トップへもどる

新潟地震の思い出
(『版下屋風雲録・北雪郷愁篇』を再構成)

 たとえば皆さんの中で、「毎日がイヤでたまらない。なにかとてつもないことが起きて今の現実から逃れられる、そんなことはないだろうか」と考えた人はいないだろうか。
 43年前、それとまったくおなじことを経験した。その時、わたしは12か3だった。
 1964年(昭和39年)6月16日火曜日午後1時2分――日にちはおろか、曜日、時間までがしっかりと頭に刻み込まれている。この目で見たことも鮮明な映像として焼き付いている。
 自然の猛威はFSX(特撮映像)もかくやと思うばかりの信じられない光景を見せつけ、その前での人はいかに無力か。大地がうねり、爆発火災のキノコ雲で太陽光も放熱も奪われ、真夏日だというのに暗く、寒く沈みこむという非現実。
 子ども心に「死ぬ」ということを意識させられるのである。ニュークリアウインター――核の冬。核戦争後は大気を覆う放射能の塵で太陽が隠され、冬のような寒さになるという意味であるが、そのことも実感として良く理解できた。

施設ぐらし
 1960(昭和35)年9月7日、8歳の俺は、はまぐみ学園に入園した。松林を背後にひかえた、海に近い全寮制リハビリ施設である。
 はまぐみ学園では合計3回の手術をおこない、そのうちの1回は別名下半身麻酔とも呼ばれる腰椎麻酔の手術だった。痛みはないものの、ジャキッ、ジャキッ、と、皮膚を切られる感覚がはさみで裁ち切られているようで、不思議な戦慄にとらわれたものだった。
 痛い思いの手術が終わると機能訓練がはじまる。
 機能訓練でいちばんつらかったのは、ギプスを何カ月も巻かれ、曲がらなくなった関節をまたもとの状態にする訓練だった。マッサージでほぐしておいて、力を加えて徐々に曲げるのである。
 曲がらない足を無理に曲げるのだ。当然苦痛をともなうので、子どもにとっては酷な訓練だった。毎日その時間がくるのがいやでいやでしかたなかった。機能訓練室は俺にとってはまさに拷問室であり、担当する訓練の先生はときとして鬼に見えた。
 松林が逃げ場所になるとは、それまでは考えもつかなかった。
 同じマッサージ仲間に、歳も同じショウゲンがいた。
「一緒に逃げよう」
 ショウゲンは足を引きずって歩くくらいの軽い障害だったが、ひとりで逃げるのは怖いとみてか俺を誘った。
「逃げてもすぐにつかまるよ」
 俺はそのあとのことが心配だったが、
「松林に隠れていれば大丈夫。そうして、訓練の時間が終わる頃になったらもどればいい」
 子どもの浅知恵であったが、うっかりそれに乗った。もとより俺だって痛い思いをする訓練なぞ真っ平ごめんだった。
 その頃にはギプスは補装具に替わり、松葉杖をつかってやっと歩けるまでにはなった。しかし、米つきバッタのように尻を突き上げて歩くぴょこたん歩きで、倒れれば自分で立つこともできず、階段を上がることもかなわなかった。
 ショウゲンとの松林逃亡も、俺の歩みののろさですぐに捕まる羽目となった。
 サボった報いは大きい。
「コラッ!」
 先生の顔が鬼になった。凄い顔でにらまれ、首根っ子掴まれ、訓練室に引き戻された。
「逃げた罰だ!」
 手痛いお仕置きとなった。ふだんの倍の強さで曲がらない膝をぐいぐい曲げてくる。
「痛いよー、もう逃げないよー! かんべんしておくれよー!」
 きゃんきゃん泣きわめきながら必死に許しを乞うショウゲンの姿を、ひと事でない思いでながめ入っていた。
「さあ、今度はおまえだ」
 拷問の順番が回ってきた。
「お前がのろいからつかまったんだぞ」
 ショウゲンは俺に悪態ついて出ていくのを忘れなかった。
〈あんなぴょこたん歩きしかできないのに、なんでこんなつらい目にあわねばならないのか〉
 あとに残された俺は、割り切れぬ思いを抱いたまま痛さに泣いていた。
 1964(昭和39)年春──。
 小学5年卒業と同時に、3年半いたはまぐみ学園を退園した。しかし、施設生活が終わったわけではなかった。退園と同時に、新潟平野のど真ん中に建つ新潟市海老ヶ瀬の新潟養護学校に転入、4月からまた寄宿舎生活をはじめることになっていた。
 しかし、俺は4月には佐渡の家にいた。そして5月になっても新潟にはもどらなかった。ずるずると日を延ばし、やっと施設の門をくぐったのは6月10日だった。
 タクシーを降りたとき、最初のショックを受けた。
 歩けないのだ。
「どうしたんだっちゃ? 早く歩かんかさー」
 お袋がせきたてたが、松葉杖をついて立っているのがやっとだった。お袋の兄である伯父さんがついてきてくれて助かった。
「どうだ。俺がおんぶしていってやるよ」
 寮母さんに教えられて部屋まで運ばれたが、その間呆然とした思いのままだった。
「家に長くいて忘れたんだろう。ちょっとたてば、また勘をとりもどすさ」
 伯父さんにはそうなぐさめられたものの、家族が帰ったとたん泣きたくなった。
 家で怠けた報いがこれほど手痛い仕打ちで返ってくるとは思いもしなかった。友だちが何人いようと、なんの気休めにもならない。自分で苦労してもとの勘をとりもどさなければならない。
 夕食に食堂に急ぐときにも、はまぐみでは俺より遅かった友だちがどんどん追い抜いていく。
 ぴょこたん歩きどころか、転ばないよう恐る恐る松葉杖を出し、足を運ぶ、怖ろしく慎重ないざり歩き以外のなにものでもない。
 消灯後のベッドの中で、ふとんをかぶって泣いていた。そしてそんなときでも、呪うのは自らの不覚ではなく、こんな歩けない運命に誰がした、ぴょこたん歩き程度のリハビリでなぜ3年半もの間、親や家族と離れ離れにされ、苦労をなめさせられたのかという思いでいっぱいだった。
〈帰りたいよー。もう、こんなとこにいたくないよー……〉
 そうして家族の顔を思い浮かべながら故郷を懐かしみ、朝がくればゆううつな現実に引き戻されて消沈し、泣きの涙で日を送った。
 あとになってみれば前夜の月が赤っぽかったとか、学校で飼っていたウサギが小屋を破って逃げたとか、それが前ぶれといえないこともない。月はともかく、ウサギが金網の柵を破ってまで逃げるなど尋常のことではない。
 しかしそれらが翌日に起こることの前兆だなど、神でない身の誰が考えたであろうか。

1964・6・16
 よく晴れた日であった。給食を終えて、なんとなくあわただしい気分に追われていた。その日、BSN・新潟放送の取材があり、撮影機を持った記者が歩き回っていた。
 廊下の時計は午後1時2分になろうとしていた。昼休みが終わるわずか前のことだった。
 小6同級の男の子が、訓練用の自転車ペダルを勇ましく踏んでいた。その子はてんかんの持病と片手が不自由なくらいで、床から離れた自転車の車輪はブン、ブンと大きなうなりをたてて勢い良く回っていた。
 突然、床が音を立てた。が、最初は自転車の音と聞きちがえていた。間もなく、
 ガタガタガタガタガタ……
 ゴオッ、ゴオッ……
 異様な音と同時に、校舎全体が大揺れに揺れた。俺はその場に倒され、廊下にいた他の者も皆、床に突っ伏した。
 誰も立っていられるはずがなかった。まさにこのとき、マグニチュード7・7の大地震が新潟地方一帯を襲ったのだ。
「机の下に入るんだ!」
 教師か生徒かわからぬ声が怒鳴る。天井からは粉々になった合板が落ちてくる。重いものは落ちてこなかったが、そうはいっても安全なはずもない。しかし恐怖と大揺れのために俺はまったく動くことができなかった。
 保健体育担当だったと思うが、その年輩の女教師が引きずって机の下に連れて行ったものの、そこも身を隠すに十分でないと知ると、今度は外まで引きずった。機転を利かした素早い動きだった。
 屋外では信じられない光景が展開されていた。
 地面がうねっている。あの固い大地が波打つように。まるで巨大なかげろうを見ているようだった。やがてそこから地下水が吹き出し、あちこちで泥の噴水が湧き上った。
 振り返ると、平屋の校舎は青い屋根が波打っている。うねりながら窓ガラスは次々と割れ散り、肌色の壁はボロボロ崩れ落ちていった。
 そしてその背景にはさらに無気味で恐ろしい光景が──
 青く晴れた夏空に向かって、真っ黒い雲のような噴煙がおそろしくゆっくりと立ち上っているのだ。その高さは真昼の太陽にまで届きそうだった。(
昭和石油爆発火災のキノコ雲-2
「まるで爆撃のときのキノコ雲だ」
 戦争を経てきた年輩教師が眉をしかめてつぶやいた。
「なにがあったんだ!?」
「あの方角は昭和石油だ!」
 ほとんどの女生徒が泣いていた。少し元気のいい男子生徒でさえ、今にも泣き出しそうだった。
 誰かがトイレに取り残されている、そう怒鳴る声もし、さかんに応援を求めていた。
 地べたに座り込んで守りにつく座り草野球でなじんだグラウンドは無惨に切り裂かれ、今はその亀裂も見えないほどに泥水が押し寄せていた。花壇はその泥の中に埋没し、花弁は濁流に叩かれた。
 トランジスターラジオは早くも被害状況を伝えている。刻々太陽の光を遮ろうと範囲を拡大しているキノコ雲が、はるか彼方にある昭和石油の爆発炎上火災によることもわかった。そして、すぐ近くの阿賀野川の氾濫予報が新たな恐怖を生み出した。
 死ぬのだ──という思いがひたひたと押し寄せた。
 寒い。恐怖のためと思ったがそればかりではなかった。昭和石油から立ち上る噴煙がついに太陽に届き、それがすっぽりと太陽を覆い尽くしてしまうとあたりは冬の夕方のように暗くなり、寒さに襲われた。
 毛布が配られた。それをかけてもまだ寒い。恐怖はよけいにつのる。
 泥水が押し寄せる──今いる場所も危険になった。
「芋畑に逃げよう!」
 芋が根を張り、地盤がしっかりしているにちがいないと判断した年輩職員の意見にしたがったものだ。
 大勢の生徒を連れた職員たちの苦難の逃避がはじまった。

逃避行
 とにかく職員は大変だった。
 障害をもつ子どもたちを安全なところに避難させなければならない。職員も人の子、家族を心配しない者がどこにいようか。しかし今、そのことは二の次だった。
 泥の海に遊戯のボーリング台が渡された。見えない亀裂や吹き出した地下水のあとにできた穴ぼこに足を取られない知恵だった。その上をつたって、歩ける子は職員に手を引かれ、歩けない子は職員におぶされ、1列になって校舎のわきにある芋畑へと向かった。
「校長先生、校長先生」
 職員のひとりが、泥海に立ちつくして呆然としている校長に気づいて呼びかけた。
「校長先生、何をしているんですか。早く逃げてください。いっしょに逃げてください!」
 日焼け顔の校長は泥海に足を取られながら、半壊した校舎に向ける目をうるませていた。
 芋畑は水もかぶらず、地割れも目立たず比較的安全のようだった。地割れを避けてゴザを敷き、子どもたちはいったんそこに腰を下ろした。
 遠くで半鐘が鳴った。
 校舎をへだてた反対側の道を、私設の消防隊が駆け抜けて行った。昭石の大火災で手一杯なのか、大きな消防車は街はずれのこのあたりまでは手がまわらないようだった。
 いよいよ心細くなった。どうやら俺たちも、新潟平野の一角に取り残されたかっこうになった。
 小さな余震はたびたび襲った。めまいのような感じのするときがそうだった。余震のたびにあらたな恐怖がつのった。
 そんななかにも、男の職員はけわしい顔つきで飛び回っていた。
 ひとりが報告に来た。
「県道まで移動してください。今、農家からトラックを借りる話がまとまりました。それに乗って聖陵女子短大まで避難します」
「短大は大丈夫だったんですか?」
 女子職員が不安げに訊く。
「あそこは鉄筋コンクリート建てでびくともしなかったようです。近所の人もみんなそこに避難してます」
 力強いことばに励まされた。
 また避難だ。
 俺は、友だちの一人が栄養士のつぎに美人だとほめた、のちに寮母さんになる炊事の職員さんにおぶされていた。その両肩にしっかりつかまりながら、背中を通してつたわる体温と女性特有の甘い香りにしばしうっとりした。
 小型トラックの荷台に乗せられ、何回かピストン輸送をしてつぎの避難場所に運ばれた。
 がんじょうだといわれた女子短大も、壁にはところどころ小さな亀裂が生じていた。しかしガタガタに破壊された養護学校の校舎にくらべれば、無傷みたいなものだった。
 漬け物と炊き出しのおにぎりが配られた。それを口にしながら、目は自然、読み散らかされた号外に吸い寄せられた。今までこれほど大きな見出しがあったろうかと思われるほどの大見出しで、その日の大災害が報じられていた。
 トランジスターラジオは地震の被害状況を報道しつづけ、一時も休むことなく鳴っている。
 夕方から、ぼつぼつ家族に引き取られていく生徒が目立った。
 職員も交代で自分の家に帰った。帰るといってもようすを見てくる程度で、あとはまた生徒のめんどうを見にもどらねばならない。
 夜になっても、闇になることはなかった。電気も通信も途絶していたが、外は昭石の炎がオレンジ色に照らしていた。ときおり、ポーン、と音をたて、そのときにはあたりがひときわ明るくなる。また別のガスタンクに引火し、誘爆を起こしたのだろう。
「まだ消えないのか?」
「消えるどころか、前より燃え広がっているようだぞ」
「あ、また火の手が上がった!」
 玄関のガラス戸から遠くの情景がうかがえるのか、何人かの職員の緊張した口吻が深夜になってもつづいていた。
 冷たいピータイルの床に体育用マットを敷いて寝床にしたが、俺たちにしたって眠れるものではなかった。
 翌朝──。
 アメリカ軍が消火爆弾を投下するというので、中庭に出て見ることにした。
 もうもうたる黒煙の下に炎が吹き上げている。遠くからでもよく見えた。
 爆音が近づき、米軍機の銀色の機体が朝日に照り映えた。それが煙の中に入った。
 ポーン、と、空砲のような爆発音がした。
「おお!」
 見ている人々のあいだから歓声があがった。
 一瞬、吹き上がる炎と煙の勢いが弱まったかに見えたが、それもほんの束の間のこと。
「あんなもので火が消えるのかね」
 火勢は相も変わらず、結局、まる1週間燃え続け、燃えるものがなくなってはじめておさまるということになるのだが……。
 その日、自衛隊のトラックに揺られて、高台にあるはまぐみ学園に移送された。
 はまぐみは無傷だった。
 子どもだからと、男女混浴の風呂に入れられ、これも配給品だったと思うが洗いざらしの衣類に着がえ、ようやく人心地ついた感じだった。
 天井を見るのが怖い。
 この頃には余震はほとんどなくなったが、天井を見るたびめまいに似た悪感を覚え、地震の恐怖がよみがえる。
 それから間もなく、ようやく佐渡の家からの迎えも来た。
 だれとどう帰ったか憶えていないが、臨海地帯の一部はまだ水に浸かっており、腰まで泥水につかってバイクの泥をはらっている人を見た記憶はある。 

フォークダンスの夜
 新潟地震は鉄骨平屋の寄宿舎に壊滅的打撃をあたえ、校舎にも甚大な被害をくわえた。そのためほとんどの寄宿生は7月から、市内山二ツの県立盲学校に居候し、新潟交通のバスで半壊した養護学校に通うことになった。
 しかし俺はそのまま佐渡の実家で羽をのばしていた。ただ、前回でこりていたから家でも松葉杖歩行は続けており、9月から寄宿生活に復帰しても歩けないといって戸惑うことはなかった。
 毎朝定時になると、車体に青線の入った別名銀バスが、盲学校の玄関に迎えにきて、ランドセルやナップザックを背負った子どもらを乗せて、山二ツから海老ヶ瀬まで、復興の街中を経由して郊外から郊外へと輸送する。
 そして終業の時間に合わせ、おなじバスが半壊の養護学校校舎に横づけされて再び子らを迎え入れる。
 通学時の楽しみは毎日替わる車掌の美人度チェック、できるだけ先に乗って入口に近い席を占領したいが、俺より足のいい連中が決まって先を越す。その日の車掌の人気は高く、ませた男子学生が先を争って列の前へと急ぐ。
「こら、ブラっ、どけどけ!」
 いじめっ子がしらの干しナッパが強引に列に割って入る。片松葉をつかんだ手をバスの開閉扉にかけ、残る片松葉持つ手に全体重をかけ、一段一段階段を登ってバスの客となった。
 ナッパを真似て乗りにかかるが、こちとらはぴょこたん歩きだからうまくはいかぬ。見送りの寮母さんが尻押しして手伝い、俺もようやくバスの人となる。
 親友の2学年上のヨシジも松葉杖で乗り込み、左右それぞれの松葉と足を同時に交互に進める独特の歩行で大股に歩き、たちまち席についた。
 おなじぴょこたんのサッチンはいつものように俺の横に並んだ。
 あれが初恋といえるものなら、はまぐみ時代、ずっと年上の薄幸の少女に恋した。俺に負けず劣らずやせていて、なにかの手術途中に容体が急変して亡くなったが、死と闘っているその子の病室前に立ち、廊下を通る子ひとりひとりに、「走るな」「静かにしろ」と注意し、子ども心にも必死に守ろうとしたことを憶えている。
 今度のサッチンは逆にまるまると太っており、太っているのがお袋似で頼りがいがある気がした。
 やがてバスが走り出した。民家もまばらな平野の中心を突っ切り、聖陵女子短大を左に見ながら町中に入る。

  夕陽の丘の ふもと行く
  バスの車掌の えりぼくろ

 ヨシジが石原裕次郎にこり出し、俺もそれにあやかり、裕ちゃんが浅丘ルリ子とデュエットしてヒットしたこの歌を覚えた。以来「夕陽の丘」は、バス通学の際の心のテーマソングになった。
 自動車教習所沿いの県道は、かなり長い急坂になっている。そこを昇ると、左手に練習コースが見渡せ、右手ははるか彼方に陰鬱(いんうつ)たる光景が広がっている。
 臨海港の方角に、あの新潟地震で打撃をこうむった昭和石油のものにまちがいない。宙を突いてそびえ立つ2本の細長い鉄塔、その先端から燃えさかる廃油の炎が、煤煙で汚れた鉛色の空を背景に強烈なコントラストで目に迫り、バスがそこを通るたび、視界から消えてなくなるまで見入っていたことをはっきりと憶えている。
 そうして市内を抜け、また郊外を走り、盲学校へは約40分の道のりだった。
 盲学校寄宿舎に帰れば帰ったで、油断はできない武芸者の心境。向こうから歩いてくる盲人と出くわすにも細心の注意がいる。手すりをつたって、勝手知ったる自分の寮の廊下を歩くくらいは健常者と変わらない。ただ、目が見えないから、うかうかしていると凄い勢いで突き飛ばされ、床に叩きつけられてしまうからだ。
 そんな盲学生が、定期的に催されるフォークダンスの夜は、いっそう生き生きとする。
 それぞれパートナーと手を組み、円陣をつくり、曲に合わせて実にじょうずに踊っている。ゆったりとした「オクラホマミキサー」が軽快な「コロブチカ」の曲に変わり、今度は哀愁をおびた「山のロザリア」となって流れている。
 俺はひとりぽつねんと体育館の壁にもたれて、その光景に見とれていた。
「楽しそうね」
 声に振り返ると、いつ入って来たのか、すぐそばにサッチンが立っていた。
「いっしょに踊れたらいいのにね」
 俺はだまって、こっくりした。
 養護学校でもフォークダンスの時間はあったし、松葉杖の障害者もそれなりにダンスの輪に参加することはできた。しかし、手はつなげず、しょせんぴょこたん歩きで作るみすぼらしい輪でしかない。
 日紡貝塚のバレーボールチームが強敵ソ連相手に激闘を演じ、それを衛星中継するテレビに向かって必死に声援を送った東京オリンピックとともにその年の秋は終わった。
 被災の痕跡を残したまま迎えた冬──。
 冬は、ぴょこたん歩きの俺にとってつらい季節──。半壊した校舎では、壊れ目から吹きつける雪で廊下が凍結してつるつるになる。そこを松葉杖で歩くのが恐怖だった。転んだら最後、頭から倒れていき、しこたま凍った床に叩きつけられるからだ。
 そんな思いをして越す冬、来る春。その春は今までのどの春よりも待ち遠しいものとなった。















資料リンク・1964年__[ザ・20世紀]より

コメントは掲示板へ

TOPへ