される美濃部都政の全盛期、都会はどこも歩道の段差が削ってあった。その中で厳然と最後まで段差を残していた町が銀座だった。 |
| つい先日、もう一つサイトに上げる小説完成に、久々一人宴会とばかり禁酒を解く。 昼間、最後の推敲にだらだら電車に乗った。環境が変わるとパソコン画面では見えない粗が見えたり、逆に思わぬ発想。だからそんな推敲法を散歩じみて活用していたからだ。 そうして遠征した駅前スーパー。たまの贅沢ならと手に取ったカニ刺しに「え? これカマボコなの? まるで本物のような」1パック299円、「ええ、そうですよ」と答えた売り子の可愛いさに釣られ、その後は「これは中落ちで」と、さっきのねえさんとは歳も器量も中落ちのおばさんのお愛想にほだされ、切り落とし刺身598円とセットで買った。 「おお、今日はずいぶん安く上がったなあ」と一人ごちて祝杯。これが大感動! カニかまがこれほどとは……「うめえーっ、めえめえ!」思わず叫び、さて今年の干支はなんだっけ未年じゃないぞ、あ、ネズミか。 それで思い出したのが、この話…… |
| かつては「施設解体」などという勇ましい論があって、俺なども当然そちらに与した口だ。「なぜ施設などに甘んじるか」「なぜ地域での自立を選ばないのか」そういって施設入所者を厳しく批判してきた。 それが今、加齢による障害の重度化を不安視するあまり、60になったら、いや、今この年齢であっても入れるところはあるのかないのかと、あれほど嫌った施設探しに汲々としている自分にはたと気づく。 30年ほど前のミニコミ月刊“障問”に載った先達のコメントを読み返して愕然としている。おなじ障害者といいながら、どこがおなじなものか。運動を前提とした人々はいざしらず、単に野次馬でしかなかった俺など、本質は少し恵まれた傍観者に過ぎず、施設がどうのと批判する資格などなかったはずだ。 |
| ……それにしても、俺の「施設」に対する拒否反応は相当なものだった。 ちなみに、これまでボログで書いた、いわゆる(ありもの障問をほぼそのまま流用した)古ネタではなく、リアルコメントとしてのトップリード63本のうち、“施設(収容・隔離とも言い替えられる)テーマ”がどれだけあるか数えたら16本。けっして少なくはない。 そして今、深刻に思う。「寝たきりになったら」「その時、また施設の“壁の中”に閉じ込められるだけの生活になったら」――その“もしも”は“悪夢”でしかない。 |
| 「施設」と「寝たきり」がセットなら“地獄”かも知れない。といって、それも健康のうちだからいえること、という分析はさておいても、その悪夢がそうでもない情況もある。 いまもそうだが、いま以上働くことにあくせくしていた頃、外から舞い込む仕事がパタリとなくなり、生活不安に汲々として、ふと気がつくと施設のベッドの上にいる。 プライバシーもない大部屋でテレビを娯楽に過ごす毎日。気ままでいい暮らしだ、何の心配もないし今夜の夕食はなんだ、そんなことを考えている時に目が醒め、夢と気づく。それが全然悪夢でなかったことに愕然とする。 施設とはそんな一面も持っているのだ。“ぬるま湯”といわれる所以でもある。 |
| この『もうひとつの青春』というタイトルは、当時テレビ放映されていた山田太一さんのドラマ『それぞれの秋』をベースに考えついた。 なにげない日常を、淡々とした日常会話でつづる独特の山田ワールド――緩慢で心地よいドラマの流れに身をまかせつつ、同世代の登場人物たちとの時間を共有しているうちに、やがてこのエッセイ執筆へと雪崩を打った。 人は誰でも、自分の人生をモデルに1本は小説なり随筆が書けるといわれるが、まがりなりにもこれが最初の“俺の1本”となったわけだ。 自分の書いた文章を自分のタイプで活字化して自分の発行する月刊ミニコミ新聞に掲載する。その喜びを噛みしめた最初の経験でもあった。 |
| 今回のエッセーを書いたのが1985年。だが、出逢いはそれより2年早い。 1983年1月、入所(収容)園生への人権無視が続いていた施設島田療育園へ、伴侶や介護者をともなった車イス19人が抗議の座り込みをした。その全貌を綴ったレポートを雑誌「記録」に投じたのが最初の縁だった。もちろん行動記録は拙紙障問にも総力特集したが、それで息が切れたように間もなくミニコミは7年の発行活動にピリオドを打つことになった。 編集者のY氏とは、その後、飲み仲間としてもお付き合いさせていただいたが、運動を離れ、ミニコミを離れた俺が書くエッセーは、障問の出し始めに書いた『もうひとつの青春』と同じく、なにげない日常、ささやかな幸せを綴った正に命の原点のようなつぶやき録だった。 |
| 障害について「大変ですね」とよく人に言われる。そのたびにこう答えている。 「子どもの頃からですよ。それも、歩いた経験を憶えてないくらい幼い時からですから、中途障害の人のようなショックもないんです」 だが、それから発展して「他の障害だったらどうだろう」という想像もしてみる。 映画が好きだから目や耳の障害は耐えられないなと思う反面、これも「見える」「聞こえる」経験をしてなければ成り立たない仮定だろうかとも思ってしまう。 それにしても目が見えないのは、やはり相当に辛いだろうことは容易に推測できる。危険と隣り合わせならよけい深刻だ。視力障害者が電車を使うことの危険は、命と自由を考えさせて余りある障害者問題だ。そしてそれは今も続いている。 |
| 佐賀善司という若者を通じて視力障害者(盲人)の不自由さ、逆に晴眼者(目明き)の知らない常識にも気づかされた。盲学校の彼の部屋を訪ねた際、テレビがあるのには驚いたが、考えてみれば耳は達者、画面が見えなくとも役に立つ部分もあるわけだ。 そういえば俺が和文タイプを仕事にしていた頃、ラジオよりはテレビを退屈しのぎに『徹子の部屋』だけでなく、サスペンスも愉しんでいたことを思えばうなずける。 セリフ過剰なドラマ運びは盲人向けだったのかしらん。だとすれば台本ト書きをアナウンサーが棒読みするだけの(視力障害者向けサービスと称する)多重放送はウザいだけではないのか。身近にいるあいだにそれを確かめておけば良かったと後悔している。 |
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個人的なことをいわせてもらえば、東京オリンピックのあった44年前は、新潟地震があった年でもある。 *今日のボログホンタは、去る13日、肺炎のため92歳で亡くなった映画監督・市川崑氏を悼んで4年前の旧ホンタテキストを立ち上げました。巨匠の冥福を心からお祈りします。合掌。 |
| つづけて訃報を書くことになるとは……しかもこんどは身近の人。 翻訳家後藤安彦氏として名を馳せ、障害者運動の大先達として活躍する際には本名二日市安さんの名で親しまれた方。新聞によると16日、急性肺炎で亡くなったとのこと。享年78歳。 二日市さんが病院ベッドで寝たきりとなったのを知ったのは去年5月。綿密な介護を要する深刻な病態であるとも聞き、それをきっかけとして俺自身の老いや死についても厳しく見つめさせられた。 見舞いにはとうとう行かなかった。元来一徹な性格で、それが不屈の闘争精神を支えた原動力でもあるが、晩年、独特の頑固さも加わって近寄りがたく、ついつい遠のいてしまった。 今はご冥福を祈るばかりである。合掌。 |
| 小田急線駅の一つに梅丘があり、この駅をめぐっても過去、車イスの障害者たちによる一人乗り権利要求と駅改善を求める運動が起きていた。その運動の主体となったのが、近くにある養護学校を卒業した大人たちだった。 光明養護学校――昭和7年に開校した、日本では一番古い養護学校とのことだった。 スロープ化要求運動が継続中だった頃、ミニコミ月刊障問の販売活動に光明の運動会を訪ねたことがある。それが恋の始まりだったという個人的事情はさておき、暗い戦争の時代、障害児を抱えて養護学校職員はいかに奮闘したか。その激動の記録は、ミニコミ発行屋の野次馬根性を激しく掻き立てないわけがなかった。 |
| 本ボログ第一回目記事を覚えているだろうか。 30年前の障害者の運動活動家がこぞって参加したスタジオ録画だった。その時、俺は「バリアフリーなんかいらない」とまで言い切って怒った顔をしていた。なぜか。 「今日は電車に一人乗りして集まろうな」と示し合わせたのは、決して冗談ではなかった。それなのに俺以外の全員、自家用車で、あるいはボランティア付きで集まったからだ。 障害者は関東はダメだと思っていた。やたらカッコつけて、できるだけ楽を決め込み、「なんでもやってやろう」というしゃかりき元気さに欠けている。その点、関西の障害者は何かにつけて威勢が良かった。 してみると俺は関西向きだ。東京が地震で潰れたら、こんどは関西に行くか。 あ、今じゃ大阪にもイシハラが…… |
| 記事とは関係ないが…… 今は亡き噂の眞相の岡留安則と週刊金曜日の“人寄せパンダ”佐高信の共著による『100人のバカ』。それに曰く―― ……文字通り「女王妻と奴隷夫」の感情の機微を理解し、信頼を得ることができるのが、「SM趣味」を持つとされる見城サンだけだったのである。 だいたいあんな本を「片手に」メシが食えるなんて3人が相当の「変態」だという証拠ではないか。(「 」含め原文のまま) せめて最初の段落でやめておけば、まだ良かった。人を叩くのに、しかも1人400文字内外の限られた紙数に、わざわざ“変態”“SM癖”を揶揄、嘲笑のネタにすることはなかろう。この一事において石原慎太郎が、安藤優子がレイシストであると断ずる奴らの真理も雄坤も粉々に吹っ飛んだ。(続く) |
| いわゆる左翼が人権派かというと真っ赤な大嘘だ。したり顔してとんでもない差別をしている、それに気づかぬバカさ加減。 佐高・岡留の『100人のバカ』を読む前に思った。「バカがあと2人、書いてる当人たちだ」そんな感想になるのでは、と。その直感は正しかったことになる。 そもそも「変態」はウェブ辞書を見ても悪い意味には書いてない。それをことさらに貶める譬喩に用い、女装だペドだサドだというと奇矯・奇態の極み、果ては少女の敵。ネットなどでは「ペド死ね」など、人権も生存権すらないほど酷く書き叩かれる。 むろん幼女姦、非合意の虐待は犯罪だ。だが、もって生まれた志向・性癖を妄想域にとどめ、刻苦格闘している異趣味者を罵り、唾棄し、蔑む権利が誰にあるか。 先の、本からの引用にある「SM」「変態」の文字を「レズ」「ホモ」に置き替えてみろ。昔はそれも差別されていたのを忘れたか。(続く) |
| 記事と無関係な話の第三弾――。 俺はエッチサイトも持っている。ただのエッチではなく世にいう変態エッチだ。 仲間は「変態」呼称をいやがる。「レズ・SMは変態じゃない」という。「では、おすすめリンクに並べてあるロリ、女装、獣姦など含めてそう言い切れるか」と問い返す。と、とたんに黙ってしまう。 「わたしなんかレズ程度」「せめてSM」という新たな差別が異趣味者間にも存在し、それゆえノーマル派だけ責めるつもりはない。女にも障害者にも異趣味者にも“差別”は厳然とある。ということでこの話は終わり。 記事は、(たぶん)異性も知らず死んだ施設仲間の話。 障害者の“性”と“生”――その本質がバリアフリー、人権の時代といわれる今、どれだけ一般の人々に認められているだろうか。 |
| 1種1級障害者といってもいろいろだ。 そこそこ働けて、仕事があればあるだけこなして、それに見合った税金も払う。損な障害者と思ったこともある反面、だからいっぱしの給料取りだと、大いなる勘違いに“名誉障害者”を気取っていい気になってた時期もある。 働ける者が働き、働けない者を支えるのは当然のことであり、「重度障害者だから生産性社会に与するのはおかしい」と批判する理屈にもあたらない。人の生き甲斐も十人十色なら労働体系もさまざまあっていいはずのものだ。 大阪・セルフ社の仲間たちの頑張りは、俺の目には正直、早春の爽やかな風のように映って見えた。その思いは30年後の今も揺るぎなく心に強く焼き付けられている。 |
| 障害者が、その身の障害を痛切に感じる時がある。馴れない土地で暮らし始めた時だ。人々の好奇の目、それが下町なら、裸になる銭湯ではことのほか特別な視線を痛いほどに感じる。しばらくそれが続く。しかし、また馴染み、人と交わり、理解が深まることで差別や偏見の溝はかなり小さくなるのではないか。 それはそうと、俺は今、仕事が……(ここ以下3月16日改訂) ということを書いたままにしていたが、友だちに「変だ」と指摘されて、「やはり」と納得した。以下、つましい部分を削除した。逡巡、臆病、弱気など、老いと共にさまざまな迷いが出る。自分のケツの穴の小ささに今さらながら気づいて恥ずかしくなった。 みなさんにも、自分にも謝ります。誰もが大変なこんな時代に甘えたことをいいました。今は深く反省してます。 ともあれ、30年前のこの話を――。 |
| 先の参院選で国民新党がフジモリを擁立したという記事を見た時、俺は我が目を疑った。 そのノーテンキぶりは4年前のイラク人質事件で、連立与党公明党の幹事長・冬柴が「人質解放にかかった費用30億円を被害当時者4人から請求しろ」といったという記事を眼にして以来の驚きだった。解放費用30億円のハッタリはむろんのこと、日本の政治家の恐るべき人権感覚の欠如にはいつの時代にも驚かされ、常に寒々とした話題に事欠かない。 記事は95年5月創刊の紙媒体版ホンタ12号に載せたものだ。変形ハガキ仕様両面印刷で、友人知人宛100部程度発送のミニもミニ、超ミニコミ媒体に過ぎなかったが、この号の2か月後にウェブホンタ開設となった。 |
これが俺の車イスの背中だ! いつもこの子たちと一緒に、そして多分、この子たちに守られている! |
第一弾の車イスの背中は、これだった! 大きく取ったところに、イラク戦争の悲惨を象徴づけた爆弾で足をちぎられた少女――これを見たほとんどの人が少女は死体だと思った。が、その後の少女が一つ前の記事の写真の子どもたちの画像群の両サイド、左下のアップ画像、右上の上半身画像で、これは片足義足を付けた松葉づえ歩行でリハビリ訓練に励む姿であった(いずれも写真雑誌「DAYS JAPAN」より)。 |
| 人生とは失敗と修正の繰り返しの貼り紙細工のようなものだ。まっさらな台紙にいろいろな紙を貼っていく。貼っては剥いで、また別の紙を重ねたり継ぎ足したりする。しまいにはボコボコになるが、その厚みと歪みが年輪となる。薄っぺらな人生などありはしない。 二十歳で入った施設で小田急闘争を体験したことは俺の人生の一大転機だった。ただ、その前の施設でも土地の人々が慈善家、神様と褒めそやす人物が障害者を食い物にしている実態を知り、週刊誌への告発を思い立ったが当事者性優先のあまり記事には至らなかった。 放り出されたら行き場のない施設障害者のみじめな現実を知らなすぎる! そう憤っても詮方ないことだった。ただ、その時の口惜しさのなにがしかが経済優先、弱者切り捨ての非情な社会への反発、大企業小田急への怒りに反映していたのもまぎれのない事実だろう。 |
| 『版下屋風雲録』は数奇な運命(?)を負っている。 某雑誌に短期連載の形で始めたものの、その発行者の大ざっぱさにツムジを曲げて連絡を絶った。催促もないのでやはりそんなものかと思い、未完を完成したくて、変形ハガキ体裁で少部数発行していた紙版ホンタに掲載。友人、知人100人くらいに回したのが最初。 ウェブ版旧ホンタに連載を始めたのはいつだったか。療護施設と養護学校の子ども篇を皮切りに、勇躍上京、血気溢れる青春篇を小田急闘争とミニコミ障問発行までこぎつけたものの、またまた頓挫。 今、連載している本稿は、新資料を入手したこともあり、また懐かしき故人への思い入れも含めて、前回に加筆補正した大幅リニューアル版になることだけは間違いない。 ともあれこんどこそは完遂したい。 |
| またまた記事とは関係ないが……(笑い) 「盗っ人に三分の理」があるといって、それはそれだけのことだ。ましてや、その盗っ人がとんでもない人殺しだとしたら、三分の理以上評価できるなにがあるか。 一昨日のウェブ東京新聞に曰く「ペロシ米下院議長(民主党)は28日、中国はチベット自治区など自国の人権状況改善に取り組んでおらず、国際オリンピック委員会(IOC)が2008年夏季五輪の開催地を北京に決定したのは『誤りだった』とする声明を発表した」とのこと。 中国を批判する前に詫びることがあろう。もちろんイラク戦争である。100万からの人間を死なせたり殺したりした当事国が、どの面下げて他国の他国民弾圧を非難できるのか。世界中の笑い者になっているのも気づかぬか気づかぬふりの“裸の王様”が今のアメリカだ。 |
| 上の階から洗濯の排水をザンザとまた降らされ、15年ぶり保険屋の厄介に――。 漏水は居間より先に被ったトイレの前がひどく、用を足しながら電話をとれるようにと置いたNTTの子機を駄目にされた。どうせなら丸ごと買い替えたかったが、保険屋は子機だけの補償額しか出せないという。しかも古いから老朽頻度でさらに割り引かれる。 といって今回は保険の話ではない(w)。買い替え値段に驚いた話である。 子機だけで他社ならファクス電話が丸ごと買える2万9000円(爆)。応対した電話相談員が渋いわけだ。2人が2人とも自社製品はやめた方がいいという含みの対応。社員にそう言わせるNTTとはどんな企業か。民営化後もそんなデタラメ定価を付けて胡座をかいていられるのも元々がボロい商売であるからではないか。 俺も俺だ。こんなものいつ買ったのかと思っていたところ今日の記事で分かった(w)。 |
| 当、閑古鳥掲示板(w)に時折書いてくれる奇特な読者(かな?)破れかぶれさん。「障害者プロレス、ドッグレッグスを取り上げないのは不思議」といわれ、記録をひっくり返したものの、その時には見あたりませんでした。 俺がやった障害者運動の最後が地元台東区における雑居同盟でした(この機関紙にボランティアが書いた障害者プロレスの記事はあるのにね)。で、この雑居は“率いた”といっても過言でないだろう。なぜなら障害者はいずれも成人だが、これまでボランティアがかり親がかりできて、いきなり署名集めだデモだでは誰かが率いねば一歩も進めなかった。 掲げた要求の「家賃補助」は見当外れだったものの、雨に風に打たれながらの体験はきっと彼ら彼女らの実になっていると思う。 その記録はまたいつか書くとして……破れかぶれさん、ありましたよ。短いながら俺の書いた「ドッグレッグス記事」が――。 |
| 某サイトでのコメント投稿の縁から、若松孝二監督『実録・連合赤軍』のチケットをいただいたが、東京では1館しかやっていない。 どこだと思ったら今日の記事の最後の方にちらっと出てくる映画館で、誰が主演かと思ったら、やはりたった1回行ったその時の映画に主演していた女優だった。不思議な縁だ。そして時代は変わったと思う。 ちなみに映画館はテアトル新宿、女優は坂井真紀でその時に見た映画が『OL忠臣蔵』。 電話で確かめた時にも親切な対応だった。 しかし行って見て驚いた。地下への階段が逆落としのように深く急だった。「こんなだったら断ってくれればいいのに」とは、もちろん俺の口から出たセリフだ。 昔は階段など何もない映画館ですら、車イスといえば空いている平日に来てくれと高飛車に切り捨てられたものだった。 |
| 前回にも書いた某サイトコメント欄を意見の相違から降り、「もう来ない」とケツをまくったら常連の一人から「逃げた」といわれた。 少し前、自分でもう一つ立ち上げているエッチサイト常連からは「電話なら5分で氷解することがメールなんかじゃ」と言われたことがある。それと思い合わせてハッとした。 初めの頃、他サイトでコメント投稿する際など、議論は苦手、ヒマもないとのことで、いつも俺は意見は言いっぱなし、後にどんなレスが付いても無視するつもりで臨んでいた。 それが正解だったのだ。一晩二晩語り明かしても理解し合えるのが難しい政治ネタなどを、100字や200字のコメントで伝えきれると思っているのか。それに気づかず対立を生み、結局アラシ現象を誘発して切れたり消沈したり。それを不毛というのではなかったか。 ここホンタのトップコメントも次回は100の大台。それを記念してイラク問題を語る。今度こそは熱く、激しく怒りを込めて語る。
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