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茜の空の『座頭市』
――みんな輝いていたあの頃――

佐賀君

 「浅草公会堂の舞台を使ってなにかやらないか」と、その話を『下町タイムス』の編集長から持ちかけられたのは9年前の夏だった。
 『下町タイムス』というのは、浅草・墨田を中心に読者を持つミニコミ・タウン紙で、下町復興に若者の目を向けようと、10月に浅草公会堂でフォーク・コンサートを開く、その昼の部が空いているので、なにかやるなら自由に使ってくれていいと言うのだ。
 当時は俺も、「車イスの編集長」を気取って、ミニコミ新聞を発行していた。『月刊障害者問題』(略して障問)という、名前どおり障害者の抱えるさまざまな問題や、地域での活動を広く紹介するものだった。
 仲間のひとりに佐賀君がいた。
 佐賀君は目白にある教育大付属盲学校の学生であった。勉強しながらマッサージ師になるための技術も身につけていたが、それとは裏腹に、「盲人=マッサージ師」という世間の図式が気に入らず、いつも「アンマになんかなるものか」と反撥していた。
 彼は全盲であった。しかし積極的な性格で、白杖(はくじょう)片手に一人でどこへでも出かけた。「駅のホームから3度、線路に転落した」ことは彼の貴重な人生体験であり、「自負」でもあった。
 彼は、俺のミニコミ新聞の取材や販売によく同行してくれた。車イスの俺と一緒のときの彼は「足」であり、俺は彼の「目」となった。
「そこを右に曲がって」
「少し左に寄ってるよ」
「うん、そのまま真っすぐ真っすぐ」
 俺が行き先を案内し、彼はその声を頼りに車イスを押すのである。文字どおり二人三脚の関係だ。
 しかし盲学校のそばや自分の寮の中とか、いわゆるホーム・グラウンドでは俄然、勝手が違ってくる。こいつ、本当は見えるんじゃないかと思わせるくらい、すいすいと先を行ってしまう。
 パチンコ屋の店先や、寿司屋、ヤキトリ屋の所在が音やニオイでそれと判るというのは盲人とのつきあいに疎い俺にも、まあ得心がいくものの、細かに入り組んだ路地の辻から辻へも、いともたやすく通り抜けて行く。
 「一体どうしてそんなに判るんだい」と訊いたら、道路というのはカマボコ状になっていて、その感触を足で感じとって曲がり角を察知するのだと言う。なるほどそうかと思いながら、やはりその勘の良さには舌を巻くほかはない。
 「おい、赤だよ」という心配をよそに、彼は横断歩道をかまわず突っ切って行く。「車が来なきゃ青信号と同じさ」と、平気に言って。そのうえ体格もがっしりとしており、まことに頼りがいのある存在だった。
 ある取材の帰り道である。
 佐賀君の介助でバスに乗り合わせた。佐賀君とふたりなにか冗談を言い合い、ふざけ合っている時、少し離れた席に坐る男の眩きがだんだん耳に障って来た。
「おい、聞こえるだろう?」
「ほっときなよ」
 と、佐賀君はいたって平静を装っていた。
 いい歳をしたオッサンが俺たちのなにげない冗談をすら聞きとがめ、「メクラのくせに……カクワのくせに」ぶつぶつ文句を眩いていたのだ。
「あんなやつ、張り倒してやればいいんだ」
 バスを降りてからも憤懣やるかたない俺の悔しさはなかなか収まらず、黙って聞き捨てた佐賀君には大いに不満を感じたものだった。
 こんなこともあった。上野の駅前でミニコミの街頭販売をしているときだ。佐賀君が二つ折りの黄色い紙面を広げて立ち、その横で俺が拡声器のマイクを握って道行く人に呼び掛けていた。
「こちらは『月刊障害者問題』です。黄色い色のニクイやつ、『月刊障害者問題』です。いかがですか? さあ、お父さん、お母さん、どうぞひとつ手に取って御覧になってください。誰もが自由に平等に生きられる社会めざし、今日も頑張る『月刊障害者問題』……」
 そんな口上をとうとうと喋っていく。こちらは何度も経験ずみだから慣れたものである。体はガラクタでも口だけは達者なもの、その調子で一日中喋りまくったこともある。
 ただこの日は相棒もいること、横着を決め込み10分ほどで佐賀君と交替した。
 〈さあ、お手並み拝見〉とばかり見ていると、俺はまた佐賀君の勘の良さに舌を巻かされた。たった一度聞いたばかりの口上を、もう何度も聞いて知っているように、“立て板に水”ですらすらまくしたてる。
 俺はすっかり見とれ、うっとりと聞き惚れていた。
 と、その時、酔っ払いのひとりが俺の前に近づき、酒臭い息を吐きかけながら、「おまえ、本当は歩けるんだろう。見えるんじゃないのか?」と妙な因縁をつけ始めた。
 車イスの上の俺を頭から爪先までしげしげと眺め、
「だいたい体の悪いモンがそんなにぺらぺら舌が回るはずない、ほんとはどこも悪くないんだ」
 と、わけの判らぬ理屈をこね始めた。
 日頃からヤクザと酔っ払いには逆らわない信条の俺だったが、そばに佐賀君のいるこの日ばかりは勇気凛凛百人力だった。
「あんた、何を言うんですか。変な言いがかりつけたら承知せーへんで」
 と、喋り口調までがだんだん関西託りを帯びたヤクザ言葉になってくる。
 それがなおのこと相手を刺激した。
「それみろ、こいつやっぱりどこかおかしいぞ。おい、こらっ」
 と、あろうことか俺の襟首をひっつかんだ。
「歩けるんならそんなモンに乗るな。さあ、立て。さあ、降りて俺と勝負しようじゃねえか。くそっ、人を騙しやがって」
 とうとう本気になって引っ立てようとするではないか。
 俺はもう無我夢中車イスにしがみつくばかり、苦しさのあまり声も出ない。頼みの佐賀君も周りの騒音に邪魔されてか気づかずにいる。
 通行人の中から勇敢な若者が飛び出して助けてくれたからいいものを、さもなくば車イスごと吊るし首になるところだった。
「どうかしたの?」
 と、その時になってようやく佐賀君があたりの異様な雰囲気に気づいた。
「どうしたもないもんだよ。
 “見れば判るだろう”が。こんな時こそ頼りと思っているのに、もー、まったく、なんの役にも立たないんだから……」
 不平たらたらこぼしていると、
「ごめん、見えないモンで……」
 佐賀君が今まで見せたこともないような悲しい顔をしてぼそり、眩いた。
 俺は、ハッとした。
 しかし、気づいた時はもう遅かった。
 あのおりの、あの佐賀君の暗い表情は今でも忘れることができない。
 だが、それでも佐賀君は俺にとっては良い文章が書け、喋りもじょうずな、積極的で行動的なバイタリティーあふれる良き友であり、ヒーロー的存在ですらあったのだ。
 「舞台」の話をもらった時も、まず頭に浮かんだのがその佐賀君であった。
「佐賀君、一緒に芝居を演ろうよ。もちろん君が主役だよ」
「エーッ!? 俺が? 俺が一体何をやるのさー?」
 自信なさそうに言う佐賀君に、俺は決まってるじゃないかといわんばかりに答えた。
「『座頭市』だよ。チャンバラ映画のスーパー・ヒーローだよ」

里美ちゃん

 チャンバラで思いついたのは『国定忠治』である。晩年、確か忠治は中風で足腰立たなくなり、凄絶なる立ち回りの末、役人に捕縛される、という場面のあったことを映画の本かなにかで見た記憶がある。
 歩けない忠治なら障害者でもこなせる。凶状持ちとして役人に追われ、やがて子分も散り散りとなって零落した忠治は、晩年、中風にかかって倒れる、ということは歴史の文献にも載っていた。
 そして、中央公論社版「日本の歴史」のなかの2、3行に触れた時、俺の構想は決定的となった。
 すなわち……

 ――忠治には三人の妾があったが、弘化三年(一八六四年)七月二十一日、その一人のお町の家で大酔して寝たところ、その夜半、急に中風にかかって身体・言語ともに不自由となった。

とある。
 このぶざまで、かつ人間味あふれる忠治の末路を知った時、座頭市がらみの一大パロディーは画竜に点晴を得た。
 映画シナリオ作家の犬塚稔は子母沢寛の随筆の中のたった2、3行の記述から『座頭市物語』を生み出したという。そして俺は、歴史文献のたった2、3行の事実と『座頭市物語』のアイデアを丸ごと借り受け、『「座頭市」と国定忠治意外伝』の台本を完成させたのだった。
 座頭市を演じるのはもちろん佐賀君、忠治はほかならぬこの俺である。
 芝居の稽古場には近くの福祉会館が使われた。ふだん友達づきあいしている職員が何人もおり、なにかと便宜をはかって夜遅くまで開けてくれたりもした。
 芝居は、忠治が妾の家で深酒しながらお町の帰りを待つ場面から始まる。
 会館の一室を舞台に見立て、会館の備品である布団を敷いて本格的な稽古風景が繰り広げられた。
 キセルをくわえて布団に寝そべる俺、その傍らの飯田さんの目がメガネの奥できらりと光る。
 飯田さんは、「舞台」の話を持ちかけた『下町タイムス』編集長のツテで快くこの役を引き受けてくれた人、かつては喜劇芝居の役者として浅草の小劇場に出ていたこともあるその道のプロだった。
 大勢の脇役たちが見守る中、やがてお町登場。お町は、まだ二十歳そこそこの里美ちゃんである。
 里美ちゃんは新聞配達しながら専門学校に通っている、近頃珍しく感心な勤労学生でもあった。彼女も俺が発行するミニコミの読者であり、また、俺が密かに気持ちを寄せる憧れの女性でもあった。
 お町登場。風呂の道具を抱えて現れ、「待った?」などと甘い声をかけながら、布団の上の忠治にしなだれかかる。
 そのしなを作るしぐさといい、甘えた表情といい、実に巧いのである。それもそのはず、芝居好きの彼女は小劇団に入って地方をドサ回りしたこともあり、若いがその道では年季が入っている。
 そして脇役のひとりひとりにも入念な指導がほどこされる。あまり動けない主役ふたりに代わってなんとか芝居に動きを出そうと、「はい、子分の安造、そこで大きく跳んで」「清五郎、駄目だよ、そこはもっと身振りを派手にしなきゃ」と、飯田さんは自ら手本をしめしながら脇役たちに演技をつけていた。
 そして真打ちはいよいよ佐賀君である。彼こそは涙ぐましい努力で役作りに励んだ。
 当時フジテレビはテレビ版『座頭市』を放映しており、佐賀君は、友達が拾って来てとりあえず音だけは出るよう修理したテレビを寮の自分の部屋に持ち込み、テレビから出る勝新太郎の声に耳をすませて“研究”したとのこと。
 また、台本読みの際の出演者の声をすべて録音し、そのテープを仕込んだカセットを肌身離さず持ち歩いてセリフ覚えをしたとも言う。
 そしてそして……
 「本物の盲人に本物の役者がするのと同じ立ち回りを演じさせる」という俺の無茶苦茶な要求を素直に実行すべく、夜遅く人気のない公園などで、飯田さんがどこからかあつらえてきた木剣を持って素振り百回、居合い斬りの修練を積み重ねたそうだ。
 脇役たちの中には、福祉やボランティア活動にまったく縁のない人たちも多かった。彼らのうちの何人かは役者探しに困っている俺たちを見かね、飯田さんが連れて来たかつての芝居仲間でもあった。
 どこかの呑み屋で隣り合わせとなり、二言三言、言葉を交わしただけで意気投合し、芝居作りに参加したという行きずりの若者たちもまた何人かいた。
 当然、最初の頃彼らは、初めて接する俺や佐賀君に戸惑いもした。痩せさらばえた俺のこの身をさらす場面では思わず目を背け、差別的な言葉を発する場面ではその自分のセリフを言うのさえ躊躇した。
 しかしそんな違和感も稽古を重ねるごとに次第に薄れていった。
 そして、2カ月はあっという間に過ぎた。
 その間、資金づくりの心配もあった。なんといっても時代劇はカツラ、小道具、衣装の類まで金がかかり、どう切り詰めてもその当時で百万円からの金を必要とした。
 にもかかわらず、この方はまったく会館職員をしている友人の顔まかせ、人脈まかせだった。小柄な体型の稽古仲間から借りた、長さだけ見合った一張羅をだぶだぶに着込み、寄付金を募るためナントカ教の教祖に頭を下げに行ったことなど、うろ覚えにしか過ぎぬ。
 2回かそこらしかしない街頭カンパでも、上野の歩行者天国でお巡りに目をつけられ、道路使用許可の有無でしつこく追い回されたことや、ヤッちゃん風のおじさんから「人の財布を当てにする乞食芝居ならやめちまえ」と毒づかれたことはあるものの、それ以外俺自身が資金集めで苦労したという記憶は皆無に等しかった。

座頭市、斬る

 そして浅草公会堂の幕は上がった。平日の午後という条件にもかかわらず、500人は入れるという一階客席はほぼ満員。ミニコミ紙面に掲載された記事を見て駆けつけた障問読者、福祉施設の障害者やその職員、そしてテレビや新聞の記事で知って来た一般客もいた。
 ただ一度きりの本番、それも舞台稽古する時間的余裕もなかったためぶっつけ本番に等しかった。だが、失敗は許されない。
 生まれて初めて芝居のカツラに頭を締めつけられ、顔にドーランを塗りたくり、何人ものクロウト忠治役者が着たという衣装を付けて、俺はすっかり国定忠治になりきっていた。
 その忠治も妾お町の家で、お町との情交に及ぶ途中、日頃の深酒に崇られ発作に倒れる。
 布団にくるまりながらも、なお意識の定かな忠治を無視し、ふたりの子分の見守っているのもかまわず、医者とお町の間で厄介者となった忠治を福祉施設に入れてしまおうという談合が交わされる。
 重度障害者を抱えたお町の嘆き、やがてお町は、舞台の正面に出て行き、観客に向かって語りかける。
「あたしには夢があったわ。この忠治さんがまた人気を盛り返し、参議院選挙かなにかで当選して有名になるの。あたしはその忠治の第一夫人……」
 甘ったるいお町のその口調が、突然の災厄にさらされ、絶望に打ちひしがれた声となり、やがておのが運命を呪う怨みのひびきに変わる。旅芝居で鍛えし里美ちゃんの本領発揮の場面である……
 と、その時、セリフの続くお町と俺たちのいる舞台の間を、するすると暗幕が横切って行く。後ろ向きのお町は気づかない。
「なんだ」
「どうしたんだ?」
 と暗幕の中ではちいさなどよめきが起こった。
 しかし、さすがは里美ちゃんである。「その、あたしの、ゆ、め、が……どうしてくれるのよっ!」
 叫んで振り返り、戻ろうとする所に幕が閉まっている。それをすかさず、
「なんだいっ、これは!? これはなんなのよーっ! こんな所に幕が出しゃばる場面じゃないよ!」
 すかさず幕引き係に向かって怒鳴り、その幕が血相変えてするすると舞台の袖に逃げて行くと、
「チェッ、暗幕まで運命に見離されたあたしを馬鹿にしようってのかい」
 と、アドリブの仕上げを決めて次の芝居に続けてしまった。
 やがて芝居は、忠治がお町に愛想をつかされて逃げられ、残った子分ふたりに伴われ、大八車で本妻お徳の家へと運ばれる夜道の途中、はるばる忠治を訪ねて来た座頭市に再会するという場面となる。
「親分、あっしが市でございやす」
 そばに駆け寄る座頭市に、忠治は懐かしそうになにか言いたい。しかしその忠治の口は言語障害にあって、親しい市にさえ聞き取ることは難しい。見かねたボランティア、いや、子分が通訳をつとめ、なにを言っているのか判らぬくせに聞き返すのももどかしく、子分らに都合いいよう、勝手な解釈で傍らの市に伝える。
 発作を起こして倒れてからラストに至るまで、俺は終始意味不明のセリフを発し、周囲とのトンチンカンなやりとりを続ける。障害者に歩みを合わせずまっしぐらに突き進む能力優先、機械万能の社会への皮肉、強者の奢りへの風刺であった。
 言葉の通じぬ忠治と、その忠治の心情を汲み取り、なんとか周囲の者に伝えさせようと板バサミになる市の苦労をよそに、忠治は頼りの本妻にも去られ、子分にも造反され、市とふたり、大前田英五郎一家と捕り手の包囲を迎え討つ場面となる。
 舞台照明がひときわ赤く夕映えの情景をひきたたせる大団円――
 捕り手のひとりが「エーイ」と、ひと声挙げて市に襲いかかる。とっさに市は仕込みを逆手に構えて斬り上げる。続いて「ヤー」と、二人目の捕り手が、それも倒した。
 「御用だ」と飛び出した捕り手は捕り物棒を横に構えて抑えにかかる。それを市が仕込みで払い上げる。すると市の前に差し出された捕り物棒が真っ二つに分かれて捕り手が倒れ、市は仕込みを鞘に収め……
 となる仕掛けだったのだが、振り上げた市の仕込み刀の先が、二つに分かれた捕り物棒の角にはじかれ、宙に飛んでしまった。
〈あーっ!!〉と茫然――。
 が、捕り方の一人が機転で床に転がった市の仕込みを佐賀君の方に蹴ってやる。
 その気配に市は小腰を屈めて手探りし、見事刀を拾い上げてまた態勢を立て直した。
 しかし、いったん狂った芝居のリズムまですぐに立て直すことはできず、絡みの立ち回りが“押しくらまんじゅう”のような形で終わってしまった。
 そしてそして……
「さ、親分、山を下りやしょう」
 急を聞きつけてもどった本妻や妾に抱えられ、無事大八車に乗せられた忠治をセリフの流れで確認し、その大八の舵を握ると万感の思いを込めて最後の見えを切った。
「じゃあ行きますぜ。-なーに、敵が何十人いたって構やしねえ。“見てくれだけのまかり通る世の中なんて、あっしの仕込みで逆手斬りにしてやりまさあっ”!」
 その身に受けとめてきた差別の数々に対する怒りが熱く燃えたぎったのであろうか。それほど激しく、感情の込もった佐賀君のセリフであった。
 拍手が一陣の風となって湧き起こった。
「それじゃあ親分、舵をとっておくんなさいよ。右ですかー、左ですかー? へいへい、じゃ、真っ直ぐ行きますぜ一」
 と、この二人三脚も芝居を超えていた。それに反応して観客の惜しみない拍手――。
 万雷の拍手に送られ、市が車を引き、忠治が不自由な口で舵取りし、「御用御用」の太鼓の響きが連打する喧噪の中へ、舞台の袖へと消えて行ったのである。

「それじゃあ佐賀君、気をつけて帰りなよ。みんなも……」
 そう言って見送る時にも、佐賀君はラストの立ち回りの失敗を悔やんでいるように見えた。
「しょげるなよ。あんなに拍手もらったじゃないか」
「うん。じゃあ、さよなら」
 夕焼け空の下を、芝居仲間たちは散り散りに去って行った。俺の心になんともいえぬ寂蓼の思いを残して。
 しかし……
 しかしこれには後日談があった。
 地元台東区が福祉大会のアトラクションとして買い取り、ひと月後おなじ浅草公会堂で『「座頭市」と国定忠治意外伝』の再演が実現されのである。
 そのラストは凄まじかった。市が迎え討つ敵の総勢20人、舞台に白煙を舞いたたせての大乱闘、もちろん、このときは芝居も立ち回りも大成功裡に幕を閉じた。
 それから何年か後――
 佐賀君は郷里の岩手に帰って点字図書館司書となった。そしてあの里美ちゃんは、やはり芝居好きな若者と結婚して一児の母になったという。

(雑誌「記録」1987.7月号/NO.100)

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