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馬事公苑前施設
(用賀闘争篇より)

 その年の2月、日本中の目を引く大事件が起こった。
 雪の山荘を舞台に、人質を取って立てこもった連合赤軍と機動隊との間に血みどろの攻防銃撃戦が展開された。世にいう「浅間山荘事件」である。
 その記録はブラウン管を通じて逐一茶の間に報道され、東京都板橋区のお袋宅で一時はカメラの裏ぶたレザー貼りの内職を勤めたものの、暮れに打ち切られて以来のんべんだらりの生活を続けていた俺が、この世紀の大事件のテレビ映像に釘付けになったことは言うまでもない。
 3か月前、二十歳になったばかりの俺の心に浅間山荘事件は、というより、権力に捨て身で刃向かった“過激派”の若者の行動がどう映ったか。
 それはさておき、浅間山荘事件は遠くの彼方の話でしかなかった俺の人生2か月後。




その1

 1972年(昭和47年)。春4月――
 二十代ほやほやの俺がこんど入った施設は、東京都用賀技能開発学院である。
 世田谷通りを、広い公園をはさんで一本奥まった通りに位置し、目の前にはその公園であるところの、中央競馬会に属する外周2キロ弱の馬事公苑がある。
 東京都は福祉の美濃部の治世――のちに「ばらまき福祉で財政が破綻した」と批判され失脚するが、当時としては美濃部スマイルが売り物の全盛時代でもあった。
 用賀学院は全寮三年制の職業訓練・授産施設で、一定期間の訓練を経て技術力をつけたらあとは授産活動に専念して卒業の日を待つ。
 職種は製版・印刷関係で、軽オフ印刷と活版印刷の双方、それに仕上げの製本部門までと、印刷の工程はほぼ一通り揃っていた。
 まずは「印刷一般」という教科書片手に、グーテンベルグなる人物が登場する印刷の歴史から始まる。活版印刷、オフセット印刷、グラビア印刷などという印刷の分類と、目的に応じた使い分け、さらにはイエロー、マゼンタ、シアン、ブラックの色分割まで習うことになる。
 余談ながら後に自営の製版業を和文タイプからパソコンマックに移行した際、4色色分解の略がC(シアン)、M(マゼンタ)、Y(イエロー)までは判ったが、Kが「クロ」の略である意味が理解できなかった。黒がなぜブラックのBでなくKなのかは今もって判らない
(後註)
 それはともかく……
 そんな退屈な教科書学習が終わるといよいよ実技、身も心も一際ひきしまってくる。
 それぞれ希望の職種に向かうわけだが、車イスではなんでもというわけにはいかぬ。大きな印刷機を扱ったり、重い紙を運んだりといったことはすべからく無理、椅子からでは手を伸ばす範囲にも制限があり、両方から立てかけ三角に渡してある、俗に「馬」と呼ぶ活版活字の棚から文字を拾っていく作業もかなわず、畢竟タイプか写植かというところに落ち着く。
 しかしタイプは新宿の国立身障センターでも経験しており、どうせなら少しでも金が稼げる写植でいきたい。写植といえば印刷製版の“花形”というイメージがあった。
 まずは見学ということになった。
 製本科は自由に歩けたりできるので一見して障害は軽そうだが、知的障害者もいるようだ。松葉杖をついたオッサン風のもいるぞ。こんなのに梱包とか荷持ちができるのかと、何か場違いな感じがした。
 大型の輪転機が場所を大きく占める軽オフセット棟の大部屋はほとんどどこも悪くないような連中が自由に歩き回っている。
 一部例外はあるものの、職種に応じて障害の程度もきれいに分かれている格好だ。
 ここへ来るとき、廊下の窓からタイプ科が見えた。タイプ科もほとんどが車イス。背中が丸まったカリエスとか、体のちんちくりんな骨形成不全とか、唯一歩ける一人は言語障害の重いCP(脳性マヒ)。なんだ、ガイコツの俺を入れたらガラクタばかりじゃないか。
 ところがここ軽オフ棟の一角の写植科の部屋の車イスときた日には、頚椎損傷、脊髄損傷といった交通事故や労働災害による中途障害者ばかりで、一見どこが悪いのか判らぬ。
 やはり写植の方がいいなと思った。脊損は“あっち”の方はダメだか知れないけど(←凄い差別だ!)、見た目は健常者が楽チンこいて車イスに乗ってるだけみたい。あ、貧乳で胸ないけど、可愛いらしそうな子もいるし――
 やはり写植科に決めた!
「あの、今日からここで勉強させてもらいます!」
「おお、本間か。よお来た。みんなもよろしくな」
 先生も気さくな感じだ。
 こうして写植生としての一日が始まったが、一般企業や地域社会を知る世慣れた連中に混じってのスタートで、施設ばかりを転々としてきた世間知らずの俺としては気後れを感じる場面が多かった。
 写植──写真植字はタイプにカメラを併せたような器械を使った組版方法で、一文字ずつシャッターで読み取り、マガジンとよばれる箇所に装填したドラムに巻いた印画紙に焼き付け、現像処理する作業である。何百とある文字の配列は、「いっすんのはば なべぶた しんにょう はこがまえ」と覚える。「一・寸・ノ・巾……」順に並ぶ文字配列表を頭にたたき込んだり、写植機の構造の勉強から始めなければならないのだが、さっきも言ったがここの先生はいたって気さくな性格で、とにかく動かせる範囲で好きな文字を打ってみろと遊び感覚で指導してくれた。
 ガチャコン、ガチャコン〈そう、この音ですよ。音までタイプと違う〉……目につく文字をつなげていく。が、現像して見るまでは点が並んでいるだけなので、まだ面白くない。
 ふと漂う香りに振り向けば、窓からさす日の光を受け、ほっそりと華奢な、胸も小さな乙女のはかなそうな横姿──〈あの子だあの子だ。名前、なんていうのかな?〉
 ああ、やっぱり違う、タイプ科とは違う。なんてったって印刷業界では先端の職種のこの世界で腕を磨くことが中途障害の連中とも対等に渡り合え、いずれあんな可愛いい子とも仲良くなれる、と、軽薄なる滑り出しとなったものの、
「おーい、それじゃ、現像にかかるから、ドラムを巻き取って暗室に持っていけー」と、先生の指示が下る。
 え? 何それ……俺の心を不安がよぎる。手を伸ばし、指示通りドラム巻き取りまではできたが、マガジンを降ろすとなると、〈ううっ、重い!〉そういえば寝坊がしたくていつも朝食抜きだった。だから、体力が――バカ、そんなレベルではない。
 思えば首から下を小児マヒに冒された俺が唯一闊達元気なのは口だけで、ガイコツの右手でさえ利き腕といっても上げるのが精一杯、物を持って降ろすなど到底不可能だった。
「おーい、どうした。写植でやって行くにはそれができなきゃ駄目だぞー……」
 先生の声が追い討ちをかける。同僚の視線が矢のように浴びせかかる。
 どうだ。これか。いや無理だ。肘と手首をテコの応用にてなんとかもたげたものの、それから先は万有引力の法則で落とすしかないのか。そんなことすれば蛮勇――バカ者、ダ洒落てる場合か!
 こうして奮闘むなしく……
「せ、先生、できません!」
 マガジンに伸ばしていた手をがっくりと落とし、「写植はやめます」と言ったきり、俺は火の出る思いでその写植科の部屋をあたふたと逃げ出したのであった。

 註:
 印刷で用いる色は、一般にいう『色の三原色』シアン(C)マゼンタ(M)イエロー(Y)を用いるが、理論上黒になるはずの三色混合が、実際にはごく黒い茶色にしかならない。このため、美しい黒を印刷するため敢えて4色目に黒を用いる。
 この4色の総称がCMYKだが、4色目が英語読みブラックの「B」でなく、日本読み黒の「K」なのはなぜか。それはパソコンで作り出す色が『光の三原色』で、これに含まれる色がR(レッド)G(グリーン)B(ブルー)であることによる。
 パソコン情報において印刷一般を表現する場合、CMYKもRGBも混在させなければならないからである。

(つづく)

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その2

タイプ科初年生

「写植科からタイプ科に本日転属されました、本間康二であります!」
 これで敬礼でもしたらまるで軍隊である。
「君ねー、サクラかポプラかケヤキか知らんが、みんな同期のナントカさんなんだからね。いつまでも希望の職種を決められないで愚図愚図してるからこんなことになるんだよ」
 おとなしいタイプ科担当教官の小股先生はメガネの奥の目をいっそう丸くし、困った顔をするだけだった。
〈それで小股先生か〉
 名は体を表すという格言に妙に納得した。
 それより、困った、じゃない小股先生のもっともな苦言である。
 さんざ迷った揚げ句にやっと決心して写植科に入ったものの、一日も経たないうちにこの体たらくである。しかも、かんじんの写植科からは何の連絡もない。
「困るよなー、勝手にこられたって……」
 小股先生はブツブツ言うだけで、みんなの前をまるで動物園のアリクイよろしく行ったり来たりしていたが、仕方なく自分から写植科に電話してようやく事の次第を理解する始末。
 タイプ科は俺が行って5人になった。「五人の軍隊」だ。丹波哲郎主演の、そんな題名のマカロニ・ウェスタンがあった気もするが、しかしまあ、そろいもそろって弱そうな軍隊だ。
 最年長の灘本さんはカリエスで背骨がいちじるしく曲がっているうえ、腕力(うでぢから)も弱いため不意のショックで車イスから落ちたとき身をかばうことができない。それで頭だけでもて転倒用保護ヘルメットを被っている。
 俺とおない歳でCP(脳性マヒ)の樺山(かばやま)君、小股先生の「名は体を表す」の伝でいけばカバだが、カバというよりおかっぱ坊ちゃん刈りで、のっぺりとした顔は河童だ。これからはカッパちゃんと呼ぶことにしよう。
 あとは骨形成不全症で体が小さい佐藤タケシ君、CPといいながら言語障害のまったくない吉貝幸恵さんまで、自由に歩ける樺山君以外は全員車イスで、用賀技能開発学院では最も障害程度の重い職場のようだった。
 脊損や頚損など、中途障害で腰から下以外の上体がなんでもない障害者と比べて「CPなんて」「カリエスなんて」と見下す一方、反対に自分も障害が重いことで中途障害者への反発があるのも事実で、慣れてみると重度者同士のタイプ科の方が案外に居心地が良かった。
 土台、他人の障害をあれこれ言えた義理ではない。幼時にポリオに罹った障害の身は、ポリオ菌が全身を侵した所為か裸になると骨皮筋エ門、健康診断などで服を脱がされる際には劣等感の塊である。背中だって灘本さん以上ひん曲がっているかも知れない。
 相身互いという思いから、タイプ科ではのびのびとしていられた。
 ただ、ここでも腕力のないせいで文字盤の入れ替えが悩みの種、というより大弱点だった。
 厚いガラス板様のものが文字盤である写植に比べ、タイプの文字盤は直接鉛活字が何千本とあって、書体ごとに3、4キロはあるケースに分かれている。落っことしでもしたら元へ戻すのに大仕事だし、その重さが俺には酷だ。
 書体はゴジックから明朝、それに太い、細いがあり、加えて名刺なんかに使う手書き文字ようの楷書体、また横ラインが細く縦ラインが太いタイポスなんてのもあるから、これらを割り付けに応じて入れ替えるする作業も頻繁。
 文字盤交換ができないこと、すなわち版下製版を完成できないことになる。
 小股先生がまた苦虫を潰した。
「それは困ったなー」
「そんなこといわずに、なんとかして下さいよ。ここを追ん出されたら行き場がないんですよ」
 こうなったら泣き落とし戦術である。
「じゃあ先生がいない時は、おい樺山君」
 というわけで、小股先生やカッパちゃんの親切に甘えて当座は切り抜けた。
 過去に技術を修得しているとはいえ、4年前、新宿の国立身障センターで習ったタイプとここのタイプは別物だった。
 前は日経とか東和というメーカーのもので、カーボンをはさんだ複数枚複写の和紙に打つ契約書類物とか、ロウ塗り原紙に打ち、抜けた穴にインクを染み込ませて印刷する孔版印刷といわれるものだが、ここではその用途はない。
 学院のタイプは全てモトヤ製で、第一、タイプといわずタイプレスという。タイプレス──「レス」がつくということは「タイプでない」という意味。呼び方からして生意気だ。
 では偉そうに何がタイプを超えているのか。
 最もわかりやすい特長は「曲面活字」である。
 タイプは丸いドラム状のプラテンと呼ぶ部分に用紙を巻き付け、それに活字を打ち込んでいく作業。しかし、これまでは活字の表面が平らだったため、湾曲したドラムのせいで打ち出した文字の上下がかすれるという欠点があった。
 モトヤは活字面をドラムの湾曲に合わせて曲面にした。これで驚くほど鮮明な印字が可能になり、これ以降モトヤのタイプで印字したものは「清打ち製版」と呼ばれることになる。
 表面加工した特殊紙を用いれば、准写植文字並みの鮮明度が保たれ、そのままオフセット版下としても使える。活字の摩耗も極力抑える独特の鋳造技術がほどこされ、「コロンブスの卵」はタイプ業界に一大転機をもたらすはずだった。
 「はずだった」というのは、実はこの頃は、タイプレスはまだまだ普及しておらず、一歩も二歩も先を行き過ぎていた。
 「なんでこんなところに3年も」と、施設暮らしに飽き飽きしていた俺にとって、授産期間の後の2年かそれ以上が実に無駄な気がしていたが、その雌伏が幸いした。
 さらには、このモトヤのタイプが思わぬ仕事運を開き、確固たる自活の基盤となるなど、この時、神ならぬ身の俺の知るよしもなかった。
 ただ、それは後々の話として……
 かくしてタイプレス初年兵、否タイプレス初年生としての日々がはじまり、“写植の君”とのほのかな夢も虚しく消えるのである。
 この気持ち誰知るや――。
 そう思って振り返ったところ、佐藤君、吉貝さんが、「サッちん」「タケちゃん」と馴れ馴れしく呼び合い、この二人には早くも恋の芽生えが到来したかのようであった。嗚呼!

(つづく)

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その3

民 青

 腕力のない俺には重すぎるタイプの文字盤交換は相変わらず人まかせだったが、全部が人まかせだったわけではない。
 タイプ本体から机の空間部分に降ろす程度はできたので、最初は割合ひんぱんに使う文字盤を後ろに押いやり、それまで使っていた盤面を開け放ったひきだし上に預け、後ろに押しやった盤面と入れ替える方法で克服した。
 そのうちには車イスに乗った胡座姿勢で文字盤を胡座の膝に載せて移動させる方法まで思いつき、自力でできる範囲も増えていった。
 機械操作を覚えたあとは実践勉強だ。
 といって2字か3字の熟語をただ印字するだけ。テキストを1冊打ち終えたらまた最初から繰り返し。何度も何度も繰り返す。よく見れば熟語の一字一字は盤面の離れた部分にあり、文字打ちの繰り返しによって頭と身体に自然と文字の配置が叩き込まれていくのである。
 写植のように、いっすんのはば(一寸ノ巾)なべぶたしんにょうはこがまえ(亠辷匚)と語呂合わせで覚えるわけにいかず、さりとて旧型タイプのいろは読み配列でもなく、画数の小さい方からの部首順だから慣れで覚え、頭に憶え込ませるしかなかったのだ。
 午前3時間、午後4時間、文字打ちだけの訓練を終え、玄関に面した食堂で夕食を終えると、訓練棟とは反対側の生活棟に帰る。風呂場と女子寮のある1階からエレベーターで3階まで上がって自室に戻ってくつろぐのだ。
 ふたり部屋の相棒は片手が不自由な程度の軽度の障害で、おとなしくて影が薄かった。とはいえ嫌いなタイプではなく、仲が悪いということもなかった。
 不思議なことにというか当然にというか、嫌いな人間こそは鮮明に憶えているものだ。
 そのひとりの箱岳さん。ステッキをついて歩ける程度の障害で年配者だったが、これがガチガチの共産党支持者だった。箱岳さんの大魔神みたいな顔と目にギョロリと睨まれると、誰でも脚を止めざるを得ない。
 そうして演説が始まる。
「田中内閣が、また選挙制度の改悪だねえ」
「僕は選挙には興味がないので……」
「いかんねー、そんなことだから日本はますます悪くなるんだ。日本共産党宮本顕治委員長の『救国と革新の民主連合政権構想』を読んで政治に強くならんかね。今だと赤旗購読料は……」
〈ああ、またやられているわ〉と、対岸の火事よろしくしているところにお鉢が回ってくる。
「本間君、若いんだから民青に入らなきゃ」
 箱岳さんは何度となく誘った。日本民主青年同盟、略して民青、共産党の下部青年組織だ。党員である箱岳さんはとっくに民青の年齢ではなく、それならと若い者を見れば民青へと勧誘するのだった。
 俺は最初のうち相手にしなかったが、楽しいサークル活動で、若い女性だってたくさんいると聞いて民青に入った。
 騙された。
 月に2回とか3回、時には週に1回の割で集まりがあるんだが、楽しいサークル活動どころか、会合のたびに民青新聞や赤旗の読み合わせで、それしかしない。
 宮本顕治共産党委員長の「救国と革新の民主連合政権樹立に向けて」どうとか、「科学的社会主義の事業を成すために」こうとか題する論文の読み合わせをするのだ。
 新聞くらい各自読んでくればすむことなのに、俺のように動機不純な加盟者に対しては読み合わせをさせてでも共産党の方針を徹底させたいのだ。つまりは「洗脳」である。
 それでいて中国やソ連の核実験には、「社会主義国の核は防衛のため許される」という大矛盾を平気でのたもう。
「おかしなことを言うな」
 と疑問を正直に口にする。
 すると、
「そんなことをいうのは分裂主義の始まりだ」
「反党分子のそしりをまぬがれないぞ」
 やんわりと、しかし冷然とした目を向けられつつ批判の矢が飛んでくる。結局ねじ伏せられ、発言を封じられる。
 ところが案の定選挙が近づき、彼ら彼女らがブル新(ブルジョア新聞)とけなす朝日、毎日、読売など、一般新聞の攻撃を一斉に受けたとたん方針転換する。バカかと思った。
 そんな俺でも民青新聞に写真入りで載ったことがある。
 その年(1972年)12月は衆議院選挙が行なわれた。
 同盟員は連日事務局に通いつめ、有権者宅に電話をかけまくった。
「きたるべき選挙の際はぜひ共産党に清き1票をお願いします」
 手当たり次第の票読みを繰り返す。これが個人なら電話魔だ。今ならストーカーで逮捕されるかも知れない。選挙だから許される。おかしなものだ。
 それを電話のベルとリンをかけて「ベルリン作戦」と称したが、色好い返事を受けたときはそれで1票票読みしたことになりカウントを重ねる。
 それの「票読み英雄」にはなれなかったが、水増しも含めかなりの数を読んだことにされ、記者が取材に来た。
 さっそく記事になった。

 ――車イスの同盟員、票読みで革命的成果!

 票読み英雄にはなれなくとも、一躍機関紙ダネ英雄である。その時だけは、あこがれのマドンナ同盟員にもちょっとだけちやほやされた。
 そして一党の機関紙とはいえ、俺が新聞に載ったそれが最初の栄誉(?)だった。
 その俺の水増し票読みと、民青新聞の上げ底ヤラセ記事が功を奏したわけでもあるまいが、この選挙で共産党は衆議院第三党になるという脅威的躍進を遂げたのである。

(つづく)

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その4

みんないっしょ

 俺の酒好きは16の時からだ。
 養護学校中学を出たばかりで上京、初めて入った大人の施設の、新宿の国立身障センターでは不良中年たちにみっちり酒の味を仕込まれ、その甲斐あって酒の失敗は数限りない。
 センターがどうだったか忘れたが、22歳で入った東京都用賀技能開発学院が“院内禁酒”だったことは忘れもしない。飲酒の証拠を掴むための職員による居室捜索がプライバシー問題に発展、新聞ダネになって学院長の首が飛んだからだ。
 ちなみに新聞社に通報したのも、大騒ぎにしたのも、結果(不本意ながら)学院長の首を飛ばしたのも俺たちだったからだ。
 ただ、それには2年余の時を要し、入所したてのこの時期は皆従順、黙って規則に従うか、あるいは隠れてこっそり飲んでいることにより問題が表面化することもなかった。
 しかし、それではあまりに寂しい。
 精神衛生上も良ろしくない。
 「酒は呑むべし呑まるるべからざる」如く、オープンあってこそ“百薬の長”。
 ではどうしたかというと、初めにカッコ付で断ったように、用賀学院は“院内禁酒”が前提なのである。つまり禁酒は院“内”。
 敷地に一歩でも入ったが最後、一滴たりとも許さないが、敷地の外でならどんなに飲もうが醜態を演じようがおかまいなしという、責任逃れの木っ端役人的事なかれ規則なのだ。
 だから、外ではよく呑んだ。
 就職率100パーセントを誇る用賀学院は、それゆえ就職見込みの薄い車イス者からは「自営計画書」を取ってひたすら貯金を督励したが、俺には「大きなお世話」のこんこんちき。
 「車イスだって就職できないでどうする」と日々開き直り、世間の悪弊に宣戦布告するごとく月々の給料手当の大半を酒についやした。
 ここにモクネンさんという飲み仲間がいた。他の飲み助同様、彼とは「水車」という赤提灯によく呑みに行った。
 水車へは学院裏門を抜けて行く。といってコソコソするためではない。院外飲酒は公然たる自由、裏口出入りはそっちに店があるからだ。
 緑の生い茂る田舎道のような一角を曲がり、やがて右手が崖となる道を下って行く。崖といっても断崖絶壁ほどはないが、落ちたら怪我をすること間違いない。手すりもなにもない道を帰りは酔った頭で通ることになる。
 水車は崖を下りきって、なおなだらかな坂の途中にある。
 マスターはオカマさんのような物腰の優男だが、事実オカマさんだったかどうかは確かめたことも噂があったということもない。そう見えたという俺の個人的見解に過ぎぬ。
 狭い店内の一角のテーブルを車イス2人がへばりつくと、それだけで満席になるかと思うくらいの小さなテーブルだ。それにお通しが出てきて、注文を訊かれる。
「オニオンスライス! それに日本酒の冷や」
 これが俺の定番だった。
「まあ、よほどこのメニューがお好きなんざますねえー、ほほほほ……」
 店長は終始人のいい笑いを絶やさなかった。
 玉葱の輪切りにドレッシングをかけただけの一品のどこがそんなにいいかというと、上に乗っているとうもろこしやニンジン、グリンピースのチルド野菜の赤だの黄色だの緑にしあわせを感じるのである。
 用賀学院を卒業してアパート暮らしし、自炊を経験した時、何度かやってみたけど、一度として美味いと思わなかったのは、不器用に刻んだ玉葱の不細工さによるものだった。
 それはともかく、モクネンさんはその名の通り黙然とするばかりで、呑み会は初めはもっぱら賑やかな性格の俺が話すだけだった。
 それが一杯二杯と杯を重ね、ほんのり頬が染まると饒舌となった。ただ、その際にも声はモクネン、決して大きくはなく周囲に彼の声はぼそぼそとしか聞こえぬ。
「あのサー、今度また集まりがあるんだけどサー……」
 そらきた。例の勧誘である。
「うんうん」
 と、いつも通りに自然と応じた。
 モクネンさんは創価学会員だった。
 ちなみに日本国民の8人に1人は創価学会信者だといわれていた時期がある。
 用賀学院にいた70年代はどうだか知らないが、10人足らずの和文タイプ科で2人もいたのだから、なるほどその指摘はうなずける。
 熱々モードの佐藤タケちゃん、吉海サツキちゃんのどちらがどちらを誘ったか、また、双方共、元々学会員だったかは知らぬ。人の恋路の邪魔も詮索もしない俺には興味の外だった。
 創価学会は勧誘のしつこさが非難のタネだが、用賀学院では箱岳さんの赤旗勧誘のほうがよほど顰蹙を買っていた。俺の学会信者からの勧誘はモクネンさん以外に記憶にはなかった。
「で、今度のテーマはなんなの?」
 当たり障りなく訊いてみた。訊いておいて最後には「考えとくよ」と応じて、「それじゃそれはそれとして」とさりげなく交わして次の話題に振り向けるのがモクネンさん対策のマニュアルだったが……
「平尾昌晃のレコードを聴くんだよ」
 モクネンさんの口から意外な答えが返ってきて「ほーお」と俺は目を丸くした。
 平尾昌晃といえば昔はロカビリー歌手として鳴らしたが、今は小柳ルミ子や布施明などのヒット曲を手がける人気作曲家である。
 セリフ付の『星は何でも知っている』を自分の歌として弾き語りで歌うほか、時代劇好きな俺としては『必殺!』テーマ曲の作者としてもよく知られる。
 けだるい雰囲気で歌う女性歌手の哀愁切々たる歌声が聞こえてきた気がして、思わず車イスから身を乗り出していた。
「それっていつよ、行く行く!」
 こうして、その晩は常にもなく痛飲していた。
 数限りなくある酒の失敗の一は、酔って床屋に入ったこと。連れも一緒で、そいつの剛気に調子を合わせた。
「ホンマぁ、この際、一緒に坊主になるか」
「よっしゃあ、坊主の方が涼しくて頭の回転も良かろう。床屋さん、一番短く刈って。五分? そんなんぬるいぬるい、五厘、五厘……」
 そう言って翌朝目覚めたら、自分だけが丸坊主になっていて後悔したことだが……
 泥酔しての帰り道。坂の上の、また坂の始まり。その途中の崖の上。ここを通る時は、緊張の余り身を固くして、崖とは反対側の端を必死の形相で車イスを漕いでいたものだった。
 そして、その日がきた。
 モクネンさん、タケちゃん、サツキちゃんと行った用賀学院そばのある学会員の家を会場にした創価学会分会の定例集会――。
 びっくりした。
 若い女の子のほとんどが可愛いい子たちであったからだ。初々しく清楚で若さが発散しているような子たちばかりでドキドキした。
〈うーむ。共産党民青は遙かに負けてるな〉
 本気で転向を考えたほどだった。
 が、しかし……
 ひととおりの挨拶。
「今日は新しいお客さんを」と紹介されて悪い気はしない。
 われらの池田大作先生は今日も世界を照らすために、われらの心を導くために偉大な献身をされ、などという賛辞はこの際、右の耳から左の耳へと流し――
〈平尾昌晃のレコード。平尾昌晃の作曲歌……〉
〈やはり自分で歌うからには『星はなんでも知っている』だろうな〉
〈それとも五木ひろしの『よこはまたそがれ』や『長崎から船に乗って』を自分で歌うのかな?〉
 などと一人頭の中で思いを巡らせていると、司会者の進行が告げられた。
「では、今日のテーマである平尾昌晃さんのレコードをみんなで聴くことにしましょう」
 パチパチパチ……と拍手。
 プレヤーに、おもむろにレコード針が落とされ、シャーシャーと静かなノイズの中にレコードの開始が告げられた。
〈うーむ、もう何度も使われて盤がすり切れてるのだな。人気のあるレコードなのだ〉
 そう思っていると、耳慣れた声が流れた。
 平尾昌晃でございます。挨拶だ。少し、本番舞台のMCとは感じが違うが、ていねいな挨拶だ。というか、学会員向け挨拶ということは、学会が開いたコンサートに違いない。
 平尾昌晃といえば今でこそ飛ぶ鳥落とす勢いのヒットメーカーだが、全く売れないことがあったという。そうだったのか。その時に創価学会を知り、一生懸命信心に励んだ。
 なるほどなあー。そんなこともあるんだ。
 しかし、前フリにしては話が長すぎるなあ。
 こういうことがあった、ああいうことがあったと信心話が延々と続き、やがて奇跡のごとく曲が売れ始めた。そして、今に至るヒットメーカーとなった成功談が脈々と話された。
 みんな熱心に聴いている。
 平尾昌晃の声以外は水を打ったようにシーンとしている。そして話が創価学会の賛辞となる。信仰のススメとなり、会長池田大作先生を讃える言葉に昇華されていく。
 こうして40分がとこ続き、その間、歌の一曲も聴かれることはなかった。
 そして司会のあいさつ。
「今日はたいへん貴重な体験を聴くことができました。信仰に感謝し、また明日からの折伏、信心に励みましょう。池田先生に感謝しましょう」
 俺はぽかーんとなっていたが、感想を問われてあわてて答えた。
「はい。たいへんためになるお話をありがとうございました」
 と、その夜だけはモクネンさんになっていた。
 最初の頃、地元の創価学会青年部には、用賀学院からタケちゃん、サツキちゃんが健常者に混じって参加していたが、すぐあとで身障グルッペという独立したグループ分けがされることになった。
 なんのことはない。創価学会でも障害者と健常者の共生は成らなかったのだ。
 ただ、共産党とて笑えない。
 民青でも、地区グループを割って障害者専門部を作らせようとしたため、俺や別の仲間が猛反発した。その後改善されたかどうかは分からない。
 嫌気がさして、そのうち俺は会合には出なくなったからである。
 くだらねーっ!

(つづく)

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