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俺の酒好きは16の時からだ。
養護学校中学を出たばかりで上京、初めて入った大人の施設の、新宿の国立身障センターでは不良中年たちにみっちり酒の味を仕込まれ、その甲斐あって酒の失敗は数限りない。
センターがどうだったか忘れたが、22歳で入った東京都用賀技能開発学院が“院内禁酒”だったことは忘れもしない。飲酒の証拠を掴むための職員による居室捜索がプライバシー問題に発展、新聞ダネになって学院長の首が飛んだからだ。
ちなみに新聞社に通報したのも、大騒ぎにしたのも、結果(不本意ながら)学院長の首を飛ばしたのも俺たちだったからだ。
ただ、それには2年余の時を要し、入所したてのこの時期は皆従順、黙って規則に従うか、あるいは隠れてこっそり飲んでいることにより問題が表面化することもなかった。
しかし、それではあまりに寂しい。
精神衛生上も良ろしくない。
「酒は呑むべし呑まるるべからざる」如く、オープンあってこそ“百薬の長”。
ではどうしたかというと、初めにカッコ付で断ったように、用賀学院は“院内禁酒”が前提なのである。つまり禁酒は院“内”。
敷地に一歩でも入ったが最後、一滴たりとも許さないが、敷地の外でならどんなに飲もうが醜態を演じようがおかまいなしという、責任逃れの木っ端役人的事なかれ規則なのだ。
だから、外ではよく呑んだ。
就職率100パーセントを誇る用賀学院は、それゆえ就職見込みの薄い車イス者からは「自営計画書」を取ってひたすら貯金を督励したが、俺には「大きなお世話」のこんこんちき。
「車イスだって就職できないでどうする」と日々開き直り、世間の悪弊に宣戦布告するごとく月々の給料手当の大半を酒についやした。
ここにモクネンさんという飲み仲間がいた。他の飲み助同様、彼とは「水車」という赤提灯によく呑みに行った。
水車へは学院裏門を抜けて行く。といってコソコソするためではない。院外飲酒は公然たる自由、裏口出入りはそっちに店があるからだ。
緑の生い茂る田舎道のような一角を曲がり、やがて右手が崖となる道を下って行く。崖といっても断崖絶壁ほどはないが、落ちたら怪我をすること間違いない。手すりもなにもない道を帰りは酔った頭で通ることになる。
水車は崖を下りきって、なおなだらかな坂の途中にある。
マスターはオカマさんのような物腰の優男だが、事実オカマさんだったかどうかは確かめたことも噂があったということもない。そう見えたという俺の個人的見解に過ぎぬ。
狭い店内の一角のテーブルを車イス2人がへばりつくと、それだけで満席になるかと思うくらいの小さなテーブルだ。それにお通しが出てきて、注文を訊かれる。
「オニオンスライス! それに日本酒の冷や」
これが俺の定番だった。
「まあ、よほどこのメニューがお好きなんざますねえー、ほほほほ……」
店長は終始人のいい笑いを絶やさなかった。
玉葱の輪切りにドレッシングをかけただけの一品のどこがそんなにいいかというと、上に乗っているとうもろこしやニンジン、グリンピースのチルド野菜の赤だの黄色だの緑にしあわせを感じるのである。
用賀学院を卒業してアパート暮らしし、自炊を経験した時、何度かやってみたけど、一度として美味いと思わなかったのは、不器用に刻んだ玉葱の不細工さによるものだった。
それはともかく、モクネンさんはその名の通り黙然とするばかりで、呑み会は初めはもっぱら賑やかな性格の俺が話すだけだった。
それが一杯二杯と杯を重ね、ほんのり頬が染まると饒舌となった。ただ、その際にも声はモクネン、決して大きくはなく周囲に彼の声はぼそぼそとしか聞こえぬ。
「あのサー、今度また集まりがあるんだけどサー……」
そらきた。例の勧誘である。
「うんうん」
と、いつも通りに自然と応じた。
モクネンさんは創価学会員だった。
ちなみに日本国民の8人に1人は創価学会信者だといわれていた時期がある。
用賀学院にいた70年代はどうだか知らないが、10人足らずの和文タイプ科で2人もいたのだから、なるほどその指摘はうなずける。
熱々モードの佐藤タケちゃん、吉海サツキちゃんのどちらがどちらを誘ったか、また、双方共、元々学会員だったかは知らぬ。人の恋路の邪魔も詮索もしない俺には興味の外だった。
創価学会は勧誘のしつこさが非難のタネだが、用賀学院では箱岳さんの赤旗勧誘のほうがよほど顰蹙を買っていた。俺の学会信者からの勧誘はモクネンさん以外に記憶にはなかった。
「で、今度のテーマはなんなの?」
当たり障りなく訊いてみた。訊いておいて最後には「考えとくよ」と応じて、「それじゃそれはそれとして」とさりげなく交わして次の話題に振り向けるのがモクネンさん対策のマニュアルだったが……
「平尾昌晃のレコードを聴くんだよ」
モクネンさんの口から意外な答えが返ってきて「ほーお」と俺は目を丸くした。
平尾昌晃といえば昔はロカビリー歌手として鳴らしたが、今は小柳ルミ子や布施明などのヒット曲を手がける人気作曲家である。
セリフ付の『星は何でも知っている』を自分の歌として弾き語りで歌うほか、時代劇好きな俺としては『必殺!』テーマ曲の作者としてもよく知られる。
けだるい雰囲気で歌う女性歌手の哀愁切々たる歌声が聞こえてきた気がして、思わず車イスから身を乗り出していた。
「それっていつよ、行く行く!」
こうして、その晩は常にもなく痛飲していた。
数限りなくある酒の失敗の一は、酔って床屋に入ったこと。連れも一緒で、そいつの剛気に調子を合わせた。
「ホンマぁ、この際、一緒に坊主になるか」
「よっしゃあ、坊主の方が涼しくて頭の回転も良かろう。床屋さん、一番短く刈って。五分? そんなんぬるいぬるい、五厘、五厘……」
そう言って翌朝目覚めたら、自分だけが丸坊主になっていて後悔したことだが……
泥酔しての帰り道。坂の上の、また坂の始まり。その途中の崖の上。ここを通る時は、緊張の余り身を固くして、崖とは反対側の端を必死の形相で車イスを漕いでいたものだった。
そして、その日がきた。
モクネンさん、タケちゃん、サツキちゃんと行った用賀学院そばのある学会員の家を会場にした創価学会分会の定例集会――。
びっくりした。
若い女の子のほとんどが可愛いい子たちであったからだ。初々しく清楚で若さが発散しているような子たちばかりでドキドキした。
〈うーむ。共産党民青は遙かに負けてるな〉
本気で転向を考えたほどだった。
が、しかし……
ひととおりの挨拶。
「今日は新しいお客さんを」と紹介されて悪い気はしない。
われらの池田大作先生は今日も世界を照らすために、われらの心を導くために偉大な献身をされ、などという賛辞はこの際、右の耳から左の耳へと流し――
〈平尾昌晃のレコード。平尾昌晃の作曲歌……〉
〈やはり自分で歌うからには『星はなんでも知っている』だろうな〉
〈それとも五木ひろしの『よこはまたそがれ』や『長崎から船に乗って』を自分で歌うのかな?〉
などと一人頭の中で思いを巡らせていると、司会者の進行が告げられた。
「では、今日のテーマである平尾昌晃さんのレコードをみんなで聴くことにしましょう」
パチパチパチ……と拍手。
プレヤーに、おもむろにレコード針が落とされ、シャーシャーと静かなノイズの中にレコードの開始が告げられた。
〈うーむ、もう何度も使われて盤がすり切れてるのだな。人気のあるレコードなのだ〉
そう思っていると、耳慣れた声が流れた。
平尾昌晃でございます。挨拶だ。少し、本番舞台のMCとは感じが違うが、ていねいな挨拶だ。というか、学会員向け挨拶ということは、学会が開いたコンサートに違いない。
平尾昌晃といえば今でこそ飛ぶ鳥落とす勢いのヒットメーカーだが、全く売れないことがあったという。そうだったのか。その時に創価学会を知り、一生懸命信心に励んだ。
なるほどなあー。そんなこともあるんだ。
しかし、前フリにしては話が長すぎるなあ。
こういうことがあった、ああいうことがあったと信心話が延々と続き、やがて奇跡のごとく曲が売れ始めた。そして、今に至るヒットメーカーとなった成功談が脈々と話された。
みんな熱心に聴いている。
平尾昌晃の声以外は水を打ったようにシーンとしている。そして話が創価学会の賛辞となる。信仰のススメとなり、会長池田大作先生を讃える言葉に昇華されていく。
こうして40分がとこ続き、その間、歌の一曲も聴かれることはなかった。
そして司会のあいさつ。
「今日はたいへん貴重な体験を聴くことができました。信仰に感謝し、また明日からの折伏、信心に励みましょう。池田先生に感謝しましょう」
俺はぽかーんとなっていたが、感想を問われてあわてて答えた。
「はい。たいへんためになるお話をありがとうございました」
と、その夜だけはモクネンさんになっていた。
最初の頃、地元の創価学会青年部には、用賀学院からタケちゃん、サツキちゃんが健常者に混じって参加していたが、すぐあとで身障グルッペという独立したグループ分けがされることになった。
なんのことはない。創価学会でも障害者と健常者の共生は成らなかったのだ。
ただ、共産党とて笑えない。
民青でも、地区グループを割って障害者専門部を作らせようとしたため、俺や別の仲間が猛反発した。その後改善されたかどうかは分からない。
嫌気がさして、そのうち俺は会合には出なくなったからである。
くだらねーっ!
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